第50話 ドリーワン・レベル2 第19話
明日から、夏季補習の後半戦が始まる。
ぼくが1年前、富田紘子の首を締めて、新聞の記事になったという事件のことを、ぼくは図書館でいつもように新聞の縮刷版を広げて調べるつもりだった。
「お兄ちゃん」
出かけようとすると、妹に呼び止められた。
「勉強教えてほしいの」
背の低い妹は、いつもぼくを上目遣いに見上げる。
その顔に、ぼくは弱い。
「今日はどこにも行かないで、ずっと麻衣のそばにいてほしいな」
ぼくは妹の勉強につきあうことにした。
妹は、因数分解だけでなく、英検1級保持者なのに公立中学の3年の英文さえ満足に読めなくなっていた。
妹の使っている教科書は、ぼくが二年前使っていたものと同じニューホライズンだったので、ぼくは父や母が虎の巻と古臭い呼び方で読んでいた教科書ガイドを片手に、日本語訳を手伝った。
「ママがいなくてよかった」
妹はぼそりと言った。
「ママはわたしが勉強ができるのだけが自慢だったから」
涙が、教科書にぽつりぽつりとこぼれた。
母は生前、父の連れ子のぼくの成績には無頓着であったけれど、実の娘の成績にだけはうるさかった。
80点台で平均を軽くクリアしていても叱られるということがたびたびあった。
手をあげられたこもある。
妹は自分の将来のためではなく、母の自尊心のために勉強をしていた。
まだ中学生の女の子なのだ。
ぼくもそうだった。
父から、父が勤めていた会社の社長の孫より内申点の高い高校を受験するように言われていた。
ぼくたちには自分で選択する意思を持つことはゆるされず、ただ言われるがまま勉強をするしかなかった。
そして、ぼくは第一志望の高校に落ち、父はぼくへの興味を失った。
「お兄ちゃんは、麻衣が勉強できなくても麻衣のこと好きでいてくれるよね?」
あたりまえだ。
ぼくは妹の頭を撫でた。
妹はうれしそうに笑った。
いつも笑っていてほしい。
願うことなら、ずっとぼくのことを好きでいてほしい。
ぼくが妹に望んでいるのはそれだけだ。
「でも、こんなに勉強が出来なくなっちゃったら、公立以下の私立も危ないかもしれないね」
妹はそう言って、さびしそうに笑った。
「麻衣、行ける高校なんてあるのかなぁ」
妹は学力でしか、自分の存在を証明できない女の子だった。
7月13日午後二時頃、愛知県立××高校1年2組の男子生徒Aが同級生の富田紘子さん(15)に突然襲いかかり素手で首を締めるという事件が発生した。
六限目の授業が始まって間もなくのことであり、Aは数学教師や他の男子生徒らによって取り押さえられ、駆け付けた××署の警官によって殺人未遂の現行犯で逮捕された。
富田さんは首に全治一週間の怪我を負った。
同署の取り調べに対してAは、動機について「同級生が皆腐った肉の塊に見える」「富田さんがそのことに気付いたので殺すしかないと思った」などと供述しており、詳しい動機については不明である。
今月13日に発生した、愛知県立××高校1年2組の男子生徒Aが同級生の富田紘子さん(15)に突然襲いかかり素手で首を締めるという事件で、××署により被害者の富田さんへの事情聴取が行われた。
富田さんの証言によれば「Aは自分以外の同級生たちや教師たちを死んだ人を懐かしむような目をして見ていた。Aにとって有害な人間を頭の中で殺しているのだと気付き、そのことを事件直前の昼休みにAに告げた」ということである。
富田さんの供述はAの供述の内容に近いものであり、××署は近く責任能力の有無を精神鑑定に委ねる方針を明らかにした。
今月13日に発生した、愛知県立××高校1年2組の男子生徒Aが同級生の富田紘子さん(15)に突然襲いかかり素手で首を締めるという事件で、××署はAの精神鑑定を行った結果、Aに対し責任能力を問えないことを明らかにした。
Aは現在、古戦場跡病院で治療を受けており、治療には最低でも一年はかかる模様。
××高校ではAの処分に関する審議が行われていたが、同校はAを退学処分とせず、回復後の復学を認めると発表した。
尚、被害者の富田紘子さんは26日に退院した。
図書館で、ぼくが一年前に引き起こした事件について、新聞の縮刷版を眺めていると、
「ここ、いいかしら」
と、いつかのように富田紘子に声をかけられた。
富田紘子は山ほどの書籍を抱えていて、それをどんと机に置くと、ふーっと一息つき、
「何読んでるの?」
と、ぼくが机に広げた新聞の縮刷版に目を落とした。富田紘子の表情が曇った。
「ぼくが君の首を絞めた事件について調べてる」
ぼくは富田紘子に、淡々と、事実を述べた。
「それで、何かわかったの?」
事件についての新聞記事を読めば記憶が(少なくともぼくが富田紘子の首を絞めた記憶だけでも)戻るかと思ったけれど、ドリーの言う通り記憶が戻ることはなかった。
「どうやらぼくは君に、ひどいことをしたみたいだね」
だから、自分が彼女にしたことだというのに、他人事のようにぼくは話すことしかできなかった。
記事からは、事件後まもなく彼女が退院したことを告げていたが、しかし彼女は今、再びぼくと同じ教室で授業を受けている。
おそらく事件のショックから不登校になり、そしてぼく同様に留年したのだろう。
彼女になんて声をかければいいのかわからなかった。
ごめん、と言えばいいのだろうか。
ぼくの記憶が過去数ヶ月分しかないことを話したところで果たして彼女は信じてくれるだろうか。
「わたしね」
何を話せばいいのか思案していると、富田紘子が話し始めてくれた。
「四条高校の受験に失敗して、すべりどめのあの高校に入学することになって、親には見捨てられて、中学からの友達もひとりもいなくて、何でこんな学校に入学したんだろうって、去年の春頃ずっと思ってたの。授業中に泣けてきちゃうこととかもあって。本当に嫌だった。何もかも。みんな似たり寄ったりの境遇のはずなのに、教室の中では笑い声や楽しそうなお喋りが聞こえて、なんでそんなふうに器用に生きられるのかなって不思議だった」
富田紘子は、優しい笑みを浮かべてぼくに語り掛ける。
いつだったか、同じ笑顔をぼくは見たことがあるような気がした。
「5月に入って、ゴールデンウィークも終わった頃、それまではわたし以外の人がみんな器用に生きていて、わたしだけが取り残されてるように感じてたけど、そうじゃないことに気づいたの。教室の窓際の一番後ろの席で、いつもひとりで本を読んでいる男の子がいることに気づいたんだ」
それが「加藤くんだった」と、富田紘子はぼくに告げた。
「わたし、きっと加藤くんとなら仲良くなれると思った。友達になれると思った。だけど加藤くんはときどきクラスメイトに何を読んでるのか聞かれても、うっとうしそうに『小説』としか答えないような気難しい男の子だったから、なんて声をかけたら友達になってもらえるのかわからなくて、わたしずっと加藤くんを見てたの」
富田紘子は、ぼくに向けていた視線を下に逸らした。
「毎日加藤くんを見てたら加藤くんのこと好きになっちゃってる自分に気づいて、そのことに気づいたらますます加藤くんに何て声をかけたらいいのかわからなくなった。5月はあっという間にすぎて、6月になってもわたしは加藤くんに声をかけられないままでいたの」
富田紘子は頬を赤く染めていた。
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