第17話

「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんと花火がしたいな」


 賞味期限切れの弁当を食べ終わると、ドリーが言った。

 夕食にはまだ少し早い、午後6時のことだった。


「花火?」


「夏だし、麻衣だって花火したいよ。浴衣も着てみたい」


「また今度でいいだろ?」


「今日したいの。プールだって行きたいし、カラオケとか、ボーリングとか、あっボーリングは別にいいや、プリクラだって撮ってみたいし、麻衣はお兄ちゃんとしてみたいことたくさんあるんだ」


 どうしたのだろう。

 今日のドリーはどこかいつもと違う。

 まるで、妹のようだった。


「今度今度って言ってたら、夏が終わっちゃうよ」


 花火、花火、とせかすドリーをなだめるのには苦労がいりそうだ。


 財布の中には千円札が一枚入っていた。

 浴衣は無理だけど、花火くらいなら買えるだろう。


「そうだね、花火しようか」


「浴衣は?」


「諦めてください」


「じゃじゃーん。そんなことだろうと思って、浴衣はもう作ってあるのです」


 フリルのついたロリータな浴衣を想像して、ぼくは頭を抱えた。

 ドリーは座席のシートの下から、アピタの袋を取り出した。


「嘘です。麻衣ちゃんの通帳からお金を拝借してきました」


 袋から、白地にピンクの花が咲いた浴衣を取り出す。


「これ、いくらしたの?」


 ドリーは服を脱いで、袖を通しながら、


「え? 3万だけど?」


 着替え終わると、当たり前のようにそう言った。


 浴衣姿のドリーはかわいかった。


「お兄ちゃんの甚平もあるよ」


 手渡されたアピタの袋を逆さにすると、紺色の甚平が床にどさりと落ちた。


「これは、いくら?」


「千円」


「えっと、その浴衣はいくらだったっけ?」


「え? 3万だけど?」


 やっぱり当たり前のようにそう言った。


 浴衣と甚平に着替え終わると、ぼくたちは、先ほど弁当をあさったばかりのコンビニへと向かった。


 ドリーは浴衣がよく似合った

 ぼくはまるで時代劇に出てくる小僧のようだった。


「ロケット花火がついてるのがいい」


 ドリーに言われるまま、一番高い花火を買い(もちろん財布の中のお金では足りず、妹の通帳から下ろしたお金で支払った)、火の用心のためのバケツも買った。ジャンプを買い忘れていたことを思いだして、立ち読みの跡があまり残っていないものを吟味している間に、買い物かごの中にはお菓子やジュースが次々と放り込まれていた。


 今日だけだぞ、という約束で、会計を済ませる。


「うん、今日だけでいいの」


 店を出ると、ドリーが腕を絡ませてきた。


「どうかしたの? 今日、ちょっと変だよ?」


「え? ううん、なんでもない」


 笑顔をふりまいてはいるけれど、その笑顔はどこか寂しそうで、絡ませた腕が離れたらどこかへ行ってしまうような気がした。


 たてこもり事件の家の方角が、少し騒がしかった。




 たてこもり事件に何か進展があったらしい、ということは、渦中の家に向かって歩いていく途中で気づいた。


 渦中の家に向かう人たちの数と、取材用車両の数でわかる。


 銃声は田圃のハト避けの空砲と同じだ。

 警官がひとりやふたり射殺されたところで、この町の人々もマスコミももう見向きもしない。


 事件は、この町を変えてしまった。

 喧騒には、もっと他の理由があるはずだった。


「ねー、花火は?」


 コンビニから渦中の家は、公園とは逆の方角だった。ドリーは何度もぼくの腕を引っ張った。


 立ち入り禁止の黄色いテープの前に、ひとだかりができている。


「何かあったんですか?」


 ぼくはそのひとだかりの最後尾の男に聞いた。


「加藤か」


 棗だった。


 ぼくの後ろにいたドリーが、ジャンプして「ドリーもいるよ」と言った。


「元気そうだな。家をなくしたって聞いてたけど」


「それより、何かあったんですか?」


「テレビを見て来たんじゃないのか?」


 路肩に駐車した車に見覚えがある。

 外国製の黄色い車。棗の車だった。

 仕事帰りに車の中でニュースを聞いてね、と棗は言った。

 相変わらず早いご帰宅だ。


「佐野が出てきたらしいよ」


 そのとき、ぼくたちのすぐ後ろにマスコミの車が止まり、中から取材クルーが飛び出した。

 遅れて、見覚えのある顔が飛び出してくる。


「梨本だ!」


「ほんとだ。前忠も来てる!」


 東海林さんはいなかった。


「お母さんの葬儀のときにも来てただろ」


 呆れたように棗がそう言った。


「前忠? 見えないよう」


 背の低いドリーが、ぼくの肩のあたりでぼやく。


「お兄ちゃん、肩車してよ。棗さんでもいいから」


 肩車なんてしたらドリーがまたテレビに映ってしまう。


「確かにここからじゃ見えないな」


 棗がつぶやいた。


「あの家がいいな」


 渦中の家のすぐそばにある、オレンジ色の屋根の家を棗は指差した。


「なぁチドリ」


「そうだね、あの家のベランダからなら、よく見えるだろうね」


 棗弘幸は、ぼくが知る限りもっともいい加減な教師で、完璧な人間だった。


「あの家をもらおう」


 その数分後、ぼくはその理由を知ることになった。




 踵を返して歩き出した棗のあとを、ドリーが追う。


「お兄ちゃんも」


 ドリーにおいでおいでをされて、ぼくも後を追った。


 棗は人だかりを抜けて路地裏へ入っていった。

 すぐそばの民家の塀に登る。

 ドリーを引き上げる。

 そしてぼくを引き上げた。

 塀は細く、ぼくはバランスを崩して落ちそうになる。


「落ちたらおいていくぞ」


 棗が言った。


 隣の家の塀へ。

 もらうと言ったオレンジ色の屋根のあの家の塀へ。


 棗はさっと塀から飛び降りた。ドリーがぴょんと飛び降りた。ぼくはどすんと尻餅をついた。


「運動不足なんだよ、お兄ちゃん」


 ドリーが手を差し伸べてくれた。


 その家の表札には、「棗」と彫られていた。


 遠くから見たときは気づかなかったけれど、この家には見覚えがあった。


 宮沢理佳の家だった。

 ぼくが消した、初恋の女の子の家だった。


 学校のそばに不審者が出没した頃、生徒会で帰りが遅くなった日に、一度だけ彼女を家まで送ったことがあった。


 今夜のような暑い夏の夜だった。

 表札の棗の字の下に、二文字の苗字を潰したような跡があった。だけど、モザイクがかかっていた。


 棗はその家の鍵を持っていた。だけど、その鍵には合成映像のような縁取りがあった。


「もっと新しい家かと思ったけれど」


「ベランダも汚そう」


 ドアを開き、中へ入る。


 宮沢理佳の家が引っ越したという話は聞かない。留守なのだろうか。


 チャイムも鳴らさず表札を書き換えて合鍵を使って堂々と不法侵入しているというのに、誰ひとり顔を見せない。

 居間はテレビがつけっぱなしで、テーブルには新聞が広げられている。中日新聞だ。ちびまる子ちゃんの四コマが載っていた。

 台所では夕飯の支度をしていたらしい。鍋に火がかけられたままだった。

 トイレのドアは半開きだ。


「勝手に入っていいのか? この家の人はどうなったんだ?」


 ぼくの問いに棗もドリーも答えてはくれない。


 階段は、奥だろうか。

 廊下をネズミが走り抜けていく。

 棗が一瞬、ネズミに目を向けると、跡形もなく消え去った。


「もうすぐお兄ちゃんにも出来るようになるよ」


 階段を登る途中、ドリーが振り返ってそう言った。


「ベランダはこの部屋の奥だろう」


 消したのだ。


 最初に娘を消したのはお前だろう。

 咎められた気がした。


 警察車両に照明を当てられて、佐野は、機動隊の大きな盾に囲まれて、両手を上げて立っていた。


 右手に銃を持ち、左手に何か袋をさげていた。中にはペットボトルのようなものが入っているようだ。キャップが見えた。


「あれが、神の水か」


 佐野のラジオを棗も聴いていたのかもしれない。確かに佐野はラジオで一度その名前を口にしている。


「あの様子だと、案内人はいないらしい。典型的な脱落組か」


 初めて聞く言葉だけれど、ドリーのような存在のことだとわかった。


「ドリーワンに振り回されて、わけもわからないまま、目の前に現れた水を神の水だと思い込んだ、そんなところだろうな」


 佐野は挙動不審にあたりをきょろきょろと見回している。


 似ている、と思った。

 ドリーが現れる前のぼくに、佐野はよく似ていた。


 少し同情した。


 機動隊員は、じりじりと佐野に詰め寄る。

 やがて佐野は観念したのか、落ち着きを取り戻した。


 顔を上げる。

 ぼくたちの方を見ている気がした。

 そしてうやうやしく、頭を下げた。


「確保ーっ」


 野太い声が響き渡った。



 佐野に手錠がかけられた。

 上着のような何かを頭から被せられ、パトカーに乗せられた。


 たてこもり事件は、終結した。


「台所、カレーのにおいがしてたね? 食べて帰る?」


 ドリーが言った。


 ぼくは首を横に振った。カレーは嫌いだと前に言わなかったろうか。


「ネズミを見たばかりだからね」


 棗も食べるつもりはないらしい。


「おいしそうだったけどなぁ。あ」


 突然目を見開いて、


「お兄ちゃん、花火は?」


 思い出したように、ドリーが言った。


 右手にちゃんとコンビニの袋を握り締めてはいたけれど、ぼくはもうそんな気分じゃなかった。




 目を覚ますとドリーがいた。


「おはようお兄ちゃん」


 膝枕をしてくれていた。とても優しい笑顔をぼくに向けていた。


「麻衣?」


 いなくなってしまった妹と同じ笑顔に、ぼくは思わず妹の名前を呼んでしまった。


「ううん、ドリーだよ」


 妹はもういない。もう会えない。

 いい加減、慣れなくちゃいけない。

 これからはずっと、ドリーがぼくのそばにいてくれるんだから。


「今朝は夢を見なかったでしょ?」


 ドリーはぼくの頭を、大切な宝物のように抱いてくれていた。


 肩から下りた長い髪が、ぼくの頬に触れ、少しくすぐったい。


「う、うん」


 指ひとつ動かすことのできない、寝起きのけだるさの中で、



 夢を見たとき、その夢からひとつだけ現実に持ち帰ることができる。夢を見なかったとき、現実の大切なものをひとつずつ失う。


 頭だけははっきりと、ドリーワンのルールを思い出す。


 今日もまた、ぼくは大切なものを失ってしまった。


 失ってしまった朝は、それが何かはわからなくても、喪失感がある。

 涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。

 ドリーには何度涙を見せただろう。


「だいじょうぶ。今日は何もなくなってないから。心配しないで」


「本当?」


 うん、とドリーは、笑みを浮かべたまま頷いた。


「今日で365日目。お兄ちゃんがドリーワンを与えられて、ちょうど一年がたったよ」


 ドリーワンが与えられたのは、ぼくが学校へ行くのをやめた日だ。


 ドリーワンを与えられて、その朝ぼくは夢を見ず、居場所を失い、学校へ行かなくなった。

 学校に行かなくなった翌朝から、ぼくはどこかから手に入れたチョークで、部屋の壁に何日が過ぎたか記すようになった。


 チョークは、ドリーワンから持ち帰ったものだった。


 もう一年も、ぼくは学校へ行っていないのだ。


「これまで何人も同じ力を手にしてきた。

 だけど、この日を迎えることができた人は少ないの。

 みんな失ったものの大きさにうちのめされて、がらくたに囲まれて、正気を失って、脱落していく、死ぬことを選んだ人もいる」


 ドリーは、長い髪をかきあげて耳にかけ、そしてぼくにキスをした。


「おめでとうお兄ちゃん。お兄ちゃんは選ばれたの」


 舌が、唇の隙間から、入りこんでくる。



 誰に?


 ドリーワンに。


 ドリーワンって?


 ………。



「今日は選択の日。

 お兄ちゃんはドリーワンそのものになるの。

 もう夢を見たとか見なかったとかそんなことに一喜一憂しなくても、欲しいものを欲しいときに欲しいだけ手に入れることができるようになるわ。

 お兄ちゃんはこの世界のすべてを手に入れることができる」


 それが、棗が見せたあの力なのだ。


「……いらない」


 ぼくは、ドリーの言葉をさえぎった。


「もう、いいんだ。大切なものを失ったことを誰かや何かのせいにしたりするのはもういやなんだ。

 大切なものは誰かにもらったりするものじゃないと思うんだ。

 自分で手に入れるものだと思うんだ。

 ぼくには今、何もない。

 だけど、まだいくらでもやりなおせる。自分の力でやりなおしたいんだ。

 だからそんな力はいらない」


 ドリーは、とても悲しい顔をした。


「後悔しない?」


「うん」


「ただ」


「ただ?」


「君に会えなくなってしまうんだろう?」


 なんとなく、そんな気がした。


「それだけが悲しい」


 指の、腕の感覚が少しずつ戻ってきた。


 ぼくはドリーの頬に触れた。


「ぼくは君のことが好きだったんだと思う。

 君がいてくれたからすべてを失っても平気だった」


 ドリーの瞳からこぼれる涙を指ですくう。


「ドリーも、お兄ちゃんのこと大好きだった」


 今日は何もなくなっていない、ドリーはさっきそう言ったけれど、ぼくはこれからドリーを失うのだ。


 ぼくが一度でもドリーから目を離せば、妹のようにそれきり消えてしまうのだろう。


「お兄ちゃん。もうひとつだけ、お兄ちゃんに教えていないルールがあるの」


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