第37話 ドリーワン・レベル2 第6話

 午後の授業を終え帰り支度をしていると、必要以上に太った、ただでさえサイズの大きな制服がそれでもはちきれそうになっている女に肩をつかまれた。


「あんた、いい加減にしなさいよ」


 学校へ登校するようになって、クラスメイトから始めて話し掛けられた言葉がそれだった。

 彼女は窓際の列の最後尾の席に座っており、ぼくが学校に来るようになってから、教師達の配るプリントがたびたび彼女の前の席でなくなってしまうようになったのだという。

 生徒数も把握していない教師たちの責任だとぼくは思ったが、彼女曰くぼくのせいであるという。


 彼女の名前をぼくは知らなかった。


「あんたのせいで、わたしが北山大落ちたらどうしてくれるのよ」


 知ったことかとぼくは思ったけれど、


「わたしの足引っ張らないでよ!」


 引っ張りたいほどきれいな足をしているのかとぼくは思ったけれど、


「なんとかいいなさいよ!」


「すみません」


 何を言い返しても無駄だろうとぼくは諦めて、謝ることにした。


 この世界には、どんな犯罪者よりも醜い、法に触れずただひたすら他人を傷つけ続ける醜い人間が存在する、ということを、ぼくは長いひきこもり生活で忘れていた。

 彼女たちは、言葉を咀嚼して吟味をするということを知らない。

 思いついた言葉を、それが相手の心をどれだけ傷つけるかを考えることもせず、思いついたままに口にする。


 矛盾があっても、そこに正義などなくてもお構いなしだ。


 持ち前の被害妄想をフルに発揮すれば、彼女たちはあらゆる事象をいくらでも他者のせいにすることができる。

 人を傷つけて嫌われたら、目の敵にされている、と人に話す。

 彼女たちを咎める者など存在はしないから、話された相手はただそうだねと曖昧な笑みを浮かべて気のすむまで話をさせる他ない。

 彼女たちから虐げられるだけのぼくのような存在がその世界からどうにかして脱却しようと無い知恵を振り絞った結果、殺人というこたえが出てしまうことがしばしば存在する。

 それはとても悲しいことだ。


 だけど、それがこの世界ではありふれた出来事なのだ。



「今から職員室に行って、先生たちに明日から一枚余分にプリントを持ってきてくれるように頼んできなさいよ!」


「わかりました」


 ぼくは黙って言う通りにすることにした。


 階段を降りて、渡り廊下を渡り、職員室へ向かう途中、ぼくのあとをつけてくるいかにも太った足音が聞こえ、ぼくは一度だけ振り返った。

 腐った丸い肉の塊がのっしのっしと歩いていたので、ぼくはあわてて下駄箱に向かって走った。


「ばちださいぎょー」


 腐った丸い肉の塊は、駅のホームまでぼくを追いかけてきた。

 滑り込んできた電車にぼくは飛び乗り、肉の塊は駆け込み乗車をしようとして駅員に止められた。

 肉の塊は駅員を振り払いながらも、電車を、ぼくを追いかけてきた。




 廃バスで待っていれば彼は現れる。はずだ。

 ぼくは彼の血痕が残る座席で、1日中彼を待った。

 彼はドリーワンの契約者だ。ぼくのそれとは少し違うけれど。


 理佳を失ったのは彼だった。

 宮沢理佳はぼくがなくしてしまったわけではなかったのだ。

 少しだけ、ほっとした。

 だけど、まだ終わっていない。


 理佳はまだ暗闇の中に閉じ込められたままなのだ。

 理佳を取り戻すには、彼が契機を満了し、ドリーワンの更新を拒否しなければならない。

 理佳が嫌っていた兄は、理佳を失うくらいには彼女を大切に思っていた。

 失ったものの大きさは失ってみなければわからない。

 彼はもう間違えたりしないだろう。


 戻ってきた理佳は、ショウゴやレンジたちのようにPTSDに悩まされるだろうけれど、彼ならきっと妹を支えてあげられる。

 ぼくもいる。


 問題は、彼が契機を満了できるかどうかだ。


 ぼくはドリーワンのルールを書き記したノートを彼に渡すつもりでいた。

 そこにはルールの他に、ぼくが実践した夢を見るためのいくつかの方法が書き出してある。

 それは枕の下に見たい夢の写真を敷くといった、おまじないじみたものばかりではあったけれど。ぼくはそれで使えない大金を手にすることができた。


 そして、ルールとまではいかないけれど、ぼくの経験から導き出した、睡眠時間を一度に長くとり、眠る回数を減らす(夏休みだからといって、昼寝はしない)といった指南じみたものをいくつか書いておいた。死体や核といった人目に触れては困るものの隠し方も。


 廃バスで待っていれば彼は現れる。はずだ。たぶん。


 彼を待って、8時間が経過した。


 彼は今日はこないかもしれない。


 正直に言えば、ぼくもまた理佳と同様に彼をあまり好きではなかった。

 まだ数えるほどしか会っていないけれど、好きになれそうもない。

 彼が契機を満了しようが脱落しようがあまり興味はなかった。

 ただ、満了してもらわなければいけない理由がぼくにはある。


 理佳だ。

 初恋の女の子を取り戻すために彼を利用するつもりでいた。


 だけどもし、彼にとってぼくが大切な友人になってしまったら?


 理佳がどれだけ彼を嫌っても、彼は理佳を失った。

 大切に思う、ということは、片思いの恋のように一方通行でも成立してしまう。

 彼が夢を見なかった朝に、ぼくが消えてしまうということも起こりうるのだ。


 ぼくは座席にノートを置いて帰った。



 ぼくは、臆病者だ。




 妹と喧嘩をした。

 きっかけはとてもささいなことで、妹の作る料理にぼくが不満をもらしてしまったからだった。


 ぼくが生涯付き合っていかなければいけない潰瘍性大腸炎という病気には食事制限があり、食べてはいけないもの食べないほうがいいものが多く存在する。

 油はひかえめに調理をし、テフロンのフライパンを使うなどして極力使わない。

揚げ物はご法度で、肉は鶏肉以外はおすすめできない。魚はいい。


 一般的に食物繊維は体に良いとされているけれど、腸に負担がかかるため避けた方がよかったりする。野菜は繊維に逆らって切り、皮と種はとる、極力火を通すようにする。

 調味料はひえめに。

 嗜好品や刺激物、炭酸類も避けなければならない。


 ぼくはそういう食事を一年以上続けてきた。

 両親が健在だったころ、我が家の食事は母が作る夫婦ふたり分の食事と、妹が作る兄妹ふたり分の食事が食卓に並んでいた。

 妹もずっとぼくと同じ食事を続けてくれていた。ダイエットになるし、と妹は言って笑っていた。お兄ちゃんと同じものが食べたいの、そうも言ってくれていた。


 だけど妹がいなかった間、コンビニの弁当を食べ続けてすっかり舌の肥えてしまったぼくにはなんだか味気無かった。


「お兄ちゃん、どう? おいしい?」


「まずくはないんだけど」


 何気無く言った一言が、妹の逆鱗に触れてしまった。


「食べたくないなら食べなくてもいいよ」


 エプロン姿のかわいい妹は冷たくそう言って、ぼくの前に並んだ精進料理のようなフルコースをかたづけはじめた。


「コンビニの弁当でも買って食べれば? もうひきこもりじゃないんだし」


「なんだよ、せっかく学校行くようになったんだからもうちょっと優しくしてくれてもいいだろ」


「お兄ちゃんは麻衣のために学校に行ってあげてるわけ?」


 言葉につまる。

 学校に行くと決めたとき、その裏には妹がもっとぼくを好きになってくれるかもしれない、そんな本音がぼくの中にはあった。

 ひきこもりのぼくが学校へ行くのだ、それには大変な覚悟が必要だ、妹ならそれをわかってくれるだろうし、外でがんばって帰ってくれば優しくしてくれるはず、今まで以上にぼくをもっと見てくれるはずだ、そんな下心があった。


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