第34話 ドリーワン・レベル2 第3話

「低残渣食を食い逃げした患者はあなたがはじめてよ」


 榊李子先生は、診察に訪れたぼくにそう言った。病院を脱走したことを言っているのだ。


「先生が立て替えておきました」


 入院費も立て替えてくれたのだろう。


「ごめんなさい」


 ぼくは素直に謝った。出世払いで払ってくれればいいから、と先生は言った。これでも先生お金持ちなのよ、別に体で払ってくれてもいいけど。

 ぼくの隣で、妹が顔を赤くした。


 頬を膨らませて、唇を尖らせて、おもしろい顔をしていた。

 やきもちをやいてくれているのだろうか。


「今日は、ちゃんと妹さんがいっしょなのね」


 この間もいっしょだったでしょ、と妹の顔がそう言っていた。食い逃げって何よ、麻衣は知らないわよ、そうも言っていた。


「学くんはロリ服を着た女の子が好きなのかと思って、今日は白衣の下に着てきたんだけど」


 ロリ服が好きって何よ、知らないわよ、妹はぼくの背中をつねった。


「さすがに、こういう服は着れないわ」


 妹の、小学生みたいな私服を指差して先生は言った。


「麻衣ちゃん、あなた来年高校生なんだから、いつまでもそんなこどもっぽい格好してたらだめよ」


 と、ロリ服を着た女医は妹をたしなめた。


「その様子だと、復学したみたいね」


 制服を着ていたわけでもないのに、先生はそう言った。


「体調も良さそうね。鼻血を出して歯茎から血を流して意識を失って倒れてここに運ばれてきたときは、どうしようと思ったけど」


 妹が、またぼくの背中をつねる。


 箱が消えて、放射能の源泉がそばからなくなったからか、ここにかつぎこまれてきたときのような症状は見られなくなっていた。


「これ、渡しそびれてたけど」


 先生はぼくに処方箋と薬袋が手渡した。

 ぼくは袋の中身を確かめる。オレンジの錠剤が何百錠も入っていた。


「ペンタサよ。また飲んでちょうだい」


 そう言った。

 一日3回、2錠ずつ。


「ごめんなさい。今日は妹さんが患者さんだったわね」


 先生は妹に向き直り、だけど妹は何も言わず、ぼくは妹が暗闇を極端に恐れるようになったことを話した。


 1ヶ月暗闇に閉じ込められていた、という妹の体験談についてはぼくは話さなかった。

 先生は事情を知らないけれど、ドリーが妹ではないということはすぐに見抜かれてしまったし、たぶん妹がいなくなってしまっていたということも気づいている。

 妹の体験談には誘拐や監禁といった事件じみた何かを連想させるし、すべてが終わったとはいえ何よりぼくは先生をドリーワンに巻き込みたくなかった。


 ただ、いつから? と聞かれて、一週間前から、とだけ答えた。


「内科医に心の病の相談しないでよ」


 ぼくの話を聞き終えると、先生は笑った。


「でも他に、相談できる人知らなくて」


 先生は、ぼくの言葉に気をよくして、


「ここに行ってみなさい。同じ症状のお友達がたくさんいるわ」


 机の引き出しから取り出した院内地図にボールペンで赤い印をつけた。


「カウンセリングも受けられるし、必要なら検査も頼めばしてくれるはずよ」


 ありがとうございます、とぼくは頭を下げた。妹がそれに続く。


「でも本当にカウンセリングが必要なのは、学くんかもしれないわね」




 そこは、以前入院していたぼくさえも知らない病棟だった。

 精神科病棟、重く冷たい、物々しい厳重な扉にはそう書かれていて、


「ショウゴ」


 その奥でぼくたちは「お友達」と再会した。


 ぼくのせいで行方不明になった中学時代の友人・大和省吾が多目的ホールと書かれた真っ白な広い部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。


「本当にお友達とは思わなかったわ」


 感心したように、呆れたように、榊先生はそう言った。


 どうせ迷ってたどりつけないだろうから、と診察室に勝手に休診の札を下げて、先生はぼくたちをその場所に案内してくれた。

 妹は、ここへ来るまでの間ずっとぼくの腕をぎゅっと抱きしめていた。

 榊先生は、妹の頭を撫でて「何か思い出してしまいそうなのね?」と言った。「無理に思い出さなくていいわ」と言った。



「加藤?」


 大和省吾は、そうぼくを呼んだ。

 ぼくは加藤というありふれた苗字をしているのに、親しい友人からもそう呼ばれていた。妹はぼくをお兄ちゃんと呼ぶ。両親はぼくを学と下の名前で呼んでくれていたけれど、今はもう榊先生と神戸のおじさんだけかもしれない。


「わたしは主治医じゃないからよく知らないけれど、彼も妹さんと同じ症状らしいわ」


 行方不明になっていた1ヶ月以上の間、真っ暗闇に閉じ込められていた、ショウゴはそう語ったという。

 そして暗闇を極端に恐れるようになったのだという。


「俺だけじゃない」


 ショウゴが言ったそのとき、トイレからもうひとり「お友達」が顔を見せる。


「ノボル、か」


 氷山昇は、ぼくたちに気づくそぶりすらみせず、部屋の照明の真下に寝転んだ。

ぼくは先生を見た。


「彼もそうよ。お友達、なのね?」


 ぼくは黙って頷いた。


「ふたりともお兄ちゃんの中学の同級生で、生徒会のメンバーだった人、だよね?」


 妹がぼくの腕を痛いくらいに強く抱きしめた。


 ふたりとも、暗闇を恐れるあまり、光の射していない場所では暴れたり自傷行為をはじめたりするそうだ。

 ノボルのほうが少し症状が重いと先生は教えてくれた。


「彼らに共通してるのはそれだけじゃなくてね」


 先生は言った。


「地震……」


 妹が続けた。


「地震?」


 ぼくだけが話についていけない。


「ごめんね。思い出させちゃったね」


 先生は妹の頭をもう一度撫でた。


「この子たちも、麻衣ちゃんも、暗闇の中で地震を体験してるの」


「大きな地震だった。でもわたしが経験したことがある中で、だからそんなに大きな地震じゃないかもしれない」


 地震なんてもう何年もぼくは知らない。

 揺れたなとときどき感じるくらいで、震源地はテレビでしかわからないような遠い日本のどこかで、この地方はいつか来るいつか来ると言われながらもずっと回避し続けてきた。

 その「揺れたな」すら、ぼくはもう何年も経験していない。


「新潟の方だったそうよ。この町もずいぶん揺れたんですって」


「そう、そんな感じの、地震だった」


「だけど、わたしたちはそんな地震を知らない」


 何年か前に、確かに新潟で大きな地震があったけれど。

 先生は、病棟の奥へと続く通路へ目を向けた。


「花柳宗也くん、神田透くん、真鶴雅人くんに、山汐凛さん、ひょっとして皆学くんのお友達かしら?」


 ぼくは耳を疑った。


「みんなここに?」


「えぇ、一週間前から入院してるわ。

 四人とも今は抗精神薬を投与されて病室で眠ってる。

 話はできないけど、見舞うことくらいならできるわよ」


 別に、いいです、とぼくは首を振った。


「その様子だと秋月蓮治くんもお友達ね」


「レンジも?」


 先生は何故かとても悲しそうな顔をした。


「おまえも、レンジの見舞いにきたのか?」


 ショウゴは部屋の隅から、呪いのように低い声でそう言った。


「あいつに会っても無駄だよ。もう俺たちのことなんか覚えちゃいないんだ」


「おまえは平気なのか? 暗闇が怖くないのか?」


「残念だな。おまえもそうだったら、また中学のときみたいにみんなでつるめるのに」


 ショウゴはぼくと話しているようで、会話は彼ひとりで完結していた。


「あぁ、だめか。生徒会長がいない」


 悲しそうに、ショウゴは言った。


「いない? リカはここにいないのか?」


 少しだけほっとした。


「お前、何も知らないんだな。生徒会長はまだ行方不明だよ」


 しかし、ショウゴはそう言った。







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