第42話 ドリーワン・レベル2 第11話
夢を、見なかった。
「ドリー?」
ベッドにドリーの姿はなく、
「麻衣?いる?」
妹の部屋のドアをノックしても返事はなかった。
ぼくは家中の部屋という部屋を妹たちの姿を探しまわった。
一週間前、ドリーはレベル2が始まったとぼくに告げた。
そして窓の外には探偵が現れた。
探偵には縁取りとモザイクがあり、ぼくがドリーワンで持ち帰ったものだとわかった。
夢を見たとき、その夢からひとつだけ現実に持ち帰ることができる。夢を見なかったとき、現実の大切なものをひとつずつ失う。
妹をもう二度と失いたくない。
家の中はとても静かで、つけっぱなしのテレビの中では羽鳥さんと辛保さんが北京にいた。オリンピックが来年北京で開かれることをぼくは今朝はじめて知った。
妹たちは見付からなかった。
食パンを一枚焼いて食べた。
窓から塀の外側に探偵の姿が見え隠れしていた。
ぼくはもう一度自分の部屋に戻り、まだ探していない場所がないか思案した。
父の6000本のビデオテープに囲まれた部屋。
母のまだ香水の残り香がする寝室。
妹の部屋には鍵がかかっている。
リビング。
ダイニング。
バスルーム。
そして、
陽の当たらない場所にあるトイレに、明かりがついていた。
「麻衣? いるの?」
返事はない。
ぼくはトイレへと続く縁側に腰をかけて、トイレから妹が出てくるのを待った。
「麻衣、おなかいたいの?」
一時間。
「正露丸もってきてあげようか?」
二時間。
「麻衣? そんなとこで寝てたりしないよね?」
四時間が過ぎた頃、ぼくはトイレのドアをそっと開けた。
そこに妹はいなかった。
「お兄ちゃん、何してるの? お腹いたいの?」
妹の声。
振り返ると、ドリーがいた。
「麻衣が、いないんだ」
ドリーは呆れたように、ぼくに告げる。
「登校日」
虫の羽音が聞こえる。
部屋の天井の隅から聞こえているようなのだけれど、天井にそれらしき虫の姿はなかった。
天井裏かとも考えたが、ねずみの足音ならまだしも虫の羽音がそんなところから聞こえてくるはずがない。
羽音はぼくの頭の中で聞こえているのだ。
羽音は蛍のようで、蝿のようで、蝉のようで、ゴキブリのようでもある。
鳴き続けるわけではなく思い出したように鳴く。
ぼくはその虫を知っていた。
教室の腐った肉の塊が七つを数える頃から虫はぼくの視界を飛び回るようになった。
虫は視界の端に現れて、目で追い掛けようとすると視界のさらに端に逃げる。
過不足のある左右非対称の奇数の足が生えた腹を背中にして、同じ数の羽の生えた背中で宙を歩き回るように飛んだ。
腐った肉の塊に見える同級生たち、佐藤や田中や鈴木と紘子は呼んでいた、に、たかる虫と同じ羽音だった。
ぼくは教室から虫を連れ帰ってしまったのだ。
ぼんやりとぼくは天井の隅を眺めながら1日を過ごした。
目をつぶると暗闇の中に虫が見えた。
腐った肉の塊も虫も、縁取りもモザイクももたない。
ドリーワンとは別の何かがぼくの中で始まっている気がしていた。
後遺症のようなもの?
榊先生はカウンセリングが必要なのはぼくだと言っていた。
ドリーは何も教えてはくれない。
「お兄ちゃん」
部屋の外から妹がぼくを呼んだ。
妹かもしれないし、ドリーかもしれない。
ふたりは双子よりもそっくりで、声も口調も同じなのだ。
ぼくにはふたりを見分けることはできても、声を聞き分けることはできない。
「知ってた? もう八月なんだよ」
麻衣ね、もう宿題半分終わらせちゃった、とくすりと笑う。
「お兄ちゃんは?」
そんなものがあることさえ、ぼくは忘れてしまっていた。
終業式の日、同級生たちは皆、いつもより大きな学校指定のバッグを持って登校した。
宿題として買わされる十冊以上の分厚いテキストを自宅に持ち帰るためなのだった。
何も知らないぼくはただひとり普段通りに登校して、宿題を持ち帰ることを諦めた。
宿題はまだ教室のロッカーの中だ。
「麻衣の宿題が終わったら手伝ってあげるね。お兄ちゃん知らないかもしれないけど、麻衣結構頭いいんだよ。高校の勉強、ちょっと興味あるんだ」
そして妹は、もういちど、
「お兄ちゃん」
と、ぼくを呼んだ。
「千鳥ちゃんのことで麻衣いじけちゃったり部屋に閉じこもったりしてごめんね。この何日か、ずっとお兄ちゃんのことばかり考えてた。真っ暗闇の中に閉じ込められてた一ヶ月もお兄ちゃんのことばっかり考えてた」
ぼくは妹を部屋に招きいれた。
「麻衣は、お兄ちゃんが好きです。お兄ちゃんが千鳥ちゃんと付き合ってたって平気、じゃないけど、それでも麻衣がお兄ちゃんのこと好きなのは変わらないし、考えてもしょうがないから考えないことにしたんだ。千鳥ちゃんがこの家に住むのはいやだけど、お兄ちゃんがそうしたいんだったら千鳥ちゃんとも仲良くする」
妹がいとおしかった。
「だから麻衣を嫌いにならないでください」
どうしてぼくはいつもかわいい妹を悲しませてばかりいるんだろう。
ぼくは妹を抱きしめた。
「もうすぐ誕生日だね。誕生日は、お兄ちゃんの好きなものいっぱい食べさせてあげるから楽しみにしててね」
ぼくたちは仲直りした。
妹といるときだけ、虫の羽音は聞こえない。
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