第32話 ドリーワン・レベル2 第1話

 突然だが、時は昨年の夏に遡る。

 ぼくの名前は加藤学。

 再びぼくはドリーワンにまつわる物語をここに書き記そうと思う。



 携帯電話のアラームと、テレビのタイマー。

 朝六時に目をさまして、朝食の支度をし、顔を洗い、着替えを済ませ、妹を起こした。

 おはスタをいっしょに見ながら食べた。

 幼い頃から妹の朝はおはスタと決まっていた。妹がはじめて好きになったタレントはレイモンド・ジョンソンだというのだから筋金入りだ。

 けれど新作のゲームとおもちゃ、カードゲームの情報に妹はあまり興味を示さない。


 不幸な事件も、みのもんたの怒った顔も、朝から見たくはないのだ。


 先に家を出ようとすると、


「お兄ちゃん、今日から学校行くの?」


 喜んでくれるかと思っていた妹は、困った顔をしていた。


「週末から夏休みだよ?」


 ぼくは自分の間の悪さに笑った。


 電車とバスを乗り継ぎ、一時間以上かけて学校へ登校すると、


「二学期からでよかったんじゃないか?」


 案の定、職員室でぼくの担任らしい要雅雪は、迷惑そうに言った。


「今日からじゃないと意味がないんです」


 とぼくは返した。理解できないという顔をされた。机に並んだ教科書や指導書から数学の教師であるとわかった。


「まあ夏休みも補習授業があるから二学期から来るよりいいかもしれないな」


 受けるんだろ? 補習。一年前の成績は優秀だったみたいだから夏休みの間みっちり勉強すれば二学期から授業についていけるだろう。彼は論理的にぼくの登校を自分勝手に納得した。


 ぼくの高校は愛知県で一番新しい県立高校だ。

 進学校で、古くから進学校として県内では有名な四条高校をライバル視している。

 生徒達も大抵は第一志望が四条であった者ばかりで、学力及ばずしかたなく入学した者ばかりだった。

 ぼくもそのひとりだった。


 入学式から早速大学受験一色で、受験ノイローゼでクラスにひとりは不登校になり退学する。

 音楽の授業ではまず校歌を習うのだけれど、早速テノールやソプラノにふりわけられるため、卒業するまで自分のパート以外では校歌を歌えない者が少なくない。

 高校独自のラジオ体操があり、中学でせっかく覚えたラジオ体操第二を忘れる。

 学校祭はなく、学校行事は体育大会と合唱コンクールだけだ。

 合唱コンクールの課題曲は校歌。

 体育の授業では一年中服役囚のように行進をさせられる。

 留学生は日本に来たことを後悔して、二度と来日しない。

 創立二年目にアイドルの後追い自殺をした生徒がいる。



 チャイムが鳴り、要に連れられてぼくは教室へ向かった。

 不登校の間に留年したぼくが所属する一年E組の教室は、校舎の三階の一番奥にある。

 自殺した女生徒が飛び降りた窓のある教室だ。

 下駄箱からは一番遠い教室だった。


 教室は静まり返っていた。

 朝のホームルームでは、毎朝英単語の小テストが行われる。


 今日ぼくは参加しなかったけれど、ホームルームの前には一時間の早朝補習がある。


「ぼくの席は?」


「通路側の一番後ろの席だろ」


 不登校の生徒の席は決まっている。

 生徒やその親が机に貯まったプリントをとりにくるとき、そこが一番とりやすい場所だ。

 机の中には山のようにプリントが放り込まれていた。


「起立」


 椅子をひいたとたん、プリントの束が床へどさりとこぼれ落ちた。


「気を付け、礼」


 ホームルームがはじまる。


 机の上にまた新しいプリントが置かれる。英単語の小テストだ。


 隣の席の女の子が、ちらりとぼくを見た。


 居場所をなくしたから学校へ行かなくなったというのは間違いだった。


 ぼくはこの学校が大嫌いだった。



 休み時間になっても、この学校の生徒たちは勉強しかしない。

 誰もぼくに興味を示している様子はなく、話しかけてはこなかった。

 それだけが救いだとぼくは思った。


 ただ、テレビのワイドショーがときどきニュースでとりあげる「学校裏サイト」の掲示板には、ぼくについての書き込みがあった。

 母親が件のたてこもり事件の民間人唯一の犠牲者であることや、先輩から聞いたという一年前のぼくの不登校になる前の話が書き込まれ、テレビにも映った礼服姿のドリーのキャプチャ画像までが貼られていた。

 こんなものが本当にあるとは思わなかったから少し驚かされた。


「昨日の朝、机の中のプリント床にぶちまけてたでしょ?あれは滑稽だったね」


 ヒロコという名前の誰かが、そう書き込んでいた。


 ぼくは、クラス名簿と座席表で、それが誰かを確認した。

 富田紘子という女子だ。

 隣の席の女の子だった。


 誰の家庭が貧しいのか、誰が処女で誰が非処女なのか、「前略プロフィール」にエロ写メを載せている女子へのリンク、誰だれの親戚には犯罪者がいる、部落出身者がいる。本人とは全く関係のない情報までが書かれていた。

 誰ひとりまだ会話を交していないのにぼくはクラスメイトたちのことを大体把握してしまった。


 彼女達は一日中、誰とも会話を交わさないかわりに、掲示板で短い言葉のやりとりをしているのだろう。


 6限目の授業を終える頃、ぼくはもうくたくただ。


 帰り支度を始めたのはぼくだけだった。この後、クラスメイトたちは補習を受けてから帰り、塾へ行く。

 帰りの電車の中でぼくはため息をついた。

 学校へ行く、と決めたことを後悔していた。


 携帯電話を開く。

 掲示板に新しい書き込みがあった。


「わたしたち、なんでこんな学校に入ったんだろう」


 ぼくが聞きたいと思った。



 ためらいがちに廃バスの錆び付いたドアを開けると、中には先客がいた。

 二週間ドリーと過ごした廃バスだ。


 先客は、男だった。


 アシンメトリーの髪型と整った顔立ち。

 年はぼくと変わらないように見えた。座っているがたぶん背はぼくより頭ひとつは高い。

 有名私立の高校の制服を着ていた。


 後部座席に座るその男は怪我をしているのか、肩に手をあてて、いててと言うと、


「ごめん。ここ君の居場所だった?」


 と言った。


 いえ、忘れ物をとりにきただけです、とぼくは言う。


「忘れ物?」


「そのあたりに花火、ありませんか」


 最後の夜に、ドリーがしようと言って買った花火を、彼女が消えてしまった後、ぼくは忘れて帰ってしまっていた。


 公園を通りがかったとき、ぼくはふとそれを思い出したのだ。

 ドリーはもういないけれど、妹と花火をしたい、と思ったのだ。


「いや、何もないよ」


「そうですか」


 男は顔を歪めながら、身の回りを確認した。

 肩にあてた手をどかすと、白いシャツに血がにじんでいた。


「血、出てますよ」


「大した怪我じゃないよ。ぼく、もう帰るから」


 立ち上がり、重そうな荷物を引きずって廃バスを降りていく。

 学校指定のバッグらしいその荷物は、チャックが閉まらないほどぎゅうぎゅうに何かが詰め込まれている。


 ぼくはそこに合成映像の縁取りと、モザイクを見た気がした。


 たぶん、気のせいだろう。


 あとには、血の跡が点々と落ちていた。

 彼が座っていた座席は、大きく血で濡れていた。


「なんだよ。ちゃんと、あるじゃないか」


 そこに、花火はあった。



 7月1日午前零時に差し押さえられたはずのぼくたちの家は、あしながおじさんのご好意でぼくたちのもとに帰ってきた。


 母の不倫相手は、どうやら今後もぼくたちの面倒を見てくれるつもりらしい。

 妹の通帳には、今月も生活費が振り込まれていた。

 どこの誰だか知らないけれど、ありがたい話だった。


 行こうと思えば大学にも通えるかもしれない、妹にピアノもバレエも続けて通わせてやれそうな額だった。

 花火をしようと誘うと、妹は目を丸くして、どうしたのと言った。


「なんだかお兄ちゃんじゃないみたい」


「どうして?」


「麻衣もお兄ちゃんと花火がしたいなって思ってたの。

 でもお兄ちゃんって麻衣がしたいこといつもいっしょにしてくれないじゃない?」


 妹はぼくの顔をのぞきこんで、「ひょっとして、本当にお兄ちゃんじゃないんじゃ」とぼくの鼻をつまんだり、頬を引っ張ったりした。


「なぁんだ、つまんないの。ソフトビニールで出来てる人形だったりするかもって思ったのに」


 一度だけ着た浴衣を、ドリーはきれいに折り畳んでアピタの袋に入れていた。

ぼくはそれを妹に渡した。


「プレゼント」


 と、ぼくは言った。


「お兄ちゃんから?」


 妹は聞いた。


 ぼくは少し考えた後で、


「公園の砂場のお城を作った子から」


 と言った。


 妹はどんな顔をしたらいいのかわからない様子だったけれど、浴衣に袖を通すとそんなことはどうでもよくなったようだった。


 甚平に着替えたぼくを見て、


「あはは、時代劇の小僧みたい」


 と言って笑った。指までさした。


 本当は公園で花火をしたかったけれど、夜出歩くのは怖いと妹が言ったので、庭で花火をすることにした。





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