第12話
死体があった。ひどい臭いだった。
死後数日は経過しているだろう。
顔は潰されて、生前どんな顔をしていたかわからない。
死体は服を来ていなかった。
男のようでもあり、女のようでもあった。
乳房があり、男根がある。
少年のようでもあり、少女のようでもある。
身長は160センチほどで、痩せていた。死後硬直で体は驚くほど冷たく、固い。
乳房にはアルファベットと数字のタトゥーのような何かがあったが、例のモザイクがかかっていた。
額には大きな手術痕がある。
後頭部がぐちゃぐちゃに潰れており、長い黒髪に赤茶けた血がこびりついていた。
どうやらこれが致命傷だったらしい。
顔は死後に潰されたのだろう。
死体はやはり、写真から切り取って別の写真に貼りつけたようであり、上半身と下半身もまた切り取った写真をつなぎあわせたようにも見えた。
「お兄ちゃん」
ドリーは隠毛に覆われた男根を指でつまんで、これお兄ちゃんにもついてるんだよね、と言って笑った。妹の姿でそんなことをしてほしくなかった。
胃液が食道を逆流する。ぼくは片手で口をおさえた。
しかし、痛いのは腸だった。下痢がもう1週間続いている。今日の便には血が混じっていた。
「これ、誰でもない誰か、なんだよな? はじめから、死体、なんだよな? ぼくが、殺した、わけじゃないんだよな?」
ぼくはすがるようにドリーに訊ねた。
「前にも言ったよね。ドリーワンは命を与えないし、奪いもしない。これは死体という形で持ち帰られた模造品だよ」
ぼくはほっと胸をなでおろす。
「でもお兄ちゃんはこの死体を手放すことはできないよ」
ドリーワンによって手に入れたすべてのものの所有権を放棄することはできない。
そのルールがぼくに重くのしかかる。
誰でもない誰かだとしても、この死体が誰かに見付かれば、身元不明の死体として警察は捜査する。この死体にはもうこの部屋にいたことを示す何かがついてしまったかもしれない。
この死体が誰であるかを証明することはできなくても、死後この部屋にあったことを証明することはできる。警察はぼくを殺人や死体損壊、死体遺棄などの罪で逮捕するだろう。
長い沈黙がぼくとドリーと死体を支配する。
時刻は朝の四時を過ぎたばかりだ。
「庭に埋めるしかないか」
他には何も思い付かなかった。
「殺すしかないよ」
妹が言った。
「お兄ちゃんはあの女に騙されてるんだよ」
そんなことはない、とぼくは言った。
しかし、妹は聞く耳を持ってはくれない。
「お兄ちゃんがやらないなら麻衣ひとりでやる」
妹に人が殺せるわけがなかった。
たとえできたとしても14歳の女の子が証拠を残さずに人を殺せるわけがない。
大切な妹に一生人殺しの罪を背負わせることなどできるわけがなかった。
「わかった。ぼくがやるよ。麻衣は手伝ってくれるだけでいいから」
その夜、ぼくたちはラベンダー畑にあの女を誘いだした。
ぼくには繰り返し見る夢がある。
妹の誘拐事件を発端に、誘拐犯と妹と、ぼくともうひとりの大人、そしてあの女は、ロードムービーのようにぼくたちは北へ北へと逃避行を続けていた。
あの女とは、富良野で出会った。手首にいくつものリストカットの傷と境界性人格障害という心の病を持つ子だった。
妹はぼくではなく誘拐犯に恋をして、あてつけるようにぼくは妹ではなくあの女を選んだ。
しかし、ぼくがあの女を選ぶと、妹はぼくをあの女から取り戻そうとしはじめた。
そして、妹がぼくのもとに帰ってきてくれるならと、ぼくはあの女を殺すことにした。
誘拐犯は棗であり、もうひとりの大人はたてこもり事件の佐野だった。
「学くんだけだと思ったのに、麻衣はいつもお兄ちゃんにべったりなんだね」
あの女も、どこかで見たことがあるような気がする。妹の読んでいた雑誌だったろうか。
ラベンダーの甘いにおいにぼくの決意がにぶる。
後ろ手に握り締めたバタフライナイフが手にかいた汗ですべりおちそうになる。
妹がそっと手をそえた。
「手加減しちゃだめだよ。油断してるうちに一発で仕留めるの。悲鳴をあげられたりしたら棗さんたちに気付かれる」
ぼくはまだ決めかねていた。
あの女はラベンダーを踏みながら、ぼくたちのそばへ歩いてくる。
歩きながら一枚一枚服を脱ぎ捨てて、
「邪魔してごめんね。麻衣はもう帰るから」
ぼくたちのそばへ来る頃、あの女は裸だった。
胸にアルファベットと数字のタトウーがあった。
長い髪が風に揺れて、頭部にある大きな手術痕が見え隠れした。
妹はぼくから離れた。
「そうしてくれるとうれしいな。ね、学くん。ね、今夜はここでしようか」
妹が近付いてきたあの女とすれちがう。
ぼくはあの女を抱き締めた。
決めかねていたのは、本当に殺すのかということではなく、どこを刺すのか、ということだ。
抱き締めた瞬間、背中からナイフを突き立てるつもりだった。
心臓に。
だけど、
「ふたりしてわたしを殺すつもりだったんでしょう?」
あの女はそう言ってぼくの唇を奪った。
背中にまわした腕からナイフが落ちる。
体が動かない。
ぼくにはあの女は殺せない。
目を瞑りながらぼくはそう思い、次の瞬間あの女の後頭部が潰れる音を聞いた。
目をあけると妹が大きな石を握っていた。石から血がしたたり落ちていた。ラベンダーのにおいが血のにおいに消されていた。
妹が、殺した。
「お兄ちゃんはあの女に騙されてたんだよ」
荒い息でそう言った。
「だけど、もうだいじょうぶだよ。お兄ちゃんは麻衣が守ってあげる」
返り血を浴びた妹の笑顔をぼくはいとおしいと思った。
それが夢の中の出来事だ。
夜明けまで、まだ時間がある。
ぼくとドリーは、死体を庭に運び出すことにした。
ソフトビニール製で中身が空っぽのドリーと異なり、死体には中身が詰まっており、まだこどものぼくたちには重かった。
階段でドリーが手を滑らせて、ごとごとと死体は落下した。
潰れた後頭部から脳漿が階段と、玄関に散乱した。
「あとで片付けよう」
ぼくはそう言って、とりあえず死体を庭に運び出した。
庭は、生前の父が収集の他に唯一趣味としていたガーデニングによって様々な植物に彩られている。
しかし、父の死後一切手入れされておらず、夏が近づくにつれ花を咲かせてはいても、蜘蛛の巣がはりめぐらされ今ではもう見るに耐えない。
それが腕に、頭に、まとわりつく。
全長5,6センチはあろうかという大きな蜘蛛が、壊れたそばから巣の修復をはじめる。
妹がいなくなり誰も新聞を取りに行かなくなっていた。
「知ってる? もうすぐ中日新聞でちびまるこちゃんの四コマ始まるんだよ」
ドリーが言った。
どうでもよかった。
新聞受けから何部もの新聞がはみ出しながら突き刺さっており、花のようにも見えた。そこにも蜘蛛の巣が張っている。
毎日二部ずつ届く新聞は、もはや新聞受けにはおさまりきらず、庭に投げ込まれていた。
ドリーが新聞に足をとられころんだ。
ころんだ拍子にきゃっと声を上げ、ぼくは唇に指を当てた。死体の体液のこびりついた指がひどく臭った。
家の外に二人組の刑事はいなかった。
コンビニに食糧の調達にでも出かけているのだろうか。
二人揃ってそれはないだろうと思ったけれど、あの刑事たちもぼくが生み出した架空の刑事なのだ。テレビドラマで見るような、あるいは父の死後捜査に訪れた刑事たち、ぼくが知る刑事はその程度のもので、彼らは本物の刑事ではないから、張り込みの最中に二人揃ってコンビニに行くくらいのことはするかもしれない。
そんな間抜けな刑事たちをぼくは一生そばに置いておかなければならないのだ。
百人乗っても壊れない物置の陰に死体を隠し、スコップをひとつ出すとぼくは庭に穴を掘り始めた。
「刑事たちが来たらすぐに教えろよ」
ドリーは見張り役だ。
「刑事だけでいいの?」
楽しそうにそう言った。
「近所の人に見られたらどうするの?」
その質問にぼくは応えなかった。
テレビのニュースでは時折、山中に埋められた死体が発見されるといった報道を目にする。
人は死体をどう埋めるのだろう。寝かせたままか、赤ん坊のように体を丸めてか。体を丸めるなら、大昔の屈葬のように体中の骨を砕いてからか、それともいっそ死体をばらばらにしてしまうのか。
ニュースではそこまでは教えてくれない。
穴を掘るには、時間がかかる。
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