第40話 ドリーワン・レベル2 第9話
素肌の上にオーバーオールを着て、ニット帽をかぶったその男はまだ二十歳そこそこといったところだろう。
男は、窓の外からぼくたちを見つけると、頭を下げて、玄関のチャイムを鳴らした。
「はじめまして。私、私立探偵兼フリーライターの硲と申します」
男は、探偵にもライターにもおせじにも見えなかった。
父や母の死後、探偵やライターといった肩書きの人間を何人も家のまわりで見てきたが、その中に男のような人種はいなかった。
私立探偵とフリーライターというおよそもうかりそうもない仕事をふたつ肩書きにするその男は、一枚の名刺をぼくに差し出した。
男はミートパイで口のまわりをべたべたにしていた。
「あっ、ミートパイのお兄さんだ」
ぼくの背中でドリーがうれしそうに声をあげた。こいつか、とぼくは思う。やあ、チドリちゃんだったね、と男は片手をあげた。
「ミートパイおいしかったよ」
「それはよかった。よかったらもうひとついかが?」
男がオーバーオールの腹についたポケットからミートパイの箱を取り出した。
「いいの?」
「いいよ。そのかわりにお兄さんから少し話を聞かせてもらうけどね」
よくない。
ぼくはそう思いながら手渡された名刺を見ていた。
そこにはエンジェル・ミート・パイというロゴと彼が名乗ったのとは違う名前が書かれていた。
「これは失敬」
男はぼくの手から名刺を奪った。
「実はこのミートパイ会社の肉が段ボールを肉に似せたものだという内部告発がありましてね。昨日この人から話を聞いてきたところなんですよ」
名刺を腹の大きなポケットに、まるでドラえもんのように入れた。
「実は私、名刺持ってないんです。もうからない仕事をかけもちしたら余計もうからなくなってしまいまして」
「うちに何かご用ですか?」
探偵にも、ライターにも用はない。
「いえ、あなたに用がありまして、今日お伺いしたのは探偵のほうの仕事なんですが」
「帰ってくれませんか?」
「あなた、宮沢渉くんを殺したんでしょう?」
男は、窓の外からぼくたちを眺めながらミートパイを食べていた。
「どういうことだ?」
「何が?」
「あの探偵だよ。縁取りとモザイクがあった」
知らない奴のはずなのに、ぼくはあいつを知っていた。
「何日か前に見た夢に出てきた」
探偵七つ道具を六つしか持たず、七つ揃わないと気が済まなくて事務所におきっぱなしにしている探偵だ。
「わたしに聞かなくたって、わかってるんでしょ?」
「ドリーワン、だよな」
「ご名答」
刑事の次は探偵か。
ぼくはまた容疑者らしい。
大丈夫。
今度もまたうまくやれるさ。
相変わらず補習授業が続いている。去年問題になった受験に必要ない科目の授業数の確保は、補習という形でぼくたちから夏休みや冬休みをけずりとっていく。
「加藤くん、でいいのかな」
一限の後の休み時間、隣の席の女の子に声をかけられた。
何が、とぼくはこたえた。
「一応クラスメイトだし、でもひとつ年上だし、何てよんだらいいのかなって」
背は妹と同じくらい。たぶん150センチないだろう。眼鏡がよく似合う、髪の長い女の子だった。
「加藤、でいいよ」
「呼び捨てはまずいでしょ」
「じゃ、加藤くんで」
さん付けなんてされたら居心地が悪くてしかたない。
「君は?富田さんだっけ」
「うん富田紘子。紘子でいいよ」
いつか学校裏サイトの掲示板で彼女の書き込みを見た。ぼくのことをわらいものにしていた。翌日名簿で彼女の名前を確認したとき紘子という漢字がとてもきれいだなとぼくはただ思った。
「わたし加藤くんにお願いしたいことあるんだ」
紘子は、四月に委員会や係を決めたときぼくが一応図書委員になっていたことや、彼女も図書委員であること、夏休みも図書室は開いていて図書委員は担当の曜日にカウンターに座って本の貸し出しや返却の受付をすることなどをぼくに告げた。
「今日、わたしたちの当番なんだ」
チャイムが鳴り、と同時に英語の長谷川という教師が教室に入ってきた。
紘子は席へ戻り、きりーつ、れーい、室長の号令で授業がはじまる。
ぼくは教室を見渡した。
椅子に座る肉の固まりの数が増えていた。
補習の後、ぼくは紘子に連れられて、図書室へ向かった。
図書室は職員室のある棟の三階にある。ぼくたちの教室も三階だけれど、図書室に向かうには一度二階に降りて連絡通路をわたらなければいけない。
「委員会かぁ。なんか面倒そうだな」
階段を降りて、また登る。ぼくは踊り場でぽつりと言った。
そうでもないよ、と紘子は言った。
「この学校の生徒はね、誰も本なんて借りないの。図書室は授業の後に勉強をするところで、蔵書はただの飾り」
ここには二万冊の本があるけどたぶんテキストデータにしたら一枚のDVDに全部おさまってしまう、わざわざ本を置くのはここが自習室じゃなくて図書室だと誰かに弁明するためにあるの、と紘子は言ってハードカバーの分厚い本を机にひろげた。表紙をめくり、頁を何枚かめくった後、千枚はあるだろう頁のちょうど真ん中あたりを見開いて、左のページにカッターのナイフをあてた。
ぼくはそれを見て見ぬふりをした。
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