第1話

 目の前にそびえる薄っぺらい障子戸が、圧倒的なプレッシャーで精神にのしかかってくる。


 この薄紙一枚隔てた向こうに自分の未来を左右する人物がいると思うと、身体が振動するほど鼓動が激しくなる。

 その奥から感じる圧力に精神も肉体も押しつぶされ、自然とひれ伏してしまう。


 頭を下げて視界に入るのは、僅かな溝にも塵一つない床板。

 さすが本家、見事な掃除っぷりだ。

 長年磨かれ続けた床板は鏡のようで、天然パーマのひきつった顔がよく写っている。

 着慣れない和服と、アバンギャルドな毛髪の調和しないことときたら我ながら苦笑いだ。

 髪の毛も魔法でなんとかできたらいいのに、と何度思ったことか。

 しかしそんな思いを抱えながらついにここまで来た。


 緊張でカラカラに乾いた喉から声を絞り出す。


「本日からお世話をさせていただくことになりました。兎羽うさば天外てんがいです」


 ……なんの返事もない。


 返事どころか、衣擦れの音ひとつしない。


 世界が時を止めたかのように、リアクションの気配もなかった。

 静寂の時が流れるに従い緊張が増し、不安と一緒に廊下の冷たさが足元から広がってくる。


 頭を下げたままだったから声の通りが悪かったのかもしれない。

 ゴクリと唾の塊を飲み下し、顔を上げて口を開いた。


「兎羽天外で――」


 音もなく障子戸が左右に開いた。


「――あ、あ、愛してます!」


 予期せず開いた障子戸に驚き、勝手に口から上ずった声が飛び出た。


 いた!


 物の殆ど無い広い和室の真ん中に、置き去りにされた人形のように座っている。

 

 崇御すうみ雅ら理からり様、その人だ。


 正月や式典などで遠くから見たことはあり、ネットに上がっている写真などでもお馴染みの顔。

 ただしこんな間近で、手を伸ばせば届くほどの距離で見たのは初めてだ。


 掃除の行き届いた部屋の中に、コントラストの強い濃紺の和服、結い上げた黒い髪、そしてそこから覗く陶器のように白い肌。

 着物の模様として散っている薄紅色の花の延長のように艷めく赤い唇。


 微妙にこちらを向かない角度で座っているために、斜めから見えるその姿は絵画のモデルのようでもある。

 なによりも、天外の存在をまったく意識していない。

 視線をこちらに向けるどころか、首の角度も、身体のあらゆる部分が時間が静止したように固着していた。


「邦魔です! ボクは、邦魔を、とても愛して――」


 はい、失格ー! とでも言いたそうに目の前の障子が音も立てずに閉まっていく。


「――あ、待って」


 思わず手を伸ばし、障子戸を抑える。


 凍ったように動かなかった雅ら理様が、こちらに顔を向け、口元がほんの僅かに隙間を開けた。


 反射的とはいえ、とんでもないことをしでかしてしまった。

 本来なら「少々お待ちください」と言うべきだし、そもそも天外などが意見を言える立場でもない。

 そもそも勝手に部屋の戸を開けるなんて許されるわけがないのだ。

 しかしやってしまったことはしょうがない。

 なんせ、あのまま失格じゃやりきれない。


 それよりもこんな間近で、雅ら理様の顔を正面からまじまじと見れるなんて。


 魂が吸いこまれそうな白目がちな瞳。

 それを支える真っ直ぐな鼻筋も名工の拵えた刃物のような怖さがある。


 ずいっと身体を半歩前進させ、膝頭が敷居につくほど乗り出す。


「本日より、雅ら理様の世話役を勤めさせていただくことになりました。兎羽天外です。趣味は稽古、邦魔一筋です。よろしくお願いします!」


 言い切った。

 今度はちゃんと言うべきことを言い切った。

 ついでに自己アピールも追加した。


 。と、自伝に記されるだろう。

 それほど輝かしい歴史的な出会いの瞬間だった。


 天外のパーフェクトな挨拶を聞いた雅ら理様がすっと視線を外すと、また先程と同じように障子戸が音も立てずに閉じてきた。


 先程と一つだけ違うことといえば、天外が半歩だけ前に出たということだけであり、さらに言えば障子戸がしまる敷居の上にちょうど天外の顔があったということだけだ。


 音も立てずに閉まるはずだった障子戸は、鈍い音を立てて天外の顔を挟んで止まった。

 危うく一大事になるところだったが、天然パーマが衝撃を吸収してくれたおかげで圧死はま逃れた。


 障子の間に顔だけ挟まった不思議な生き物を見た雅ら理様は、それまでの無表情を崩した。

 目を丸くして小さな黒目がキュッと収縮する。

 柔らかそうな眉毛を上げ、小さな唇が開く。


 人生のターニングポイントとなる存在に出会い、言葉をかわすこともないまま会心の珍フェイスを見せた。

 ここでご機嫌を損ねるようなことがあっては、兎羽天外の綿密な人生設計がスタート地点で瓦解する。

 この文字通りの窮状を乗り切る機転の効いた一言はないものか。

 障子に挟まれたままの頭をフル回転させる。


 こちらを見つめる雅ら理様眼差しは真剣そのもので、それだけに時間がたつほどに緊張が高まっていく。

 まるで伝説の剣豪と対峙したような絶体絶命のピンチ。


 かつて時代劇で見た真剣白刃取りのシーンではこう言っていた。


「お見事でございます!」

「……くふぅっ」


 喉の奥で何かを嚥下するような音がして、雅ら理様はわずかに身体を小刻みに震わせると、目尻と眉を下げ泣きそうな表情を作る。


 サッと障子戸が滑るように開いて天外の頭が自由になる。


「くくっ」


 雅ら理様が小さな声を漏らして身体をかがめた瞬間、また鈍い音が響き、再び障子戸が天外の顔を挟んだ。


「これまた結構!」


 頭蓋骨に響く痛みに自棄になり、天外はまっすぐ大きな声でそう言った。


「……ヒクゥッ」


 ついに雅ら理様は背中を丸め、頭を畳につけ土下座をするような形で震え始めた。


 三度、障子戸が大きく開く。


 天外は歯を食いしばり、受け止める覚悟を決めた。

 これがわざとではないこともわかっている。

 魔法は精神の集中が必要なものだ。

 くしゃみや、しゃっくりのせいで力加減が制御できず失敗するというのもよくある話。

 だからこそ、邦魔の世界では魔法の失敗を笑ったりすることはない。

 それも含めて魔法だからだ。


 しかも眼の前にいる人は雅ら理様なわけで、むしろ天外にとっては、あの雅ら理様でもこういうことがあるのかと特別な場面に出くわした喜びすらあった。


 障子戸が滑る音が耳元で鳴る。

 衝撃に備えて目を固く閉じる。


 そんな天外の頬を襲ったのは、固い障子戸ではなく、冷たく柔らかい感触だった。


 眼を開くと、そこには雅ら理様の顔。

 両手を天外の頬に当てて向かい合うような形になっていた。


 思いもよらない状況に呼吸をすることすら忘れた。

 目の前に、本当にすぐ近くに、雅ら理様の顔がある。

 その尊い御手は天外の頬にそっている。


 雅ら理様は立ち上がると、天外に背を向けて言った。


「下がって結構です」


 初めて直に言葉をもらった。


 胸に染み込ませるようにその言葉を受け止め顔を引っ込める。

 障子戸は邪魔がなくなり、静かに動き合わさる音もさせずに閉まった。


 記念すべき出会いは天外にとって最高の思い出となった。


 安堵して立とうとしたがなぜか身体が動かない。

 緊張から開放された衝撃で金縛りになったかと思ったら、前髪が障子に挟まれている。

 最後まで自己主張の強い毛髪だ。


 これは部屋の中から見たら障子戸の隙間からモジャっとしたパーマが生えていて気持ち悪いのではないだろうか。


 首に力を入れて抜こうとするけど意外にがっちりホールドされてて抜けない。

 少し隙間を開けようと障子戸を引くがビクともしない。


 自動的に開いたり閉まったりする上、雅ら理様がいるのだから結界のようなすごい魔法が施されていてもおかしくない。

 そうだとしたらちょっとやそっとの力じゃ開かない。


 天外は息を止めて障子戸に渾身の力を込めた。


 障子戸がサーッと滑り、開き切ると勢い良く音を鳴らした。


 部屋の中では雅ら理様が顔を両手で挟んでムンクの描いた『叫び』のような表情を鏡に写していた。


 天外は精一杯の笑顔でにこやかに会釈をする。


 そのまま、この数秒の時が存在しなかったかのように障子戸が静かに閉まった。


 結界のように閉じてしまった部屋の中にいたのは、邦魔、総本家、真玉しんぎょく流の家元、崇御家の当主。


 天外より一つ下の14歳という若さで邦魔における最高権力者に君臨する存在。


 崇御雅ら理様は、切ないほどの神秘さを携えた美しい少女だった。

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