三時間目(足裏への倒錯的な愛撫について)

「シャノン、続けられそうか?」

「ヴィクター、見ましたか、ああ、ああ……」

前髪を掴んで顔を隠し、つま先でシーツを引っ掻くようにしてシャノンは言う。指の隙間から覗く濁った目は鋭角の光を湛えてギラギラと危うい。ヴィクターは譫言めいてさえいるその言葉にもっともらしく相槌を打ってやった。普段の冷静さが欠片も残っていないシャノンを見ながら、鎮静剤かなんか持ってくるべきだったか、とヴィクターは思った。

「なあリロイ、前に貰った疼痛緩和薬の在庫ってまだあるか?」

手に粉をはたいていたリロイがいぶかしげに振り返る。リロイは話を聞くため、閉じた缶を引き出しにしまい込んだ。

「俺が調剤したやつか? そりゃあ当然あるにはあるが。何に使う気だ? 具合が悪くなったのなら中断して茶を入れるが、どうする。時間はあるんだろう。少し休んだって罰は当たらないはずだ」

リロイの言葉にヴィクターは眉を上げた。

「ああいや、主張はもっともだが使うのは俺じゃない。でもそうだな、別に調子が悪いって訳じゃないが、茶はくれると助かる。俺はあれが好きなんだ、終わったら出してくれ。……話が逸れたな、本題はこっちだ」

言いながら、ヴィクターは未だ落ち着かない様子のシャノンを示した。リロイは顔をしかめる。

「……やめておけ、あんなものをシャノンに飲ませるわけにはいかない」

「俺には良いのか?」

ヴィクターは肩をすくめ、いたずらっぽく返す。リロイはため息をついた。

「その体に合わせて作った薬なんざおいそれと他人に飲ませられるわけがないだろう。長年の過負荷で神経が大分食われている、感受性の摩耗をいい加減自覚してくれ。俺たちはもう若くないんだ」

苦い顔で言ったリロイに対し、ヴィクターは眉を下げて苦笑した。

「だな。いや悪かった。気をつけることにしよう」



「さて、準備は良いか?」

指先でつんと足先に触れる。訓練で折ったこともあっただろうに、とヴィクターは思う。そんな気配を微塵も感じさせない、よくよく手入れされているのが分かるきれいなつま先だった。爪はきちんと削られていて、柔らかいかかとにはひび割れの一つもない。ヴィクターは目を眇めた。そうして足先を眺めているヴィクターにリロイは後ろから声をかけた。

「そんなところまで触る気か。あまり慣れていないと言っていたはずだ。段階を踏んでいった方が互いのためだろう」

チラリとシャノンを見やり、声を潜めてリロイは言う。ヴィクターはどこか含みのあるような様子で目を細めた。

「せっかくのロケーションだろ、それに今日は羽目を外すって決めていたんだ。無論シャノンにもその旨を伝えてある」

そこまで言ってから、おっと、と言ってヴィクターは指先で口を押さえた。言うつもりのないことだったのだろう。聞いたか? と尋ねてきたので、リロイは聞かなかったような振りをしてやった。シャノンを巻き込むのはよせと言ってもよかったが、リロイはそれを選ばなかった。本来ヴィクターは節度を知った男だ。淫蕩な振る舞いに見えたとして、これも何かしらの必要あってのことなのだろう。あるいは互いの信頼の表れか。なんにせよ長らく交流を断っていたリロイに知る由は無く、あれこれ注文を付けるのはお門違いの行為にも思えた。

「……ほどほどにしておけ」

「そりゃあな! 言われなくたって分かってるさ。心配性は相変わらずだな」



「事によっては痛いかもしれないが許してくれよな」

からからと笑うヴィクターにリロイのため息が被さる。どことなく弛緩した雰囲気のやりとりだった。寝転がったままのシャノンの頭をリロイはやさしく持ち上げた。

「……途中、気分が悪くなったら迷わず教えてくれ」

弾力のある硬いクッションのようなものに頭を置かれ、頭上からリロイの声が振ってくる。気を遣わせてしまったな、と思いつつ、シャノンはちょうど良い場所を探った。そうして頭を落ち着けてから、肩を降ろして全身の力を抜いた。目を開けると自分を見下ろすリロイの顔があった。どうかしたか、と声が落ちる。そこでようやくシャノンは今自分が頭を預けているものが何であるのかに気が付いた。頭の下にあるのはリロイの足で、クッションのようだと思ったのはリロイのキルトだ。反射的に放してくれと叫びそうになったが、運のよいことに驚きすぎて声が出なかった。無様を晒す事態は免れたが、気が気でないのは変わりない。そうしている内に髪がくるくると引っ張られ、ゆったりとした手つきに勢いを削がれてしまった。リロイは何を考えているのか、指の横で頬をなぞったり髪を指に巻き付けたりしている。先ほどよりも近付いたせいか、身じろぎする度にほんのりと枯れた草木の匂いがした。供された茶と似た、しかし薬臭さや甘さの感じられない干し草めいた匂い。リロイを象徴するようなそれが、古い布の匂いと混じり合って鼻腔を通り、奇妙な酩酊が脳のあたりまで這い上がってきた。まったりと緩んだような空気感と鮮鋭な神経の具合とがどことなく捻れて接続されている。シャノンは脳を冷やす感触にぞくりとする。

「シャノンの髪は柔らかいんだな」

どんな表情で答えれば良いのか分からないまま、シャノンはこくこくと頷く。柔らかい? そうだろうか、とシャノンは思う。自分たちに髪を触る文化的習慣はない。当然リロイはそれらを比較して答えを出したのだろう。月色のまっすぐな髪と、自分の短い巻髪とを。そういえば、ずっと昔に戦果のねぎらいとしてヴィクターから撫でられたことがあったな、と思い出す。あのとき頭をぐしゃぐしゃにかき回していったヴィクターは、なにか思ったのだろうか。自分の髪に対して、今のリロイと同じように? シャノンは自分の足下にいるヴィクターに意識を向けた。闊達な気質を持つ、剣術と魔術の師。今回のことの仕掛け人。

「なあリロイ、クリームっておまえも使うか?」

飛び交う声に意識が引き戻される。

「いや……缶が引き出しにある。残さずとも良い。反対に、足りないようなら融通する。言ってくれ」

「了解した。さしあたっては大丈夫だ」

パチンと缶を閉じる音で会話は終わった。この二人は符丁のような会話をするのだな、とシャノンは思った。旧知の仲であるらしい二人の間には、自分の知らない事がたくさんあるのだろうな、とも思う。考えていると、足首から指がするりと沿わせられた。足裏に冷たいものがベとりと垂らされて、シャノンは温度差に戦いた。まずぐるっと塗り込められ、ヌルヌルと塗り広げられた後に荒い織地の布で拭われるような感触があった。ヴィクターはさっき、痛いかもしれないと言っていた。そう、そのはずだった。シャノンはそれを覚えている。しかし、実際に足を這うそれは、宣言されたのと随分違う感触だ。肌を粟立たせる感覚にぎゅっと目を閉じたシャノンは、聞いていない、と声に出さないまま繰り返した。

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