HR-2(人目を忍び招かれることについて)

「さて、茶も飲んだことだし本題に入るとするか。リロイ、この後用事はあるか? ないよな? おまえは用のある日の前にわざわざ徹夜をするような、合理のない不義理を嫌う。この時間まで書斎にこもっていたくらいだもんな、用事なんてあるわけがない」

手袋に包まれたヴィクターの手が机の向こう側から差し出され、さっと甲にかぶせられる。突然のことにリロイは目を上げた。ヴィクターが口元を歪める。瞬間、まずいと本能が叫ぶ。

「おい! ヴィク、何をする気だ!?」

「耳元ででかい声を出すなよ。結界を張る。動くんじゃないぜ」

言うが早いか、重ねられた手を始点に重力加速度めいた加圧が伝播する。鈍化する感覚とともに天地の区別が段々と曖昧になっていく。リロイは顔をしかめてそれに耐えた。今日に限って式の展開が随分雑だ。ヴィクターらしくもない。

「俺の炊く香では足りないか。……そんなに重要な話をする気なのか? 議会も通さず秘密裏に?」

責め立てるような表情を隠しもせず、リロイはいう。ヴィクターは言葉に対し、簡単に肩をすくめただけだった。

「いいや? 仕事の話じゃない。プライベートだからな、野暮な誰かに邪魔されたくないのさ」

びいんと弦を震わせるような感触とともに解放される。設置完了の相図だ。なにか良くない事が起こりそうだなと感じた。今夜は荒れるかもしれない。リロイは窓に目を向けかけ、ヴィクターの横で口を押さえているシャノンに気が付く。隠しているようだが、呼吸が浅い。

「……シャノン、平気か。展開時の反動をまともに食らっただろう」

「いえ、いいえ……すこし、くらっときただけです。お気遣いなく」

帽子をつまんだままシャノンは小さく首を振った。取り繕っているのが透けて見える、優雅さの感じられない否定だった。リロイは顔を上げさせ、青ざめた顔を見た。倒れなかったのは見事だが、言ってしまえばそれが限度ということだ。シャノンの肩を支え、体を預けさせるためのクッションをいくつか見繕う。

「無理をするな、ヴィクターの術は乱暴だ。少し横になって休んだらいい」

それまで黙って聞いていたヴィクターは口をとがらせてリロイを小突いた。

「失礼だな、おまえ」



「水差しを置いておく。グラスはこれを使ってくれ」

ぐったりしたシャノンを長椅子に横たえ、手の届くところに水差しの用意をしておく。頭の後ろで手を組んだヴィクターは、その様子を何もせずただ見ていた。

「原始的な方法だな。おまえの術のどれかしらで治したりはできないのか?」

「何を言っている。急を要する肉体の再生はともかく神経周りに不用意に触るのはリスクが勝る。わかっているだろう」

グラスに掛けてあった布巾をまっすぐになおしてから、その頭で試してやっても良いんだぞ、とリロイは続けた。ヴィクターは軽薄な笑みを崩さないまま身震いする振りをして見せた。

「おお、怖い怖い。でも、ああ、そうだったな。確かにその通りだ。大事にされてるなあ、シャノン?」

シャノンは答えなかった。具合がすぐれないのだろう。息が詰まるのか肩が僅かに上下する。リロイはヴィクターの横を通り、引き出しの中から小さな鈴を取り出した。返事はしなくて良い、と言ってからシャノンにそれを見せる。

「……枕元にベルを置いておく。問題があったら鳴らしてくれ。急を要するような具合ならたたき落としてくれて構わない。一度振動を受ければ止めるまで鳴り続ける」

「五分もすれば戻るぜ、いつもそんぐらいだ」

上から降ってくる、いつも、の言葉にリロイは顔をしかめた。

「ヴィクター。大事な後継者なんだ、あまり無理をさせてくれるな。厳しくするのも必要だという主張に異を唱えこそしないが、人間は替えが利かないのを忘れて貰っては困る」

大仰に肩をすくめて見せるヴィクターは、はっきりしない答えを返した。ため息をついたリロイは、ほどほどにしておけ、といってから、茶器を片付けるため長椅子を後にした。


◆◆


降りた沈黙になんと切り出したものか。思案するリロイが口を開くより前に、向かいに座るヴィクターが帽子を外す。動作によって豊かな短髪があらわになり、着衣と色調を反転したような明色の髪が光を反射した。ヴィクターはおもむろに立ち上がり、外した帽子を椅子へと降ろして部屋の奥、薬棚の方を見た。リロイは視線で動作を追った。ヴィクターは立ち上がったときと同じく、外していた視線を急に戻した。ばち、と視線が合う。何か入り用なのであれば言ってくれ、と声をかけるつもりで口を開きかけたリロイだったが、先に話し出したヴィクターに遮られ、思惑は叶わなかった。

「この部屋はいつ来ても変わらないな。……ところで提案なんだが、せっかく対面で会ったわけだし、稽古を付けてくれないか? 俺の術の精度を見て欲しい。どうだ?」

手合わせの挨拶の時のようにヴィクターが手を打ち合わせる。リロイが椅子を蹴り、反射的に身構えたのも無理からぬことだ。『それ』が一方的な宣言であると、付き合いの長さによってリロイは瞬時に理解する。できてしまう。一定以上の位を持つもの同士が対人で術を使うのは議会の取り決めで厳重に禁止されていた。だが、やむを得ないときはその限りではない。結界を張ったのはこのためか、と今更ながらに気が付く。ヴィクターは貼り付けたような笑顔で立っている。術式の出来を見てくれ、というのは師弟の間で交わされる、体の良い言い訳だ。つまり、ヴィクターは、なにか、自分を害するような術式を使おうとしている。部屋は今や結界の中、ここはヴィクターの庭となった。音も気配も薄膜一枚に遮断されて、外には届かない。降り始めた雨が窓を叩く音でさえ部屋の中に居ては聞こえない、分からない。リロイは場を精査する。展開が雑だったわりには妙に緻密な結界だ。現時点で非常にまずい状況にあることをリロイはここに来て知覚した。

「……何をする気だ」

尋ねながら家財から距離を取る。室内のものをいたずらに壊す気はないらしく、ヴィクターはゆっくりとついてくる。リロイは下がりながら手袋の下の指輪を確かめる。カツカツと鳴る靴音は破滅までのカウントダウンのようだ。

「教えてやらないよ。口止めされているんでね」

安全な場所まで来た。来てしまった。ヴィクターは構え、利き手を隠す。術式を練る? それとも直接殴りに来るか。あるいは既に? 結界の中は清浄で、邪気はなく、目的の見えない今の状況では何が来るのか見当もつかない。ヴィクターはおしゃべりを好む。意識を逸らし仕込みをするために。……今日はシャノンがいる、だから反動のあるものは選ばないはずだ。ならば。リロイは息を潜め、二重に張っていた捕縛用のトラップを発動させた。瞬き一つ分にも満たない読みあいだった。しかし予測に反してヴィクターはまっすぐ踏み込んでくる。手を隠したのはブラフか! 空撃ちしたトラップの処理を手放し、リロイは迎撃に転じる。しかし遅い。衝撃とともに顔に何か吹き付けられる。疑似煙幕だ。目の前が暗くなり、次の瞬間にはヴィクターの腕の中に捉えられていた。視界が塞がれ、前が見えない。耳元でヴィクターの声がする。

「『捕まえた!』」

あおり立てるような言い方に、そんなことは分かっている、と思った。でも、それなら、わざわざヴィクターが自明のことを言うのは変だ。トラップを張ったのに捕まえ損ねた自分への皮肉だと捉えるには声の調子が明るすぎる。つまり、おそらく、実際の所、ヴィクターは自分のことを捕まえてなどいなくて、これは『そうだ』と宣言して認識を『書き換える』ためのダメ押しなのだろう。それこそがヴィクターのやりかただ。しかし、拘束する腕の感覚がある。目を塞ぐものは滑らかな感触で、おそらくこれはあの浅い手袋だ。振り払えば拘束から逃れることが出来るだろう。しかし、体が動かない。何かされたはずはない。それでも実際に抵抗の目は潰されている。……認識阻害が働いている? いつの間に? かけられているのは他でもない自分だ。魔術素養のない人間相手ならまだしも、自分相手にここまでの強度で発動させるなど尋常の手段ではない。計算が合わない。それこそ、ここに来たときから用意をしていたのでなければ今の一瞬で捕まえるなど…… そこまで考え、リロイは顔をしかめた。最初からそのつもりだったか! 本題に入るのを避け、茶を飲み続けたのも時間を稼ぐためだ。そう思えば結界の反動があれほど酷かったのも合点がいく。リロイは眉をひそめ、抵抗する代わりに口を開いた。皮肉にも声は問題なく出せるようだった。

「……どうする気だ? 俺を害すれば議会が黙っちゃいないだろう。事故だと言ったところで通じるか? 遮断用の結界を張っていたことは調べれば分かるだろう、言い逃れがどこまで通用する、それともなにか秘策があるのか? 俺を脅そうなどと考えるなよ」

目を開ければ至近距離にいたヴィクターは少し驚いたように片方の眉を動かして、それから軽く肩をすくめた。やはり両腕は空いていて、リロイは予測が正しかったことを知る。しかし視認したところで術が解けることはなく、痺れたようになった体は動かなかった。リロイはヴィクターへ、噛み付くような視線を向けた。

「安心してくれ、別に身柄をどうこうしようってわけじゃない。おまえを脅して手に入るものって言ったらその冷たい視線くらいのもんだろ? 手荒なまねだってするつもりはない。ちょっとしたレクリエーションだよ。リロイには付き合ってもらう。俺とおまえの仲だろう?」

手袋の手はコートの腹を行き来して、それから襟を留めるボタンを外し、いくつかある紐の結び目をするすると解いていく。リロイの着る衣装の仕立てはずいぶんと古く、ここ二十年の流行りであるシャノンのものとは様子がずいぶん違っていた。ヴィクターは目を細め、懐かしいな、と独りごちる。脈絡なく発された『懐かしい』の言葉にリロイは眉を寄せて戸惑った。視界の端を掠めた亜麻色にリロイは目を上げた。シャノンだ。コートにも、かぶり直したらしい帽子にも、目に見えるような乱れは一つたりともない。回復したのか、と思い至り、リロイは少しの安堵を覚える。しかし起き上がってきていきなりこれではシャノンも困るだろう。剣呑な雰囲気ではあるが、倒れているのは椅子一つで、乱闘という様子でもない。

「……シャノン、ヴィクターを止めてくれ。私闘だ。私は動けなくされている。通報の必要はない。暴れて抵抗するようならそのときに……」

リロイは驚いたような表情のまま立ち尽くしているシャノンに気が付いた。

「シャノン……シャノン? 聞こえているか、ヴィクターを説得するのを手伝って貰いたい」

再度の救援要請に、はっと顔を上げたシャノンはしかし、首を横に振った。リロイは驚き眉を上げた。目があったシャノンは知らず棘のある花に触れてしまったときのような、指先の傷を庇う人にも似た痛ましい顔をした。どこか苦しげに目は伏せられる。

「……すみません、私の力ではどうとも」

「シャノンは『俺に逆らえない』ものな。俺は上着を取る。靴を抜くのを任せよう」

振り向かないまま言ったヴィクターは笑っていた。シャノンが唇を引きむすび赤面するのが見えた。ヴィクターはシャノンを支配しているのだろうか? リロイは二人の間に飛び交う視線や雰囲気にどことなく違和感を覚えたが、それが何によるものであるかはよく分からなかった。ベッドに座らされ、引かれた靴紐がピンと突っ張る。そうして靴が抜き取られる感触にリロイはようやく、ヴィクターのいう『レクリエーション』が何をさしているのかに思い至った。

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