真・実践編
五時間目(素肌へ触れることについて)
「話すこともなくなってきたし、そろそろするか?」
クッションを積み上げ、寝転がっていたヴィクターが唐突に言った。声を受けて、シャノンは僅かに浮き足立つ。リロイは良いとも嫌だとも言わない。
「リロイはどうだ。意見を聞かせてくれ」
「……ヴィクターの決定に従おう。用意をしなくてはな」
そう言ったリロイが用意のためのなにかを取りに行ったので、シャノンも自身の荷物の中から物入れの小さな袋を持ってきた。シャノンが戻ると、クッションの上に布が掛けられ、天蓋の下はにわかに活気づいたように思われた。シャノンはクッションの具合を確かめていたらしいヴィクターに近付いた。
「ヴィクター。準備を、とのことでしたので上等のスキンを持ってきたのですが、ヴィクターも一ついかがですか? あまり、人から譲られたものを使うのは好きではありませんか?」
シャノンは冗談めいた笑いを浮かべ、一つずつ切り離されたパッケージをつまんでヴィクターに見せる。サイズが合わないといって断られるかも知れないな、とシャノンはわずかな間にその後を予測する。珍しいものだ、といって話が弾むのならばそれがいい。しかし当のヴィクターは目を瞬き、不可解そうに顔を寄せた。想像したのとは違う穏やかならざる表情に、シャノンの心臓がドキリと打った。
「……スキン? なんだそれ。粉……じゃないな、丸い…何だ?」
礼を失した振る舞いを咎められることばかりを警戒していたシャノンは予想外の言葉に反応がやや遅れた。
「えっ? いえ、あの、感染症の予防に使う……ええと、いえ……ええ……?」
直後、もしかしたら製品名で言った方が良かったのか、と思い至ったシャノンに、やはり納得しかねるといった様子のヴィクターは問い返す。
「……感染症って? ここリロイの屋敷の中だぜ……それとも、何か別に不安なことでもあるのか?」
ヴィクターは手を伸ばしてクッションのひとつをひっくり返した。そこには何もない。カバーの掛けられた白いクッションは白いまま、その陰には何もない。ヴィクターもそれ以上何も言わない。シャノンは戸惑い、言葉を探した。
「あの、屋敷の中だということは存じておりますけれども……いえ、それとこれと何の関係が……?」
「……関係?」
狼狽の気配が漂い、浮き足だったような空気は困惑に冷えていく。少し離れたところにいたリロイが体を起こして頭を振り、ヴィクターの返したクッションを引き寄せて座り直した。足のリングが僅かな光をちかりと反射した。リロイは少し考えるようにしてから口を開いた。
「……シャノン、それは『なんの』感染症を予防する道具だ?」
「何ってそれは当然、性感染症ですが…… えっ? 他に何があるというんです……?」
「性感染症。……そうか、どうやって使う?」
向けられた視線の中でシャノンは唇を舐める。困ったことになってしまった、と思う。リロイに教えを請われるなどとは思ってもみなかった。使用説明書を持ってくればそれで済んだのかもしれないが、ここにはばらばらのスキン本体しかない。どうにかこうにか腹をくくらなければならないなとシャノンは感じ、心を集中させ、実際そのようにした。それでも少し気を抜いたら頭が真っ白になりそうで、こんなことなら箱ごと持ってくれば良かった、とシャノンは今更考えたって仕方ないことを悔やむ。
「そう、そうですね……ええと、なんと言いましょうか。ここの口の部分を千切って、包装のフィルムから出して、その、中に入っているこれを陰部へ被せるのですが……理解に説明は足りますか」
動作ばかりが大きくなったシャノンのたどたどしい説明へ、リロイは静かに頷いた。
「なるほど、物理接触の障壁になるということか。初めて見るものだ。よければ一つ譲ってもらっても?」
「た、たくさんあるので、一つと言わずいくつかどうぞ……」
ショックから抜け出せないままのシャノンは個数を数えることも忘れて掴んだままをリロイの手のひらにのせる。ばらばらと掌に積み上がったスキンを眺め、どこかのんびりとした調子で、『ありがとう』とリロイは言った。ヴィクターが首を傾げ、割り入ってくる。
「……羽虫の侵入と細菌汚染って話じゃなかったのか? 道理でかみ合わないと思ったら」
「羽虫……? 」
ヴィクターの反応。初めて見た、と答えたリロイ。羽虫。細菌汚染。感染症。シャノンは飛び交う言葉にクラクラした。
「改めて聞くのは失礼かとは思いますが、お二人は閨をともにするのは初めてではないんですよね?」
それを聞いて、ヴィクターは気分を害したとでもいうように顔をしかめてみせる。
「初めてな訳があるか、一体いくつだと思っている。両手の指でも足りやしない」
手を振ってみせるヴィクターにリロイは顔をしかめ、手を埋めるスキンの山をシーツの上に降ろしてから指を一本一本折り曲げて試算した。
「ヴィク、冗談なら分かるように言え。笑いづらい冗談は面白いものではないし、とっさに答えにくい数を提示するのも褒められたことじゃない」
リロイが咎めるように言うのを聞いて、ヴィクターは意外そうに片方の眉を上げた。
「……悪かったな! で、足りたか?」
「いいや。もう一桁か二桁の間に収まるくらいだろう。さすがに正確なことは分からないが」
なんの話をしているのだろう、とシャノンは思ったが、それよりも今は聞きたいことがあった。
「衣類を取ることは珍しいとそのようなことを言っていましたよね。その上でスキンを使わないとなると、出るものはどうするんですか……?」
シャノンの疑問へ、何を言っているんだと言わんばかりにヴィクターの表情が歪む。
「そりゃあ地面に垂らす以外になくないか? 分解剤を撒けば三十分もしない間に土へ帰る」
「土!? 外でするんですか!?」
声を張ったシャノンへ、ヴィクターは耳を押さえるような格好のまま、どこかむっとしたような顔をした。
「……耳元で叫ぶのはよしてくれ。何かおかしいか? わざわざ拠点を作って清掃して、人間二人の使用に足るシーツと寝床を用意して……なんて、そんな悠長なまねをするなんざ、もの狂いのすることだ。敵に見つかって今にも首を落とされるかも知れないんだぜ」
「それは……どういう状況の話をしているんですか……?」
シャノンは目を白黒させた。リロイは当時生まれていなかったであろうシャノンの歳を思い出し、解説するべく口を開いた。
「……あのころはまだ戦のまっただなかで、私たちは各地を転々としていた。城には帰れず、森や洞窟が度々仮初めの住居となった。……他にする場所もなかろう」
そうだ、随分同居人の多い住居だったな、とヴィクターは口を挟んだ。シャノンは口を閉ざしたまま、続きを促す。
「それから終結するまで二十年、国が元通りになるまで更に十年、火消しが終わって定住する住処が出来たのが……いや、もう忘れちまったな」
そう続け、ふと目を瞬くと、ああそうか、おまえ、まだ当時は生まれてなかったのか、とヴィクターは得心したように言った。
「その後もあちこち呼ばれた、真に平穏が訪れたのはもっと後だ」
「市内に水道が通ったのはいつだ? リロイは覚えているか?」
「……詳しいことが知りたければ議会に戻って資料庫を当たれ。この話を朝までする気か? あと三時間しかないんだろう」
リロイが投げやりに問えば、ヴィクターはポケットの中から丸い天文時計を引っ張り出した。長い鎖がジャラリと鳴る。
「ん……いや、二時間と半分だ。思ったより時間が経っているな……リロイ、纏めてくれ」
「ああ、つまり、それが環境下における最適解だったという話だ。当時はそれが普通のことだった。長期間にわたって常態化していたためにそれが当然であるという前提で話してしまうようだ。すまないな、悪い癖だ」
リロイはそういって話を締めた。シャノンは理解が追いつかないまま、ただ頷いた。
◆
「あの、蒸し返すようで心苦しいのですが、結局、出るものはどうなるんですか?」
そういえばそういう話だったな、とヴィクターは言い、少し首を傾げた。
「……疑問の対象は、室内で、という前提が付いた場合ということだな。地面に垂らすというのは説明したとおりだが、どこでもやり方は変わらない。シーツはそのためのものだ。これは汚すために掛けてある」
汚すため、とシャノンは口の中で繰り返し、それがどういう物事をさすのかに気が付き、口をキュッと引き結んだ。つまり、このベッドメイクは、用意というのは、そのためのものだ。達成されるかは別のこととしても、これが持ち出された時点で、予定の中に含まれている。それが示唆される。されている。シャノンは顔が熱くなるのを感じた。閨に呼ばれておいて今更何をためらっているのかと問われれば、それはどこまでももっともなことなのだろうと思うものの、理性と内心とはどうにも思うままにならない。
シャノンはどきどきした心のまま、続けて何かを聞こうとしたが、自分の言いたいことが何かを考えている間に何を聞こうとしたのか分からなくなってしまった。あるいはそんなものは最初からなくて、ただこの高揚をどうにかして転化したかっただけのことかもしれなかったが、シャノンにそれを確かめる術はなかった。
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