六時間目(口を潤す叱責について)

張られたシーツの示唆の通り、甘やかな夜は更けていく。ついばむようなキスから始まり、手が握り合わされる。指が絡められ、離れ、甘えるようにすりあわせられる。シャノンは手招かれ、唇を合わせた。それは脳を潤す甘美そのものだ。ただ、雰囲気の良さとは裏腹に名状しがたい違和感がある。シャノンはそれが丁寧な所作によって音の一切を立てない年長者二人のためだと気付いた。しかし、気が付いたからと言ってどうなるというわけでもない。三度目のキスにおいても、シャノンが唇を合わせたときだけに、控えめなリップ音が鳴った。


「あの、よければ、私からも、しましょうか」

シャノンはそう言って、クッションの山へともたれかかっていたリロイに身を寄せ、下唇を指で少し押し下げた。ベッドの上でクッションへ身を預けるリロイはそのとき、片方の手を触れ合わせたままヴィクターに頬を撫でさせていた。彼らの触れあう部分と言えば顔や肩、指先に偏っていて、そこにどんな意図が含まれようとも、シャノンの視線が投げ出された足の方へ行くのは無理からぬ話ではあった。ともあれ、僅かに傾けられた顔と薄く開いた口は普段の振る舞いからすれば随分と媚びるような仕草で、シャノンとしてはこれ以上ない誘いだと思ったものの、意図が伝わらなかったのか、二人は不思議そうな顔のままシャノンを見て、何をいうでもなくぽかんとしていた。シャノンは口を閉じ、自身の口と股座とを再度示す。食むような仕草に遅れて理解をしたらしいリロイとヴィクターはギョッとして身を引いた。喜んでもらおうとしたシャノンの意図とは裏腹に、空気は急激に冷えていく。態度に拒絶の雰囲気を感じ取ったシャノンは唇をかみ、羞恥に顔を赤らめた。

「い、いけませんでしたか。それとも相手が私ではお気に召しませんか」

「おまえ……」

険しい顔のヴィクターは、言葉も出ないとでも言いたげだった。恥じ入るを通り越してやや憤然としてさえ見えるシャノンの表情は強ばって硬い。ヴィクターの態度からは強い狼狽、あるいは押し殺した怒りが見て取れた。その影からリロイは顔をのぞかせて、少し考えるようにして尋ねた。

「……若い世代の間ではそれがスタンダードなのか?」

リロイの言葉に、ヴィクターがはっとして振り向く。若い世代。スタンダード。標準。シャノンは唇を開き、言葉を探した。

「スタンダード……かどうかはわかりませんが、好いたものどうし、あるいは信頼の置けるものどうしであるなら、別段おかしなことではないかと…… 保守的な考え方の上では倒錯した行為であるというものも、いないわけではないでしょうが」

「『いないわけではないと、思われる』 時代も変わったな…… 年は取るもんだ……」

半ば茫然とした様子でリロイは言う。ヴィクターはなんとも言い難い顔をして、そうか、と言った。

「なるほど、今じゃそんなとこまでノーマルの範疇ってわけだ、はー…… 何から言ったもんかな……」



「私はなにか、おかしいことを言いましたか」

「おかしいもおかしい、おかしいことだらけだ。シャノン、おまえの思うスタンダードな流れについて話してくれ。途中で俺が何を言っても気にしなくていい。まず人間が揃う所からだ。人が一揃い居て、周りの目の届かないところへ捌ける、それから、どうする」

ほら、答えてみせろ、と答弁のときのように言ったヴィクターに、シャノンは困惑に濁っていた頭を切り替えた。

「え、ええと、そうですね、雰囲気を盛立てねばなりませんから、口づけや抱擁をして……」

ヴィクターが険しい顔をするので、シャノンは息をのんだ。リロイはヴィクターに向かって呆れた様子で首を振った。

「大丈夫だ。シャノン、続けてくれ」

「え、ええ……それから、その後の邪魔にならないように服を取り払って……必要があれば前後して体を清めます。寝台に入り、体に触れて…… 枕を重ねます」

枕を重ねる、と言ったシャノンの言葉に反応し、ヴィクターの表情が僅かに動いた。

「……うん? 何を言い出すかと思ったら。俺は男女の房事について知りたいわけじゃない、男同士のやりかたってものがあるだろ?」

それまでただただ憤然としていた様子のヴィクターはどうにか意識を取り戻したようだった。呆れたように首を振る姿を見て、シャノンは説明不足を自覚した。

「えっ、ああ、そうですね。肌に触れた折に…… これを。あの、詳しい説明が入り用ですか?」

出来れば言いたくないな、と思いながらシャノンはローションの袋を一つ二つ滑らせる。ヴィクターは退屈そうに眉を上げた。

「またフィルムの包みか? これは一体なんなんだ?」

「潤滑剤です。繊細な部分に塗り込んで不慮の痛みを軽減します」

ヴィクターは回された圧着ビニールの袋をつまみ上げ、裏を見たり、表に返したりした。

「繊細……股に垂らすって事か? 片付けが面倒そうだな。……いや、何も情報が増えていないぞ。一体これを何に使うんだ。何が痛むと言うんだ」

何が痛む? 知れたことだ、とシャノンは思うが、流石にそれをそのまま言うわけにも行かない。どうにか聞き苦しくないような表現を考え、一つずつ確かめるように言葉を重ねていく。

「わ、私たちの体には、女性にはない器官がありますでしょう? 反対に女性にあるものが私たちには存在しないわけですが、その湿潤することのない体で受け入れるための補助として役立てられます。無論、軟膏の類いですので、体のどこへでも垂らして感触を楽しむことだって出来ますが……」

動揺に声を震わせながらも、どうにかシャノンは言っていく。返る言葉のない中で気まずい話題を続けねばならぬと言うのは、辱めを受けているようでもあった。なんとか説明責任は果たしただろう、というところまで来ると、ヴィクターは険しい顔で首をひねった。

「要領を得ないな。前者の使用法について、別のアプローチで説明してはくれないか」

まだ言わせるか、とシャノンは思った。見る限り本当に分かっていない様子なのが余計にたちが悪い。これでは、おわかりになるでしょう、といって濁すこともできやしない。

「尻の合わせ目に塗り込んで、後ろから貫くのです! 皆まで言わせる気ですか」

眉を下げ、一息に言い切る。かっと頬が熱を持ちシャノンは羞恥に震えたが、それと反対に、空気が一瞬にして凍りついた。シャノンはリロイを見た。それからヴィクターを。二人の視線はシャノンへ向いていた。それも、あまり好意的とは言えないニュアンスを帯びて。

「……素人が内臓に触るとは、随分安全な世になったとみえる」

言葉を探すように視線が動かされた。リロイはなんとも言い難い表情のまま一言呟き、それ以上のことは言わなかった。曖昧な顔をしてみせるリロイとは反対に、ヴィクターの視線は冷たかった。

「気持ちが悪い。俺の部屋に来てそんなことをやってみろ、師弟の縁を切ってやる」

低く、噛み付くような物言いに、シャノンはただ驚いて口を閉ざす。リロイは僅かに気の毒そうな顔をした。そこには蔑むというよりかは同情に近い色があった。

「ヴィク、気持ちは分かるがあまりめったなことを言うものではない。衛生に対する認識が変わったということなんだろう。悪徳とされた時代にあれだけ流行って死者を出したんだ、環境が変わってハードルが下がったのなら手を出す人間が出たとしてもおかしくはない。確かにあまり考えたくないことではあるが」

庇うような言葉を口にするリロイだったが、その顔は普段どおりのどこか不機嫌そうに見える無表情ではなく、本当に嫌がっているような素振りが見え隠れした。しかしリロイは言葉を続ける。

「……それで、若年層の間ではそれが円滑な情報伝達のための手段になっているのか? 衛生問題がクリアできたとして、肉体の負担を考えればとてもコミュニケーションどころではないだろう。私たちの時代から今日に至るまでに、人体の構造に大きな変化があったとは聞かないが」

私たちの感覚で言えば、肝や腹にナイフを刺して喋ると考えていることが良く伝わると言われているのと大差ない、と更に続けてそのようなことをリロイは言った。シャノンは口を開き、閉じ、もう一度開いた。

「負担は大きいと聞きますが、そこまだという話は…… いえ、私自身、必要なければ遠慮しておきたい気持ちはあります……」

「……仮に必要があったとしても絶対にごめんこうむる」

曖昧とも言えるシャノンの言葉は、ヴィクターによって両断された。極度の不快感と名状しがたい憎悪のようなものの入り交じる表情に、シャノンは開きかけた口をつぐんだ。ヴィクターは目に見えて怒っていた。

「汚い話もそこまでだ。そんなことは死に急ぎの変態がやることであって、まともな大人が手を出して良い領域の話ではない」

「申し訳ありません」

凄みを利かせた声に、シャノンは小さくなって謝った。リロイは額に手をつき、やれやれといったように首を振る。

「ヴィクター、そのくらいにしておけ。……慣れていないと聞いたからそういうものだと思っていたが、蓋を開けてみれば随分と齟齬があったわけだ。それは確かに話も食い違おうというものだろう。あらかじめ一から十まで説明した方が互いにとって良かったのではないかと思うが」

「……そうかもな、いや全くだ!」



「もうわかったと思うが、俺たちの言う『やりかた』にはいくつかの禁忌が存在する。消毒なしでの接触、消毒した口腔以外の粘膜に触れること、むやみに肌を晒すこと、内臓に触ること、素性の知れない相手を呼び込むこと…… 禁を破ると死ぬか、死ぬより酷い目に遭う」

シャノンは色々と聞きたいことがあったが、それらとは別の、単純な疑問を口にした。

「規範には複数で行うことについては規定はないのですか」

「複数? そりゃあ、まあ、推奨はされないだろうが…… というか集団で集まったってすることなんてないだろ、家で立食パーティーをするのとはわけが違う…… いや、待て、あるのか!? そういう機会が存在していると?」

急に勢いづいたヴィクターに、シャノンは目を白黒させた。

「えっ!? わ、私に聞かないでいただけますか、いや、あるにはあると思いますが……そういう話を耳に挟んだこともないわけでは、いえ」

「どういうことだ? 男同士で集まるのか? 楽しみのために?」

半ば叫ぶようにして言葉を交わしあっていたヴィクターとシャノンへ、どこかのんびりした調子でリロイは尋ねた。

「今そういう話をしていましたよね!?」

シャノンは思わず声を張り、それからはっとして恥ずかしそうに口を押さえた。愕然とした顔つきで、ヴィクターが叫ぶ。

「おまえたちの年代はどうなっているんだ! 規範や良心というものがないのか!?」

飛んできた叱責じみた大声にシャノンは身を固くし、それから赤くなった。

「そうは言いますが、聞かれても知らないんです、何も! そんなふしだらな集まりに顔を出していると思われるのは心外です! そもそも普段から誰かと斯様な関係を持っているわけではありません! 今日こうしてあなたについてここへ来たのだってリロイに会えると聞いたからで……」

はた、とシャノンは言葉を切る。目の前に本人がいることを思い出し、それこそ熟れた柿のように真っ赤になった。

「言い誤りです……いえ、会えてうれしいというのは本当なのですが……すみません、伝えるつもりのなかったことなので、一時、忘れていただけると助かります……」

明瞭な声は見る影もなくしなび、シャノンは羞恥から口を閉ざした。

「慕われているということ自体に悪い気はしない。……本題から逸れたな、続けよう」



そうして話はまた元の流れに戻され、ヴィクターからは衛生およびそれを叶える厳しい規範が語られた。喉を案じ水差しを求めたヴィクターが離席した折り、リロイは空中に何かを掴むような仕草をしてからシャノンを手招いた。

「先ほどの話だが、詳しいことを今度聞かせてくれ。人の世から離れて長いものだから社会風俗に興味がある」

「は、はい。私の話で良ければ」

「ありがとう。それでは、くれぐれも内密に」

内密に、と言ったところだけ音の響きが違ったので、シャノンはそこに異質ななにごとかを感じ取った。ちょうど戻ってきていたヴィクターはリロイに手を振ってみせた。

「どうした? 俺に黙って内緒話か? なにが内密なんだ?」

「今夜のことだ。同じ隊の仲間へ、私たちのことを話してはならない、と」

リロイの言葉へ、ヴィクターは不可解だというように首をひねった。

「それ、念押しするようなことか? シャノンが言って回ると?」

「……必要だろう。言うとおり、吹聴して回るようなことはないだろうが、請われて答えるという可能性は低くなかろう。娯楽の乏しい環境では噂話が広まりやすいのは知っての通りだ」

「ああ、まあそうだな。実際そういうこともあったものな……」

寄越された視線へ曖昧に微笑み返し、よくぞこんなにするすると言葉が出るものだな、とシャノンは思った。

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