四時間目(体を沿わせる準備について)

「よ、シャノン、喉は平気か?」

ベッドの縁で水を飲んでいたシャノンの元に、ヴィクターがやってくる。

「お、おかげさまで」

動揺によって揺れた声に、こほん、と咳払いをして、シャノンはグラスを置いた。ヴィクターは息を吐き、伸びをした。

「重畳、重畳…… 贅沢な時間だな、気分が良い……」

ヴィクターは誰に言うともなく言った。シャノンは安らいだような雰囲気のヴィクターに、おや、と思う。それは指揮をとっているときの熱の入った感じとも、普段見るような思考を掴ませない独特の佇まいとも違っていた。シャノンは見慣れないヴィクターの様子にたじろぐ。シャノンの困惑を知ってか知らずか、視線の先にいたヴィクターは機嫌良く身を起こし、リロイの所へ横座りで這っていった。


行ってしまったヴィクターの後を追ってシャノンがベッドの縁を後にすると、二人はちょうどあの丸いブラシで額をはたいているところだった。飛んだ粉が背後からさした間接光にきらきらと輝く。シャノンは戻ってきたことを知らせることも兼ねて、意識して柔らかく尋ねた。

「ヴィクター、それは先ほど塗ったのと同じものでしょうか。それにはどんな効果があるのですか?」

「どんな、と言われても…… 体を清めているより他になかろう。効果も何も、必要なことだ。どういうことだ? 一体何に見えたんだ?」

その素っ気ない返答によって、シャノンはそれが秘術の系統ではなく、なにか、物理的な効用を持つ薬剤であるらしいことに気が付いた。そして、それがどうも彼らにとっては常識であるらしいことにも。あまり余計なことは言いたくないな、とシャノンは考えた。

「ああいえ、別段、なにかと取り違えたということでは…… 明文化した答えが欲しかっただけです。お気を損ねたのならご容赦を」

「怒ったわけじゃない。あまり聞かれない類いのことを聞かれたんで、なにか思うところがあったのかと思っただけだ…… うん? とするとなんだ、もしかして使ったことがないのか? 普段どうしてるんだ? オマジナイ(効果のない気休め)だって言ったわけじゃないんだろ?」

「え? えと……私は、その……」

問われてシャノンは口ごもった。普段と言われたところで、誰かと関係したことなど数えるほどしかない。シャノンは僅かに俯き、自身の昏いことを恥じた。そこへ先ほどから僅かに顔をしかめさせていたリロイが口を挟む。

「……あまり聞いてやるな、師事している間柄だとはいえプライベートのことだろう」

リロイの非難するような目に、ヴィクターは僅かにたじろいだようだった。

「口を出すような真似をしたのは悪かった。……変なことをしていないのならそれでいい」

変なこと、とシャノンは心の中で繰り返す。何をしていると思われているのだろう。どこかで弁明の機会があると良いが、とシャノンは思った。他でもない自分自身の名誉のために。

「話を戻そう。なにか質問は」

「……え、ええ。そうですね。体を清めるのはこれでなければならないのですか」

「いけないって事はなかろうが、いや、他に何があるんだ?」

それが分からないからこそ、俺はどうしているか聞いたわけだが、とヴィクターはどこか不服そうな面持ちで続ける。それきり言葉を切り、黙ってしまったヴィクターに代わって、リロイが会話を引き継いだ。

「何故このようなものを、という疑問は最もだが、単純に都合が良いんだ。携帯できて、水も要らない。清潔な刷毛が一本あれば事足りる。入浴するのでは時間が掛かりすぎるし、そもそも体温の急上昇は肉体への負荷が大きく不適格だと言わざるを得ない。面倒がない、それに尽きる」

リロイの解説で、ようやくシャノンはヴィクターの言う『変なこと』に合点がいった。他の手段がないという前提の上ならば、『使ったことがない』というのがすなわち、身を清めることなく関係することと同義となる。シャノンは額を抑え、申し開きをするべく口を開いた。

「……今の説明で腑に落ちました。不衛生な習慣を持つと誤解されては堪りません。……そうですね、あらかじめ入浴の叶わない場では、湿らせた手拭きで体を拭っています。それが、私にとっての都合の良い手段であるので」

他に何を言うべきなのだろう、自分は何を言ったのだろう、とそればかりが気になって次の言葉が出てこない。二人は黙っている。沈黙に耐えかね、コホン、とシャノンは空咳をする。リロイは少し考えるようなそぶりをみせ、それから口を開いた。

「水が使えるとなると別段変な話でもない。私たちはこれで慣れているが、そうでないものもいるということだろう」

なあ、そうだろう、と変な方向を向いたまま言ったリロイに対し、それは誰に向かって言ってるんだ? とヴィクターは尋ねた。それを皮切りに止まってしまった会話が再び元のように流れ出したのでシャノンは安堵の息を吐いた。


◆◆


「リロイの言ったとおりこれは非常に便利なものだ。軽く、かさばらず、毒性もない。……本来多用途に使うものだから荷物に入っていても見咎められないってのもある。歯を磨くのにも使えるし、食べることも出来る。栄養はないがな」

「なるほど。しかし栄養がないとなると口にする合理性が見当たりませんが……香味の優れた一面があったりなどするのですか?」

ヴィクターはちょっと首をひねって、香味、と繰り返す。その言葉の意味するところを取りかねたとでもいうように。

「いや、さほど……そもそもの分類が医薬品だ。食用目的で作られたものでもないし、特別良い味がするというものではないな。携帯食だけだとどうしたって腹が減るだろ? これは空腹を紛らわせるためのスペーサーだ。ガムってわかるか? 口寂しいときやなんかに、あれは噛む感触を楽しむために口へ入れるんだろ。つまるところがその類いのものだ」

「左様ですか……」

ヴィクターはさりさりと粉を指に塗り広げていく。艶のあった浅い手袋は粉っぽく煤けていく。シャノンはそれを視界の端で捉え、見るでもなく見ていた。一つ一つ説明がなされ、未知の領域が解明された今でも、ヴィクターの行動には謎が多い。



リロイはシャノンが不可解そうに首をひねったのを後ろから見ていた。その不思議そうな顔を目の当たりにして、ああ、ほんとうに若いのだな、とリロイは思う。空腹による意識の低下、圧縮携帯食を恒常的に取り続けることによる消化器の不全や平衡感覚の異常、そのどれもを若い体は知らないと見えた。悪いことではない。むしろ喜ばしいことでさえある。自分たちの世代がそうなるようにしたのだから。いや、しかし、それよりもリロイには伝えておかねばならないことがあった。

「シャノン。ヴィクターはああいうが、あれを食べて平気なのはヴィクターだけだ。興味を引かれたとしても、匙に半分……味を確かめるくらいにしておけ。二杯も食べればてきめんに腹を傷める、よほど内臓の具合に自信があるというのでもなければやめておくのが賢明だ」

「……そ、そうですか。では、そのように」

「ああ、食べてみるか? 薬匙を入れた袋はどこだったか……」

ヴィクターは言って、コルセットを探った。存外乗り気であるらしい様子に、リロイは眉をひそめる。自分は今、食べさせるなと言ったのではなかったか。匙に半分ならば良いと言ったつもりはない。断じて。

「……ヴィクター」

リロイが咎めると同時に、シャノンが声を上げた。

「ああ、すみません、リロイ。話を邪魔してしまって。お先にどうぞ」

「……いや、君から話すと良い」

お心遣い感謝いたします、と滑らかに言い、シャノンはヴィクターに向き直った。

「ヴィクター、薬匙は必要ありません。今夜は遠慮しておきます。見通しの利かない物事は万全の体制で臨むべきです。今は、そのときではありません。またの機会に」

「了解した! リスクの分散・管理ができる部下っていうのはいいな。どうなるかまできっちり調べておけば、これはいざというときにおまえを救うだろうよ」

この言い方は腹を下すまで食わせる気だな、と思ったが、リロイはそれ以上の言及を避けた。困窮し進退窮まったときに、取りうる手段が多ければ多いほど生き延びる確率は上がる。内地でヴィクターの監視下にいる限り、吐瀉の度合いがどんなに酷いものであってもまず死ぬことはない。ヴィクターは対処の仕方を教えるだろう。いくらかの耐えがたい苦痛を伴って。だから隊に人が居着かないのだろう、と言いたくなる。……言ったところで悪癖は一向に改善されず、今なおこの有様だ。リロイは目を細めた。

「……ほどほどにしておけ」

それだけでヴィクターには通じたようで、隊の名物鬼教官は曖昧に笑った。


◆◆


天蓋が作る影の中で、シャノンは垂れ幕を眺めていた。隣にリロイが寝そべっている。反対側にはヴィクターが。何故自分が真ん中なのだろう、とシャノンは思った。仮に中心がリロイであれば、自分はそちらを向いてリロイとヴィクターの話を聞いていただろう。逆に真ん中にいるのがヴィクターであったならば、その背に身を隠すようにしてリロイと話したりもしただろう。しかし現状はこうだ。自分をはさみ、双方向から話しかけられ、時折話題が体の上を流れていく。全くもって落ち着かない。どちらを向いて話せば良いのか分からず、さりとて黙っているのも不自然な位置取りにシャノンはもどかしいような、急いて苛立つような、そんなどうしようもない感情を覚える。どうするべきだ、と思う。こうして敷布へ体を横たえて雰囲気の良い会話をすることが、来たるその後を穏やかな心地で過ごすのに寄与するのであろう、ということは流石に分かる。わかるが。シャノンは今すぐにでも逃げ出したい、と思っていた。柔らかく微笑んで心安らかであるべきだとわかっていても、とてもそうはならないこの状況はいたずらに神経をすり減らすだけだ。しかし起き上がって、それからどうする。ここはリロイの屋敷だ。シャノンは初めて来た。慣れているらしいヴィクターと違って自分には行く場所などないのだ。そもそも他人の私有地である上、今の自分は服を脱いでいる。 ただ中断するだけにしても、なんと言う? 心構えが万全であるとは口が裂けても言えないが、気分が優れないという風でもない。全くもって難儀なことだ、とシャノンは思う。

「ああ、そういえばシャノン、さっきは言いそびれたが、殺菌作用のある粉は他にもある。……しかし、あれは土壌の汚染があるし、なにより傷に入ると死ぬほど痛い。これは実際死んだやつもいるくらいだ」

居心地の悪いのも忘れて、シャノンは顔をしかめた。口を閉ざしたまま答えを返さないシャノンに思うところがあったのか、リロイは安心させるように声をかけた。

「土壌の汚染はあれど人体への強い毒性はなかった。致死量は一般的な成人男性で50~100グラム、純な結晶であれば独特のえぐみがあって飲みこむだけでも一苦労という品だ。消毒によって死者が出たわけではない。ヴィクターの言うのだって、痛覚を刺激するので拷問に使われたというだけの話だ」

「拷問……」

だから大丈夫だ、とでも言い出しそうなリロイの声に全く共感できないまま、シャノンは形式的な相槌を返した。シャノンの表情が喜んでいるという風でもないのを見て取って、リロイは話を逸らした。

「様々な試みがあれば、使い手の集団にとってもっとも都合の良い手段が残る。手軽で安全な、あるいは、確実な。私たちが使うあれにも、ある種の合理と積み重ねがあるということだ」

「そうなんですね……」

硬い表情のまま、手の置き場にも困ってシャノンは腹の上で手を組んでいた。

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