午後-6B-2(血を沸かす声について)

「若い世代は普段からこんなことをしているのか? 体がおかしくなりそうだ……」

闇の中、長く吐かれた息とともに声が迫ってくる。シャノンは口元を垂れる唾液を拭うこともないまま、その声を聞いた。苛立つような、低い声だ。こんな声を出すリロイを見たのは初めてのことだった。いつだって、不機嫌そうな見た目とは裏腹に温和な雰囲気があった。教えると言った。やり遂げてみせると誓った。不興を買ったのだとしたら、ああ、自分はどうすれば良いのだろう。シャノンは震える。なにか、なにかを言った方が良いのかもしれないと心は言ったが、懺悔も弁明も言い訳も、謝罪の言葉ですら、口から出ることはなかった。シャノンは断罪を待った。剣が振り下ろされたのなら、それを甘んじて受け入れようという気持ちが胸には芽生え始めていた。深いため息が耳に届き、シャノンは肩を跳ねさせた。

「耐えがたいんだ、焦らさないでくれ……」

発された声に、シャノンはリロイの作る陰の中で顔を上げる。闇に潜む、紅潮した顔は怒りによるものではない。細められた目に宿る色はどろりと濁るが、そこにあるものは敵意でも憤りでもましてや憎悪でもない。まっすぐに目を向けてみれば、歪められた額に宿るのは懇願に近かった。焦らさないでくれ。つまりそれは? シャノンは背筋を駆け上がる寒気に耐える。耳が熱くなり、脳が茹だるような心地がした。



シャノンは凍り付いたようなまま動けない。熱っぽい吐息が髪を撫でる。リロイは手を組み合わせ、爪を立てるような仕草の左手で再度右の甲を引っ掻いた。低く、潜められたような声は鼓膜を重く震わせる。シャノンはそれらがなにによるものなのかを理解した。してしまった。背筋は寒く、震えが走った。

「終わるまでを待っていられそうにない。無作法な真似だとはわかっているが、どうにも耐えがたい」

頼んだのはほかでもない私だというのに。リロイはこぼすように言った。ぐっと迫る体にたじろぎ、シャノンは壁に肩を預けた姿勢のまま、膝をすりあわせた。シャノン、とリロイは言った。

「……許してくれ」

たった一言。上下する胸と剣呑な表情が異常を伝えてくる。示されるのは興奮だ。まともな状況ではないのが心の底から理解できる。シャノンは息をのみ、浅い呼吸を繰り返す。シャノンは言葉を返すことをしなかった。喉は息を通すのに忙しく、声の出し方なんてものはこの短い間にすっかり忘れてしまったようだった。リロイはもの言いたげに目を細めたが、それさえこの暗闇の中では悩ましげな色を帯びているように感じられた。

「無理強いをしたいわけじゃない。僅かでも嫌だと思うのなら、言葉で示すか……私から離れてくれ。私が言い終わってなんの動きもなければ、同意とみなしてこちらで進める」

それまでとは打って変わって、強い調子でリロイは言った。それは断ってくれ、と言っているのにも等しかった。態度や振る舞いに反して、言動はあからさまに拒絶を求めていた。シャノンは目を伏せたままで黙っていた。本当のことを言えば、すぐにでも逃げ出したかった。胸は破裂しそうで落ち着かないし、できることならここで今すぐ剣を抜いて、酩酊剣の甘い匂いを嗅ぎたかった。鞘に触れてこの心に仮初めの安らぎを求めるのだって良かった。しかしそれをしたならリロイはきっと離れていってしまう。それこそが、拒絶の証なのだと言って。シャノンはそれが口惜しかった。だから、努めて、なにもしないままでいることを選んだ。消極的に、しかし、断固として。

「シャノン……拒まねば触れる」

再度の要請にシャノンは揺らぐ。リロイは拒絶を求めている。断るべきだと理性は言った。穏やかに断りを入れて、何でもないような顔をして帰るべきだ、と。そしてまた、なにもなかったような振りをしてここへ来れば良い。それで全ては丸く収まるだろう。丸く? どうにも耐えがたいのはこちらだってそうだ。コートに隠れた素肌はずっとおかしな状態で、いくら理性が叫んでもシャノンの心はよこしまな期待に乱される。帰ってどうなる? この熱を持て余したまま帰路について、部屋に着くまでずっとまともでいろと? 退路は険しく、目の前に投げ出された誘惑は甘い。シャノンは唇を噛み、良識や体面、その他の社会的な模範的行動よりも目の前のそれに飛びつくことを選んだ。欲することを望んで選びとった。過去、触れることは罪であった。今は違う。

「……してください。あなたのやり方で」

シャノンは壁に体を沿わせ、背を見せた。肩越しに、リロイがぐっと苦い顔をしたのが見えた。

「合意と取る。……すまない」

いうさまコートに手がかかる。それからは早かった。コートの裾が避けられ、履物が下され、後ろから硬いものが股の間に押しつけられるまでに、二秒とかからなかった。湿っていた足のあいだを風が通り、肌をぞくりと粟立たせる。熱く濡れた感触に触れて、シャノンは息を詰め、もたれかかっていた壁をべったりと汚した。



欲望したその人が届く距離にいて引き返すことなどどうしてできようか。この暗闇の中に咎めるものなどあろうはずもない。足の間のものは石のように硬い。押しつけられて、どくどくと脈打つ感覚がよくわかる。興奮はあらゆる所作から感じられた。それは熱、重ねられて甲へと強く押しつけられる手、耳をかすめる無音の荒い息。音もなく湿った息が耳を撫で、シャノンは壁に爪を立てた。


甲を覆う手は甘えるように擦り合わされ、シャノンの心をかき乱す。強く掴まれて押しつけられるような動作は僅かな痛みをもたらしたが、それさえ今は些細なことだ。他者と関わりを持つことはあれど、こうして熱っぽく求められることは初めてのことで、シャノンはそこに混乱と目眩を覚える。とても平気ではいられない。とても、まともではいられない。かっと火の灯ったような体を溢れるような陶酔が塗りつぶしていく。整えられること、その全くの反対をいくような狂乱に、シャノンは壁へ頭を擦り付ける。求められていた。耐えがたいと言った。言葉を受けることには征服するような感触が、身を揺すられることには支配されるような官能があった。その二つの奇妙なアンビバレンスがシャノンの陶酔をより高みへと導いていく。


体は火照っていた。ひんやりとした壁はただそこにあって、シャノンを受け止める。もたれかかったまま下を見ると、用足しの時のように退けられたコートの隙間から、自分のものが見えた。そこは一度の遂情によって僅かな光に妖しく照り、行為によって濡れたことが暗い中にもわかる。自明のことだ、とシャノンは思う。胸を焦がすような熱情は他でもない自分のもので、そこに疑う余地は微塵もない。現にシャノンの心を震わせているのは足のあいだに挟まったもう一つの方だ。後ろから貫かれて、足の間からは膨らんだそれが僅かに見える。足を締めれば、熱はより強く感じられた。茹だったような頭の中で、このままではだめになってしまう、と思った。あまり凝視するものではないと思えど、不躾な好奇心を咎められることのないこの状況は、壊れかけの自制心を取り払ってしまうには十分過ぎた。シャノンはため息をつく。泡沫の夢だ。覚めてしまうことが惜しいとも、早く抜け出したいとも感じられるこの不確かに浮ついた時間は、偶然の生んだ蜃気楼だ。灯りがつけられれば、きっと日が沈むように、あるいは暁の光が青空にあとを託すように消え去ってしまうのだろう。ああ、それでも、今この瞬間はどこまでも熱い。

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