休暇-4(眠りに沈む人間達について)

ヴィクターは物音で目覚めた。ぱっと起き上がる。どろんとした怠さはまだ残っていたが、体は動くようになっていた。横を見ると少し離れたところで目を瞑ったリロイが死んだように眠っていた。あるいはコートを着ていたら、本当に死んだと思いこんでいたかもしれない。顔色の悪さは少し引いていて、シャツのボタンには掛け違いがあった。珍しい事もあるものだなと、しばし意識を奪われる。ふと訪れた静寂に、我に返ったヴィクターは慌ててリロイを揺すり起こした。

「おい、リロイ、起きろ」

声をかけても起きないので、ヴィクターはリロイの耳の端を掴んでぎゅっとひねった。時を待たず、目が開く。

「……ね、寝ていた。敵襲か? どれだけたった?」

僅かにかすれた声と赤らんだ目。起き上がると同時に、立てかけてあった剣の柄へと手が伸びる。ヴィクターはそれを遮った。

「敵はいない。結界の調子からして俺が眠っていたのが一時間と少しだ。重ねて言うが敵はいない」

ヴィクターはあらためて起き上がり、座り直してからたぐったシャツの腹で顔を拭った。髪に浸みた汗が鼻をつく。無論、嗅覚を不快に刺激するのはそれだけではない。体をなぞってみれば付着した体液は殆ど乾いて表面の滑りを奇妙に悪くしていた。手を伸ばして外していた下着を取れば、黒い布地には蝋引きか、ナメクジの這ったあとかといったような汚れが付いている。ヴィクターはちょっと眉を上げてからそれを身につけた。寝ぼけたような頭はうたた寝から冷めたとき特有の、妙に晴れやかな、それでいて空虚な感じがした。

「ああ……なんとも、そう……変な感じがするな……」

素足のまま、ベッドの上を這う。リロイはあくびをしたようだった。ヴィクターは気まずい思いをしながらシャツを握り、指先を滑らせた。

「……この状況で寝こけるなんて珍しいこともあるもんだ。危ないことするよな…… ああいや悪い、失言だ。責めているわけじゃない。……今のは、端的な事実確認をしたまでのことだ、対象には俺も含まれている……」

繋がりのない言葉を口からこぼし、『総合的には助かった』と結んでから、ヴィクターはため息をついた。

「あー……いや、しかし、とんだ無様を晒したな。つきあわせておいて悪いが、今日のことはできるかぎり早急に忘れてくれ……」

ヴィクターが見ている前で、頭を抑えながらリロイはゆっくり座り直した。もの言いたげに視線を巡らせたあと、もう一度控えめにあくびをして眠気を払うように首を振った。

「……かかる不名誉に関しては全部俺が被ってやる。だから、今はとにかく風呂に入れ。お互い酷い格好だ」

そう言ったリロイは頬を擦り、外れていたシャツのボタンをかけ直した。



「おまえの家、シャワールームなんてあったんだな……湯殿しかないものだと思っていた」

鍵のかかった扉だらけの廊下を進みながら、ポットを携えたヴィクターは感心したように言った。リロイの跡をついて歩きながら、帽子のストラップを胸へとはさみ、空いたカップへ茶を注いでは喉の奥へと流し込む。無作法も良いところの飲み方に、リロイはもはや何も言うことはしなかった。

「薬品を扱うだろう。どんなに注意を払っていても不測の事態は発生する。だからこうして安全マージンが用意されて…… いや、そういうことではないのか。安心しろ、施工者以外は誰も知らない。そして増築したのは私だ。ここは作業室共々魔術暗室になっている、知らないのも無理はない……」

淡々と言う魔術士の相方を、同じ魔術士であるところのヴィクターは見た。

「……そんなものを俺に教えて良いのか? 隠していたんだろ?」

リロイの目が暗く濁る。言ってしまってから余計なことだと気付くが、口から出た言葉を取り消す術はない。ヴィクターはいっそう低くなった声へ特別何をするでもなく、茶を含みながら続く言葉を待った。

「……他人に明かしてみろ、あることないこと吹聴して回ってやる。無論、今日のこともだ……」

眉根を寄せ、ヴィクターは少し困ったような顔をした。

「そう脅さなくたって言わないが……」


◆◆


魔術暗室になっていると言ったシャワールームへの入り口は部屋の奥に隠されていた。壁のフックへ帽子を預け、ヴィクターは肩を回した。リロイはさげていた剣を確かめ、コートを着たまま扉の前に立つ。

「警護は任せておけ。何かあれば呼ぶといい」

「……一人にしてはくれないのか?」

軽薄に笑い、声を作って言ったヴィクターへリロイは少し眉を動かした。

「なにが起きるかわからないからな…… 目を離したくない」

「……信用が無いな! まあいい、それじゃあとのことは任せるとしよう」

ヴィクターはそう言って扉の向こうへ姿を消した。衣擦れの音と、カランをひねる僅かな音、それからざあざあと水音が続く。リロイは剣の鞘を確かめる。そうして、五分経過するごとに扉の向こうへ声をかけた。

「調子はどうだ。安全は保たれているか? ……のぼせてはいないか」

「良好だ! 親切な誰かが逐一状況を聞いてこなければ更に良いな! ……ああ、わかっている、俺が倒れていないか見張る必要があるって事は重々承知している! ……余計なことを言ったな、忘れてくれ!」

喧しくあれこれと言ってくるヴィクターに対し、元気そうで何よりだ、とリロイは返した。声が途絶えれば、ただ、水音だけが静寂を引き継ぐ。リロイは剣の柄を指先で擦った。カチカチと時計の音。部屋に手袋を置いてきてしまったな、と思いながら天井の目地を眺めていると、急に背後の水音が止んだ。次いで、扉の開く音がする。

「なあ、石鹸ってあるか?」

髪を濡らしたまま顔を出したヴィクターに、さしものリロイもぎょっとした。

「……用意していなかったか。……これを使ってくれ」

その辺から適当に積んであった石鹸を半ば押しつけるようにして渡す。薄緑の固形石鹸は作られたばかりで、まだフィルムにも巻かれていない。ヴィクターはそれをつまんで受け取った。ドア越しに伸びてきた腕は、べったりと湯に濡れていた。

「助かる。……なあこれ、贈答用にするようなやつじゃないのか? 受け取ったからには使わせてもらうが……」

濡れた手で触ったから表面がとけてしまった、とヴィクターは言った。リロイは黙って頷く。動揺してそれが何かも確かめずに渡してしまった石鹸は言葉の通りに特別の調合のものであったが、足りなくなったらまた作れば良いだけの話だ。さしあたっての問題はない。


いぶかしげな目で手の中の石鹸を見ているヴィクターの額に髪が垂れ落ちる。ぱらりとこぼれた、雫のしたたる前髪をリロイはなぜか除けてやらねばと思ってしまった。目に入っては良くないだろうと思ったのかもしれない。指が届く寸前で、ヴィクターはそれをやんわりと止める。冷えた手は指先を緩く握って降ろす。それがあたかも、『良くないこと』であるとわからせるように。濡れた手袋の上で僅かにとけた石鹸の、ぬるりと滑る感触がいやに鮮明だった。困惑を覚えたリロイへ、ヴィクターは拒絶さえ感じられる冷たい目を向けた。

「触るなよ……」

「……すまない」

反射的に謝ったリロイに対し、いいぜ、今回は許してやる、と言って、ヴィクターは扉の向こうへ戻っていった。水音は再びざあざあと響く。残されたリロイはぬるついた指を眺め、取り出したハンカチで荒っぽく拭い取った。次いで見知らぬ顔をしたヴィクターと、冷たい手を思い出し、曰く言い難い感情に目を細めた。

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