HR(ボタンを掛けることについて)

リロイに着せかけたコートの前を閉じながら、ヴィクターはシャノンの服をじっと見た。向かって左、片側にだけ配置されたボタンは、布を貫いて並んでいる。反対のまえたてには何もない。ボタンを通す穴をかがる糸の縫い目はロウ引きしたように滑らかで、ヴィクターはそれに奇妙な感慨を覚える。


自身の手をかけるコートは、穴の一つ、継ぎ目の一つないひと繋がりのまえたてに、シャノンのものと意匠を同じくする飾りボタンが左右対称に六対並んでいる。身頃の内側は紐で結わえて留め、装飾的なまえたてそのものは端に縫い付けられた紐のループで肩や腰のボタンに留めておく形だ。メンテナンス性が高い代わりに手間の多い、複雑な構造の服だ。それをヴィクターは手慣れた様子でするすると着付けていく。

「あの、何故ヴィクターがリロイの服を……?」

やっぱりそうなるよなあ、とヴィクターは言って、苦笑した。シャノンは状況が掴めず、目をパチパチする。

「大人になれば服は一人で着られるのが当たり前だって言っていたものな。俺たちの若かった頃、一人では脱ぎ着できない服なんていうのはざらだったんだよ。いや違うな。そういう文化圏にいたんだ。朝に着付けて、夜に屋敷に帰るまでずっとそのまま。紐の一本でも解けば、他者の手伝いなしに結い直すことも叶わない。リロイの服はそういった文化が色濃く残っていた時代の品だ。……礼装とはいえ実戦に使う服だからな、一人で着れるように作られてはいるが、そもそもの前提が違うからこれが存外面倒だ」

ドレスがそうだったように、貞操が尊ばれているくらいのことだったらそれでも良かったんだが、時代が進むにつれてそうも言ってられなくなったんだよな、とヴィクターは続ける。ヴィクターは着付けたコートから手を放し、ふーっとにわかに息を吐くと、引っかけていただけだったコルセットの紐を掌に巻き付けて一息に引き締めた。そのまま余った紐を体にぐるぐると巻き、残り少しになったところをぎっと左の脇で結びつけた。


◆◆


ズボンに足を通し、組み紐を締める。スカーフを肩へ乗せ、余った布をコルセットに押し込む。縦縞のストマッカーを飾りのない鎖付きのピンで留める。丈の短い模様織りのコートに袖を通し、襟元を飾り付きのピンで留めていく。それだけで、目の前には普段通りのヴィクターが現われた。

マントと毛皮の襟を羽織り、ちょいちょいと帽子のつばを整える様子を眺めていると、素肌を晒していたこの数時間が全くの嘘であったようでさえある。

「シャノン、見ていないでコートを着てくれ」

どきっとして、シャノンはボタンを留めたが、半分まできたところで内側のボタンを留めていないことに気が付き、付けたそれらを外してまた留め直した。

「それ、ややこしくないか? なあ、シャノン、実際着てるとそうでもないのか?」

「着方がわからないと?」

訝かしむように言ったシャノンに対し、ヴィクターは軽く肩をすくめて見せた。

「そりゃ俺にだって分からないことはあるさ。シャノンのコートはボタンがたくさん並んでいるだろう。リロイの時代のコートなら構造を知っているから着付けるのも脱がせるのも出来るが、現代的な服はどうにもだめだ。一度採寸の手伝いで着せられたことがあるが……やっぱダメだったな、どこがどうなっているのかまるで覚えられない」

口を尖らせるヴィクターにリロイは首を振る。

「慣れていないだけだろう。そもそも一人で着る事を想定された配置だ。二十回もやれば覚えられる。年代が離れているからさすがに好んで着ることはしないが、着付けるだけなら私にもできる」

年若いものだって着るんだ、そうでなくちゃ困るだろう、とリロイは続けた。ヴィクターは『二十回』と繰り返し、ちょっと首をひねる。

「そりゃもっともなことだが、俺にそんな機会があるように思うか?」

「ないだろうな」

リロイはヴィクターの豪奢な織地の上着を眺めていった。ヴィクターはリロイの着るようなコートを着ない。生まれの違うヴィクターが枯れ草色のコートを纏う謂われはない。コートを着せたり脱がせたりというのは人との関わりによってしか発生し得ず、リロイやシャノンの感覚で言えばひと月にも満たない二十という数値だって、ヴィクターにとっては途方もない数字であろう。


とすると、ヴィクターはシャノンと関係を持ったことはないのか、とリロイはふと気が付く。ないだろうな、と思う。一度でもあったとすれば、シャノンが示した数々の反応の説明が付かない。本当に何も知らないまま連れてこられたのだろう。リロイは息を吐いた。



「ヴィクター、一つ話があるのを思いだした。渡したいものがある、少しこちらへ来てくれ」

そう言ってリロイはシャノンに聞こえない距離までヴィクターをひっぱってきた。棚を探り、手近なものを手の上にのせて握りこませる。それは小さな麻の袋だった。ヴィクターは怪訝な顔をして、開いた手の中でそれをちょいちょいとつつきまわした。

「話って何だ? 渡したいものもないのに俺を呼んで、その上こんな誤魔化し方をしなきゃならないってのはつまり、シャノンに聞かせられないようなことか?」

リロイは眉をよせた。話が早くて助かるが、察しが良いのが反対に苛立たしくもある。その通りだ、と言って頷く。

「シャノンのことだ。始める前にレクリエーションと言っただろう。そのことはいい、前例がないわけではないからな。……だが実際シャノンはどうだ。女との寝方を知っているようだったが、見る限りあれは大方初心な手合いだろう。何も知らない人間をこういった場に連れてくるのは褒められたことじゃない。違うか」

穏やかな調子ながら凄むような物言いをするリロイに、ヴィクターは心外だとでも言うように手を振った。

「いや、シャノンがおまえと寝たいって言ったんだよ。俺は後進の望みを叶えてやろうとしたまでだ……そうでもなきゃこんな風に引き合わせたりはしないだろう。今回のことは俺にとっても想定外だったんだ」

リロイは言葉を失った。嘘じゃないぜ、口止めされていたから明らかにするわけにも行かなかったが、とどこか困ったような表情でヴィクターは続けた。

「……何でまた」

「それを俺に聞かれてもな」

本人が言い出すのを待ってやれよ、とヴィクターが言うので、リロイはため息をついて話を打ち切った。

「それはやる。花の種だ。撒くも食べるも好きにしろ」

「花の種! そりゃどうも。大事に使わせてもらう」



「待たせたな、話は終わったぜ」

上機嫌で戻ってきたヴィクターを見て、シャノンは目を落としていた手袋から顔を上げた。

「そうですか? それでは、帰りの支度も終わったことですし、そろそろお暇するとしましょう。リロイ、急に押しかけてしまってすみません。丁寧なご指導、大変有意義な時間でありました。後日お礼をさせてください」

別れを惜しみ、優雅に礼をするシャノンは全くもって普段通りの好青年だった。リロイは眉を寄せ、口を開く。

「気を遣わなくったっていい。そのことよりも……」

言いかけたリロイをヴィクターは遮った。

「いや、話は終わったが、俺からはまだリロイに用がある。約束したんだ、茶だって出して貰わなくっちゃな。先帰っていいぜ」

シャノンがぎょっとするのが分かった。だろうな、とリロイは思う。

「ヴィクター、それでも年長者か、急に突き放すような物言いは止せ。シャノンも疲れているだろう。廊下を経由せずいける隣室が空いている。朝まで時間があるだろう、少し眠っていったらいい」

「お心遣い感謝いたします、リロイ」

「やったな、泊まってけ泊まってけ。リロイの屋敷に非公式に招かれるなんて、こんな機会なかなかないぞ」

口笛さえ吹き始めそうな調子で言うヴィクターに、リロイは呆れたように首を振った。

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