掃除の時間(後片付けについて)
「……布の汚れは落とせる。が、コートと肌は汚してはいけない。洗浄は蛋白を溶かしてしまう……」
肩に布をかけてベッドから降りたリロイが、金属のボウルと台とを持って戻ってくる。台に設置したボウルへ、水差しから水を注ぎ入れ、受け取った布を中に落とす。
「こうして汚れ物を水に浸けて、洗浄液を入れる。ただ、洗浄液には毒性があるのでそれを使うのが推奨されない状況では、こうして代替の術式を書いたハギレを入れる。これは油脂と蛋白を強力に溶かすが、当然これには天然繊維と皮膚も含まれる。肌に付けるのは御法度だ。禁を破るとケロイドができる。魔術的なものではないので通常の治療法で対処が可能だが、怪我の範疇であるので痛いし、なにより処置を間違えると痕になる。なるだけ避けてくれ」
リロイは脇に置いてあったステンの棒でまっさらになったハンカチを取り上げた。滴を振り落とし、力を込めて乾かしてみせる。
「この通りだ。水は適用範囲を指定するために入れるので浸るくらいあれば良い。水量がこの器の八割を超えると発動しない。生物汚染があっても対象が三ミリ以下の蛋白由来生物であれば無効化できる。そして範囲外に取り出された分は効果が消える」
「発動の条件は何故に?」
「持ったまま川に落ちたとしよう。条件なしの術式では全身がただれる愚を犯すことになる。だが、あまり少ないと今度は逆に不便さが勝る。取り回しがきくのはやはりこのくらいだ」
「なるほど。斯様でしたか。ところで先ほど乾かしてみせたのはどのようにやりました?」
「凝縮したまま熱を通し、回りきったところでひといきに解放する。気化熱で抜ける分と拮抗するようにやらないと布が燃えたり、反対に生乾きになったりするので細心の注意が必要だ」
◆
「これのおかげで随分衛生的な暮らしが出来るようになった」
ヴィクターはリロイが洗い終わったハンカチを乾かしているのを眺めながら、汚れた手袋を外して水の中へ落とした。その手を見てシャノンはぎょっとする。
「どうした? なにか気になることがあったか?」
「その指輪は外さないのですか? というより、あなたほどの人がどうしてそんなに……?」
シャノンの視線を追い、ヴィクターは自分の手に填まる大小二十個あまりの指輪を見た。ヴィクターは目をパチパチさせる。
「……ああ、これか! 外さないんじゃなくて外せないんだよ。若いやつが魔力駆動の補助で付けるやつに似ているが、これはもっとややこしいやつだ。知っての通りそこそこキャリアのあるやつは素手で何でも出来るのが当たり前だが、俺たちはその上で禁術に手を出している。補助具は必須だ。見せてやれないが裏面なんかびっくりするようなこと書いてあるぜ。永続常時可動なんて人の身でやるもんじゃないな!」
ヴィクターは軽く笑って見せたが、話を聞いていたシャノンは頬を引きつらせた。
「永続常時可動……? ヴィクター、あなたは…… いえ、随分と何でもないように言うんですね。その指輪全部が『そう』なんですか……?」
驚きと困惑に揉まれ、苦い顔つきになったシャノンが声を潜めるようにして尋ねると、さっきまで鷹揚に笑っていたはずのヴィクターの顔から感情の全てが抜け落ちた。シャノンはぎくりとする。およそ人間らしい色の消え去った顔の中、喋るために開いた口角だけが僅かに上がり、どこか微笑んでいるようでもあった。
「……優秀な弟子を持てて嬉しいよ。おまえくらいの歳でこれがどういうことだか分かるっていうのはなかなかない」
低く耳に届くそれが遠回しな肯定であるのに気づき、シャノンはぞっとした。永続常時可動。それらはいわば不治の病だ。永続。効用は強力であるが対価が重く、一度回り始めれば、死ぬまで止まることはない。それは非常に厄介で、魔術に生き方を固定する呪いそのものであると言われている。常時と名の付くとおり、昼も夜もなく力を引き出し続け、発動する者の肉体と神経の両方に負荷をかける。絶えず巡る魔力の回転は、即時性こそないもののゆっくり着実に体を蝕み、執行者が人間のままいることを許さない。補助や別の術式で一時的に取り外すことも可能ではあるが、それも所詮気休めに過ぎず、真に解放されるのはそれこそ命が尽きるときのみだ。
対価は重い。職業選択の自由も、人としての暮らしも、時には命さえ対価に差し出して、深遠なる魔術に身も心も縛られたまま、果てのない研鑽を積む。いつか来る終わりの日まで。そういう生き方を選ばざるを得なくなる。文字通り、尋常の手段ではない。シャノンは背筋が薄ら寒くなるのを感じた。それを決心したのがいつの話だったかまでは知らぬ事であるが、そのときのヴィクターには『そうまでして』叶えたい望みがあった。そしてヴィクターは対価を差し出した。呪いがもたらす苦痛のことよりも、それがシャノンには恐ろしかった。
「……どんなふうですか」
「なにがだ」
短く返った言葉に、シャノンは焦りによって口を開いたことを悔いた。しかし、問い返された手前、言いかけたことを引っ込める訳にもいかない。シャノンは考え得るかぎりの言葉の中から難のないものだけを選びとり、会話を続けた。
「特別な力を手にしたのなら、それまでとは違った世界が開けるのだと聞きます。ヴィクター。あなたのもつそれは、どんなふうですか。なにか、変わりましたか」
光にかざすような仕草で手を眺め回していたヴィクターはシャノンへ顔を向けた。そこにいたのはいつもどおりの親しみやすい顔をした指導者で、ちょっと咎めるようにして眉根を寄せた表情にさえ、シャノンは少しの安堵を覚えた。
「興味があるのか? やめておいた方が良いぜ、まだ若いんだろ。こういうのはどん詰まりまで行って身動きの取れなくなった人間が道楽でやるもんだ。伸びしろのある時分のやつにはやらせられないな」
努力の甲斐あって、ヴィクターには力そのものに興味を示したのだと解釈されたらしい。シャノンは最悪の事態を免れたことを知る。
「いえ、そういうわけでは。……訓練生たちの間ではそれについて、真贋の不明な多種多様の噂話が流れています。あなたが実際に知っていると分かったので少し……気になっただけです」
そういうことにした。何を望んだのか、それは叶ったのか、聞きたいことは色々あったが、下手なことを言って知るべきでないことを垣間見てしまうのが怖かった。
「噂ねえ…… ああ、そうだ。まさか吹聴するような真似をするとは思わないが、これのことは黙っておけよ。その多種多様の噂の中に並べられるのは遠慮しておきたいんでな。ただでさえ色々言われているってのに、身内にまで気を配らなくちゃならないとなったら面倒なことこの上ない……」
心底厄介そうに零すと、ヴィクターは何事か呟き、掬い上げた手袋から水滴を払って手にはめた。ヴィクターが手を打ちならすと、両手が湯気の靄に包まれる。思えば、ヴィクターが素手のところを見たのは今日が初めてだった。なるほど、好奇の視線に晒されることは、自分には想像もしないレイヤーの不便があるのだろうな、とシャノンは思う。禁術に親しんだ『俺たち』のなかに、いつか遠い未来、自分が入ることはあるのだろうか。そのとき、自分は何を感じるのだろう。
「ヴィクター。俺たちと言いましたが……つまり、その、リロイも? 先ほど見たときはなにもつけていないように思ったのですが」
「あいつは足につけていただろう。あれがそうなんじゃないか? いや、実際の所は分からない。俺とリロイじゃ系統が随分違うからな」
手を広げ、ヴィクターは肩をすくめて見せた。
「……ヴィクターにも分からないことがあるんですね」
「なんでも知っていると思っていたのか? そりゃあ浅慮ってもんだぜ、いや、買いかぶりって言った方が良いか?」
おまえには許されても俺ではやらせてもらえないことだってある、と言ってヴィクターは軽薄に笑ってみせた。笑う顔へと影が落ち、二人が顔を上げると、そこにはリロイが立っていた。
「ヴィクター、なんの話をしているかまでは知らないが、こっちへきて片付けるのを手伝ってくれ。乾いたシーツを畳むのに人手がいる」
「了解した。何もかもやらせてしまって悪かったな。シャノンは乾いたハンカチを畳んでくれ。裏側を手前に向けて持ったとき、縦手前下方向に二度、左側手前に二度折れば良い。わかるか?」
シャノンはヴィクターの言ったことを反芻した。
「問題ありません。そのように」
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