午後12-3

騒がしい気配を感じ、帳面から目を上げたリロイの視界に入ってきたのは、シャノンのコートの裾を引くヴィクターの姿だった。

「……何をしている! ヴィクター!」

立ち上がった勢いのままリロイは早足に歩み寄り、ヴィクターの肩をぐいと押す。ヴィクターは裾から手を放し、押されるまま背もたれへと背をつけた。視界の端で、シャノンが少しほっとしたような顔をしたのが見えた。リロイは座ったままのヴィクターに向き直る。

「許可もなしにコートの裾を捲るやつがあるか! この不埒ものめ、一体なにを考えている! シャノンも何か言ってやれ」

「え、いや、そんな…… なにか、タブーが……?」

ぎょっとしてリロイは口を噤む。シャノンは驚いたような顔のまま事態の推移を見守っている。肩に置いた手を剥がしたヴィクターが物言いたげにゆっくりと立ち上がり、蔑むような視線を寄越したのでリロイはこわごわと手を引いた。

「……なにが気に入らない? 俺はシャノンの師だぞ。上官だというだけならそれはまずいこともあろうが、俺は身を預かる立場だ。帽子の飾りをつけてやったのだって他でもないこの俺だ。装備の出来を見てやるくらいなんだと言うんだ?」

少し怒ったような調子で発されるヴィクターの言葉へ僅かにたじろぐも、リロイは強いて目を細め、睨むようなそぶりで返した。

「誤解がある。確かにヴィクターの言うことはもっともだ。だが、私が言うのはそういうことではない」

「じゃあなんだっていうんだ?」

リロイは言葉に詰まり、眉根を寄せた。指先がさまよう。なんと言ったら良い。なんと言えば通じるだろうか。リロイはヴィクターを手招き、よく聞くようにと促した。

「……その垂れ布は確かに縫い取りを露見から守る目隠しのカバーでもあるが、同時に……なんだ、裏地の汚れよけでもある」

ヴィクターは不可解そうな顔をして短く首を振った。

「いや……それは知っている。何を言いだすんだ? シャノンが儀礼用の飾り幕をつけているから、遠征の前に普段使いのグレードの物を用意しろと、今そういう話をしていたんだ。砂塵除けなのだろう? ぬかるんだ場所であれば泥だって跳ねるものな……」

何一つとしてわかっていないヴィクターの反応は、いっそすがすがしいほどであった。首を傾げて頬を掻くヴィクターに対し、リロイは口を引き結んで首を振った。

「違う。そういうことではないんだ。そもそもの行き違いが……いや、ヴィクター、耳を貸せ。人前で言えるような話じゃない」

リロイはヴィクターを手招き、顔を寄せるよう求めた。ヴィクターは警戒しながら顔を近づけた。リロイは本当のところを教えてやる。耳に吹き込まれた言葉に、ヴィクターは目を瞬いた。

「……は、下着? 嘘だろ?」

声が大きい、とリロイは言って目の前の耳たぶをつまんだ。ぎゅっとつまんだ耳は思うより固い。指先に伝わる感触が軟骨のそれであることに気が付いて、リロイはすぐさま手を放した。ヴィクターは耳をさする。そこは少し赤くなっていた。

「加減しろよな…… いや、しかし……知らなかった。だってお前、そんなそぶり見せなかっただろ……」

「……当たり前だろうが。俺にだって羞恥心はあるんだ。周知の事実だとはいえ……違うな、だからこそだ。おおっぴらに吹聴して回る義理がどこにある? 俺がそんなことをわざわざしたがる人間だとでも思うのか……」

声は低く響いた。恥を知れと言わんばかりのリロイの勢いに押され、ヴィクターはたじろいだ。

「わかっている。お前がそういう風じゃないのも知っている。急なことでちょっと驚いただけだ……」


◆◆


シャノンは驚いたような顔のまま黙ってしまったヴィクターとリロイへ交互に視線を向け、少し考えてからヴィクターに尋ねた。おずおずと声をかけてくるシャノンを見ながら、こういうときは俺に聞くんだよな、とヴィクターは思った。

「あの、結局なんだったんですか……?」

「うん? ああ……なんて言ったら良いんだろうな。……いや、シャノン、お前、汚れ除けも何も、そもそも飾り幕をつけてたよな? とにかく普通の……汚れても問題のないやつを用意しろ。今は視線と様々の汚損から、コートの裏地を保護する役割があるという所だけ分かっていれば良い。生きてりゃそのうちわかるようになるだろうし、わからないならそれでいい」

いいな、とヴィクターは言った。これ以上は聞いてくれるなとその目は言う。なにか口に出しづらい事情があるらしいのが言葉の節々から伝わってくる。訊ねるにしてもほとぼりが冷めてからの方が良さそうだな、と判断し、シャノンは頷く。

「ええ、わかりました。……そのように」

「帰ったらすぐにでも仕立屋に連れて行ってやる。そういえばシャノン、そのコートは洗っているのか? 随分綺麗に見えるが」

「規定通りに手入れはしています。なにか問題が……?」

綺麗にしているといって物言いが付くとは思わなかったな、とシャノンは思った。ヴィクターは少し首を傾げ、気のないふうに首を振った。

「たいした事じゃない、これから汚すかもしれないってのに、新品だったら嫌だなと思っただけだ。手入れの仕方がわかっているのならそれでいい……コートは俺じゃ扱えないからな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る