午後-13(足を踏む不名誉について)

交わされていた声は止む。話すことはもう残っていないようだった。ヴィクターはこの後の話をした。であるならば、いつまでもリロイの元に留まっているというわけにもいかない。そもそももうじき日没だ。胸の中にある缶についてリロイへ再度の謝意を示し、シャノンは形式的に微笑んだ。

「それでは、この後の予定もありましょうし、そろそろお暇したく存じます。本日はお招きいただきありがとうございました」

それではまた、と通り一遍の挨拶をする二人を、ヴィクターはシャノンの背後から眺めていた。指の先を擦り合わせ、床へ目を落とす。そこでふと気が付いてヴィクターは背筋を伸ばした。

「ああ、そうだ。一つ忘れていた。シャノン、こっちを向け」

言いながら、ヴィクターは下げていた剣を持ち上げて鞘の表面を手で払う。こっちだ、俺の方を見ろ、と手招いて繰り返したので、顔を上げたシャノンは体ごとそちらへと向けた。このタイミングでわざわざ声をかけると言うことは、何か装備に不備を見つけたのだろうか、とシャノンは思う。思えばヴィクターには分解剤の入手経路を訊こうと思っていたのだった。しかし、それは後でも良い。

「どうされましたか。なにか、気付いたことが……?」

「そのまま動くなよ」

「え……」

ヴィクターは床を蹴って立ち上がった。僅かに顔が近づく。抱き竦めるような仕草でシャノンの前に進み出たヴィクターは、手にした剣の鞘をシャノンの靴紐の隙間へと噛ませ、押し込んで切る。ブーツの口を絞っていた紐がぶつりと音を立てて飛び、シャノンは素っ頓狂な声を上げた。

「あわっ……な、何をするんですか!?」

「なんだろうな。気が変になったのかもしれないな……」

きくだに恐ろしい言葉を口にして、ヴィクターはどこか心ここにあらずといった様子で顔を歪めてみせる。真意の読めない行動にシャノンはたじろぎ、わずかに下がった。挨拶の後、机に敷かれたランナーの歪みを直していたリロイは顔をしかめ、剣を持って立ち上がった。

「おい、ヴィク、何をする気だ」

「……帰る前に確かめておきたいことがある。体に傷をつけるようなことはしない、手出しは無用だ」

シャノンから目をそらさないままヴィクターは答えた。剣を持って、じりじりとにじり寄ってくるヴィクターには怒りも悲しみもない。表情は僅かに歪められたのみで、そこに明確な感情はない。シャノンは距離を開けるように少しずつ下がった。

「ふむ、どうしたものか……」

ヴィクターはシャノンのそばへ寄ると、腕を組み検分するようにシャノンを見た。不穏の気配が胸を凍らせ、シャノンは立ち止まる。ヴィクターは目を細め、少し笑った。そうして目の前で笑うヴィクターは軽く頷いたのち、目にも留まらぬ早さで足を払う。靴紐を切られているシャノンは避けきれず、重い打撃を喰らって床を転がる。ヴィクターは受け身を取ったシャノンの動きに合わせ、鞘に収めた剣先でブーツを払った。抜き去られた靴は絡め取られヴィクターの手元へ収まる。床に尻をつけたシャノンは起き上がろうとして絶句した。巻いていた布もほどけ落ち、片足は今や白日の下にさらされている。シャノンは手袋を嵌めた手で露わになった足首を隠した。

「ヴィクター、なんの真似ですか!」

「うん? んん……」

ヴィクターは鞘の先で手をどかし、白い足を見た。傷はなく、痣の一つだってない。蹴られたような痕もなければ、手元の靴にも疑わしきことはない。靴紐は左右共にくたびれていて、そこに見える摩耗の度合いも一致しているように見えた。

「ちょ、ちょっと、一体何を……」

「……なんだろうな、まあ、もう用は済んだ。靴は返す。靴紐も新しいのをやろう。ほら、掴まれ」

剣を腰に戻したヴィクターは手を伸ばし、起き上がろうとするシャノンへの手を掴んだ。未だ混乱したような心で立ち上がったシャノンには、言葉通りに靴と紐と椅子が与えられた。



「ヴィク、なんなんだ今のは。承諾もなしに靴を脱がすなどと……」

手出しは無用と言われた手前、止めることも口を出すこともできなかったリロイがようやくといったように口を開く。ヴィクターは眉を上げた。

「足に傷がないか見た。足をひねっていたのなら薬を貰わなくちゃならないからな……まあなんだ、その必要は無かったようだ。疑って悪かったな」

リロイとヴィクターが話すのを眺めながら、シャノンは拾った布を足先へと巻き、ブーツを履き直した。切れた紐を入れ替えようとするが、貰った靴紐はグルグルと巻かれていてなかなか解けなかった。

「どうだ、シャノン、入りそうか?」

話を終えたヴィクターが椅子の方へ寄ってきたので、結び目と格闘していたシャノンはヴィクターに助力を求めた。ヴィクターは紐の端を指さし、抜いてみろ、と言った。次いで、空色のハンカチを差し出す。細かい染め模様のハンカチはシャノンの知るそれらのどれとも違っていた。解決の糸口の見えた靴紐のかたまりから目を上げ、シャノンはヴィクターを見返した。

「これもやる。さっき一枚破いたからな」

シャノンは礼を言って差し出された空色のハンカチを受け取った。渡された靴紐の巻きが解けると、紐は四本一組になっていた。

「ヴィクター、四本ありますが…… これで合っていますか?」

「合っている。なあシャノン、靴を脱がされることはお前にとって恥か?」

急に投げかけられた質問に、シャノンの思考は一瞬止まった。

「それは……そうでしょう。……わかっているなら何故やるんですか?」

非難の色を帯びたシャノンの声へ、必要なことだからに決まっているだろうとヴィクターは返した。シャノンは眉を下げる。ヴィクターが必要だと言うのならば、それはある意味での真実だ。ヴィクターはこういうときに嘘をつくようなことはしない。言葉は信用に足るものだ。それが癒やしや安心を与えることはないとしても。

「それで、恥だと思うのならそれは何故だ? 説明できるか? 視線に晒されたところで物質的に損なわれるというわけでもないだろう?」

続く問いにシャノンは言葉を失う。恥ずかしいのは本当だ。だが、ヴィクターの指摘通り、そこにそれ以上の明確な理由というのは思いつかない。シャノンはなんとか自身の感情に沿うような言葉を探した。

「……靴でいるべき場所と場合に、素足を晒すのは社会的合意に外れた行いだからでしょう。それがたとえ習慣としてのことだけでも、私はそこに恥辱を感じます」

ヴィクターはちょっと首を傾げた。

「人がそうだと言うから自分もそう思う、ってよりは随分上等な答えだな。俺は嬉しいよ。……シャノンの言うとおり、靴を脱がされることは辱めだ。だが、実戦の場で行われる辱めはシャノンの言うような社会的なものではない。俺が足払いをしたとき、飛んで避けるのに失敗しただろう。靴を抜かれることの本当の害というのはそこだ」

僅かな間だけ言葉を切り、ヴィクターは目を眇めて言葉を続けた。

「歩けなくなること、回避のできないこと、防御の手段を剥奪されること。歩けなければ逃げられず、回避も然りだ。柔らかい部分を晒せば、自然そこから食いつかれる。悪意は実像を結び、お前に恥辱と死を与える。いくら安全な世になったとはいえ、人間の抱える悪意には際限がない。絶対に忘れるな」


どこか雲を掴むような話だった。ヴィクターは忘れるなと繰り返す。

「……そのことと、ここに紐が四本あることには一体なんの関係があるのですか」

「一本だとさっきみたいに切られた場合対応できないだろう。互い違いに入れて片方飛んでも動けるようにしておけ。シャノンの靴なら二本ずつで足りるはずだ」

続けて、押さえつけられたときに片足が動かないのではその後に悪影響が出るしな、といったので、シャノンは少し変な顔をした。


◆◆


シャノンが靴紐を通すのに四苦八苦している後ろで、リロイは切れた紐を眺めていた。

「……行動の制限という話だったが、これはどういった場合に使われる戦術なんだ? 対峙した状態で靴紐へ刃を向けるのは厳しかろう、背後を取ったのならそのまま斬りかかれば事は済む」

不思議そうに訊ねたリロイへ、ヴィクターは不審な目を向ける。

「それだと普段と何も変わらないだろう。少なくとも、戦意を剥ごうというふうではないな。集団でいるところでやればパニックくらいは起こせるかもしれないが……」

戦術的な側面で言うならば、相手を怯ませたり、防御手段を潰したり、心理的に追い詰めて戦わせなくさせることに特化したやり口だ、とヴィクターは続けた。

「……というかここでその言葉が出てくるということは、本当になにも知らないんだな……」

ぽつりとこぼされた言葉に、無知を咎められたのだと思ったリロイは僅かに眉を寄せた。

「そうは言うが、逃走手段を奪うだけならもっと簡単なやり方だってあろう。わざわざ狙ってやるようなことだとも思わないが……」

「正論過ぎて答える気にもならないな。まあ、なんだ、想定されている事態がちょっと違うんだ。単純な斬り合いで解決できないような場合だと考えなくちゃならないことが増えるってことなんだろうな!」

そう言ってヴィクターは、いかにもわざとらしい、乾いて抑揚のない笑い方をした。そんだけだよ、と続けて言い、腕を組んだヴィクターはリロイが何か言い出すより前に話を打ち切った。

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