午後12-2

言葉の応酬が止むと、ヴィクターは机の上のティーポットへ目を向けた。リロイはそれを目で追ったが、いかにもな視線は予想に反してなにもなく戻る。おや、と思っているとヴィクターと目が合った。

「なあ、リロイ。何か食べるもの持ってないか」

珍しい申し出だった。リロイは少し驚く。

「……腹が減っているのか? 夕食の時間まではまだ間がある。出せるものと言ったら茶請けくらいしかないが…… いや、焼き菓子があった。後で食べようと思っていたものだが、入り用であるなら融通しよう……」

離れたところにいるシャノンはヴィクターの持ってきた指輪を調べているようだった。自分がしばらく席をはずしていても問題にはならないだろう、とリロイは判断する。必要だと言うなら持ってくるがどうだ、と再度問う。

「助かる。朝から食事の機会を逃し続けていたんだ。道中何か食べようと思ったが、思ったよりも移動に時間を……別の部屋にあるのか?」

「私室の棚だ。何か?」

見返す目が僅かに動く。一瞬だけ考えるような間があった。

「いや。自分で持ちに行く……と、言おうとしたわけだが、今の時間は人がいるだろう。聞かなかったことにしてくれ」

言葉は放たれると同時に打ち消される。今は日中、それも夕刻にさしかかった頃合いだ。確かにヴィクターの言うように、屋敷の中を歩けば誰かに見咎められる可能性が高い。しかし、それを客人である側のヴィクターから指摘されるというのはいかがなものだろうか。ここは私の屋敷だぞ、と言いたくなるのをリロイはぐっと堪える。

「ヴィク、あまり勝手をされては困る」

「……だから任せるといっただろう。なんだよ、何もしていないうちから文句を言われる道理はないぞ」

ひらひらと手を振り、ヴィクターは面倒そうに首を傾けた。リロイは軽く息を吐いた。

「わかった。持ってくるから少し待っていてくれ。ポットの茶は飲んでしまっても構わない」

「そりゃどうも。……新しく淹れてくれるってことで良いんだよな?」

焼き菓子の油分だけで口を潤すのは勘弁願いたいと続いたので、リロイは額を押さえ、目を瞑って嘆息した。

「いくらでも入れてやるからシャノンとここで大人しく待っていてくれ」


◆◆


扉の閉まる音に意識を戻される。視線の先でヴィクターは手を振った。指輪から顔を上げて、シャノンは向かってくるヴィクターへ訊ねた。

「……何かありましたか? リロイはなんと?」

「ああ、気にするな、たいしたことじゃない。それよりさっきから指輪を眺めていたようだが、どうだ、なにかわかったか?」

そうですね、と口に出し、シャノンは手の中の指輪を見る。指貫に似た銀色の指輪は裏に無数の穴があった。一度刻印してから丸めたのだろう、細かに刻まれた紋の間には物質的な継ぎ目があるが、それが緩みとして機能せぬよう埋められている。僅かな歪みが散見されることから、継ぎ目の部分の彫刻は手作業で入れられたものらしい。シャノンはなんといったものか、少し考えた。

「どうでしょう。あまり量産のきかなそうな作りだなと思っていたところです。あまり出回らないのではないですか?」

「そうだな、俺は少なくとも誂えでしか見たことがない。特性上、出回るものは未使用品に限られるわけだが、そもそもが使い切りの実用品だ。わざわざ作らせておいて使わないということもなかろうよ。古代遺跡からだってこの手の品は出てはこないしな」

消耗品は作りが良くても残らない、とヴィクターは言った。頷きながらシャノンはふと、手の中のものにかけられた手間を思う。あつらえでしか見ることのないという指輪。身につけて違和を覚えぬほどに精緻なこしらえの素体。びっしりと刻まれる紋だって繊細だ。そこからは手間と時間をかけて作られたものであるというのが見て取れる。それこそ使い捨てにするには忍びないほどの。ヴィクターの言葉が正しければこれも注文品だ。おそらく、伴う値段も相応の。

「……何もなく帰ってこられると良いのですが」

ヴィクターの私有財産から出されたのだろうな、となんとはなしに思う。シャノンは指輪をつまんで指の股へと押し込んだ。いくら自分が弟子だとはいえ、他人に渡すようなものでもなかろう。そんな品をわざわざ寄越すのが、逆説として何を指すのかわからないシャノンではない。まだ死にたくはないな、とぼんやり思う。

「それはトラブルに遭いたくないってことか?」

「……今の言葉で、他にどんな受け取り方があると言うんですか?」

目を細め、ヴィクターは変な顔をした。

「……だな、シャノンの言うとおりだ。まあなんだ、トラブルに遭いたくないと思うのは結構だが、現実問題そうも言っていられない。そのへんはなんとか頑張ってくれ」

「なんとかって…… そんなぞんざいな……」

あれこれと細かく注文をつけてくるのだと思っていたタイミングで頑張れとだけ言われるのは意外と堪える。シャノンははしごを外されたような心持ちのまま指輪を袱紗に包んで懐へ片付けた。

「俺だってできる限りの補佐はするさ。あとは個々人の努力次第……と言いたいところだが、遺跡攻略なんていったら当然運も絡んでくるからな。どうしようもないときもある。ああ! お祈りの仕方を教えてやろうか?」

「お祈り……」

目を細めたシャノンが言われたままを繰り返すと、ヴィクターは意味ありげに口の端を歪めて小さく肩をすくめた。どこか嫌な感じのする表情は、冷たい刃をなぞるような、微かな怖気を連れてきた。シャノンは由来の知れない感情に恐れと当惑を覚えた。

「なんだ、シャノン、そんな顔するなよ! ……冗談だ!」

ヴィクターはぱっと手を振った。不穏な気配は瞬きの間に霧散する。普段と何ら変わらない顔に、ぬるりと光る刃物じみた剣呑さはとうにない。シャノンは何かを言おうとした。そこに扉が開く音がして、全てはうやむやになる。向かい合ったまま黙っている自分たちを見て、リロイは首を傾げた。話の邪魔をしてしまっただろうか、と問う声に、シャノンは眉を下げ、曖昧に首を振った。


◆◆


リロイの渡す菓子の皿を受け取り、ヴィクターは切り分けた焼き菓子を口にした。簡素な作業机に並ぶ茶器の輝きはちぐはぐで、どこか奇妙な調和さえ感じさせる。

「うまいな。しかし、シャノンが来る前にも誰か来ていたのか? この感じだと議長あたりか。つくづく客の多い日だな……」

「客の二人目が何を言っている…… そもそもこれはシャノンが持ってきた分の残りだ。今日ここへ来たのはシャノンとヴィクだけで、私は他に誰とも会っていない」

リロイは帳面のページをパラパラと捲りながら、やや投げやりに言った。ヴィクターは僅かに目を見開いて、シャノンの方を見た。二秒ほどじっと見た後に顔を戻し、何でもないように言った。

「そうか。茶をもう一杯貰っても?」

「構わないが……」

ポットを手にし、真顔で茶を注ぐヴィクターを、リロイは少し困ったような顔で見た。その表情は、同じく戸惑っていたシャノンへと親しみを覚えさせた。

「……ヴィクター、私の焼いた菓子に何か……?」

「いや、手が込んでいるから驚いただけだ。風味付けはミザクラの酒だろう……魔術士をやめて菓子職人にでもなる気なのか?」

わざわざ取り寄せたのか、と言外に問われたことに気が付き、シャノンは表情を硬くした。ミザクラの酒が造られるのはここよりもっと北方だ。このあたりでは出回らないことをヴィクターは知っていたのだろう。挨拶のために持ってくるものとしては、やや過分な品であるとヴィクターの目は言っている。言葉にこそしないが、シャノンもそれは承知の上だ。生地を混ぜ、釜へ入れ、焼き上がるまでつきっきりで世話を見たのは他でもないシャノンだ。

「普段、見かけない品が手に入ったから使ってみたまでのことです……い、良いでしょう、余暇に私がなにをしていたって……」

ひとつ訂正するのならば、酒自体は取り寄せでなく、公務の合間を縫って私的に買い付けてきた品であるのだが、シャノンはそれを伝えるつもりはない。私費を投じ、余暇をなげうって菓子作りに興じていたなどと思われるのは具合が悪い。故に、シャノンはあたかも、珍しい酒の瓶は偶然手にしたのだというような顔をした。動揺が声に出てしまったな、と思ったが、聞いていたヴィクターはちょっと肩をすくめただけだった。

「別に、珍しいことするよなって思っただけだ。それともなんだ、そんなに強く否定するってことはなんか含みがあるのか? やめたいっていうのなら手を貸してやらないこともない」

しかし本当にうまいな、とヴィクターは呟く。店をやるなら味見には呼んでくれと言うので、シャノンは少し眉をひそめた。

「……役職をもらったばかりの身です。経歴としてもこれからという時期でしょうに、私が責務を投げ出して出奔するとでも? なにより次の月には女王の領地に行くのでしょう。冗談を言っている場合ではありませんよ」

「その通りだ……なんだ、存外やる気だな!」

ヴィクターは最後のひとかけらを飲み込むと、茶で潤した唇をハンカチで拭った。

「やる気ついでに伝えておこう。人里離れた山奥じゃ帽子とコートが命綱だ。持ち出し用の針と糸を用意しておけ……いや、その前にシャノン、お前、縫い取りはどんなふうだ?」

「どんなふうと言われましても……なにも特殊なことはしていませんが」

「ちょっと見せてみろ」

ヴィクターは手を伸ばしてシャノンのコートの裾を捲った。ぎょっとしてシャノンは動きを止める。

「なっ、何をするんですか。見せろというのなら見せます。ですが、その、先に声をかけてください。急に服を引っ張られたらヴィクターだって驚くでしょう……」

シャノンはコートの前をそれとなく押さえる。露わになっていた裏地と、渡された白い掛け布が引かれ、僅かに下がる。白い布地には縁取りのように蔓草の刺繍がされていて、ヴィクターの関心を引いた。

「……驚くのは結構だが……いや、ちょっと待て。おまえこれ、儀礼用の飾り幕だろ。どうなっている、ずっとこれか? 仕立ててから?」

「な、なんですか? なにか不都合が……?」

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