一日目

3-2 一日目 朝(宿舎~図書館)

風呂を浴び、言いつけられたとおりに部屋の片付けを済ませたシャノンは、コートを外しベッドに体を預けた。干したシーツからは陽光の匂いがした。明日から始めるのだとヴィクターは言った。せめて何事もなければ良いと思えども、その望みが叶ったことは数えるほどもない。夜が明ければまたなにか、ヴィクターの手引きによって名状しがたいいざこざが起こるのだろう。シャノンは息を吐き、床についた。体を横たえて上掛けに包まってから、そういえば仕立屋に行くのではなかったのかと思ったが、問いに行くには既に遅い時間であったので起き上がることはせず、シャノンはそのまま目を閉じた。



控えめなノックの音でシャノンは目覚めた。じっとりと重い暗闇は、今がまだ夜のうちであると知らせてくる。剣を下げ、枕元にかけていた手拭いで顔を拭き、少し距離を開けたまま扉の向こうを伺う。

「どなたですか?」

「俺だ、迎えにきた」

声は聞き慣れた己が師匠のものであった。お待ちください、と断ってから、シャノンは手早く髪に櫛を通した。シャツを被り、コートを羽織り、一も二もなくボタンを留め、手拭いを引き寄せた。水差しから雫を垂らしもう一度顔を拭く。ずいぶん早いおでましだ、と思うも、来てしまったものは仕方がない。口を濯ぎ、帽子を被り、剣を取り、再度の呼び出しがかかる前にシャノンは扉の鍵を外した。

「お待たせしました」

「行こう、あまり騒ぐとまずい」

くぐった扉をそっと閉め、そうでしょうとも、とシャノンは思う。朝日の昇る気配すらないような夜と明け方の中間地点だ。帽子のつばの下から覗く目は鋭く、夜明け前の妖しい光を孕んでいるようにも見える。腰に固定した剣の角度を直していると、ヴィクターは少し振り返って首を傾げた。

「……眠っていたか?」

「お察しの通りです」

そうか、と無感動にヴィクターは言った。なぜこんな時間に呼びに来るのだろうと思ったが、前日に一日休みをもらっている手前、あれこれと文句を付けるのも憚られた。先を行く師は静かに口を開いた。

「今日からの講義はなしだ。無論俺も授業には出ない。日中は図書館に行くぞ、地理と植生を頭に詰めろ。その他の時間は訓練だ。やることは多い、気合いを入れていけ……」

潜められた声は告げる。先が思いやられるな、とシャノンは思ったが、わざわざ口に出すことはしない。ただ、粛々と頷き肯定を示すのみだ。そこでふとシャノンは眠りにつく前のことを思い出す。

「……そういえば先日、仕立屋に行くと聞きましたが、その件はどうなりましたか」

「ああ、言ったな。それはもう済んでいるから安心しろ、採寸は不要、入荷次第すぐに届けてくれるそうだ。規格品というのは良いな」

返る声に、そんなものか、とシャノンは思う。滑るように歩くヴィクターの後をついて宿舎をでれば、外はやはり真っ暗で空にはまだ星が見えていた。



足を踏み入れた図書館の中は全くの暗闇だ。星明かりの届かない屋内にあたりを照らすものはない。シャノンは壁から蛍光ランプを取り、その場で灯りを付けた。この時間にここを通るのは初めてだな、とシャノンは思う。元より人の気配があること自体が稀であるが、灯りの一つもついていないエントランスは輪をかけて見慣れない。シャノンはランプを下げ、奥へと歩き出した。

「禁域と聞きました。議会の管轄とはいえ、その範囲はけして狭いものではないでしょう。場所はどちらになるのですか?」

声を潜めてシャノンは訊ねた。暗がりに声が反響、あるいは積まれた本に吸収され、奇妙な空間構成が体感として返ってくる。頭の後ろで手を組んだヴィクターは、手ぶらのままでシャノンの後をついてきた。ひとつきりの灯りが作る影と重なることのない足音は、シャノンが今、独りでいるかのように錯覚させる。

「行き先か。北エアリーズ(旧アレス領北部)だ。あの辺りまでいくと山があるだろう。そこに入り口がある」

「……となると北部の地図を探さねばなりませんね。地理はこっちの棚だったはずです」

棚に記された分類番号を追い、シャノンは暗い図書館内を早足で進む。後ろから眺めるヴィクターは肩をすくめ、しっかりしてるんだな、と他人事のように言った。

「このあたりですね……ヴィクター? なんですか……」

「地図だろう。こっちには等高線が載っている。これも持って行け。ああ、それとこっちは写しを取ろう。植生と……分布図もいるな……」

ヴィクターはゆらゆらと回りを見渡し、迷いなく引き抜いてはシャノンの腕へと預けていく。シャノンはランプと本の両方を落とさないよう心を配りながら、増えていく本に眉をひそめた。足音の立たない歩き方が、この闇の中にあっては幽霊のようですらある。そうしている間にヴィクターはあちらこちらと動き回り、闇に消えてはさらなる荷物を増やす。この暗闇で灯りも無しによく題字が見えるものだとシャノンは呆れ半分感心する。

「こんなに持ってきて、一体何に使うのですか」

「じきにわかる」

答えながら、ヴィクターが新たに持ってきた冊子を積んだので、シャノンは積み上がった本の影で僅かに顔をしかめさせた。



「これで大体揃ったはずだ。席を探そう、どこか良いところはあるか?」

シャノンは本棚の隙間を抜け、黙って壁のほうへと進んだ。柱の陰、棚と壁とに囲まれた机へ寄り、シャノンは抱えていた荷を降ろした。山と積まれた本を崩れないよう中心に寄せ、シャノンはふーっとため息をつく。ヴィクターは壁のフックにランプを吊すと、机の天板をなぞり、隣の机を見遣った。

「……暗くて気が付かなかったが、この机だけ妙に手入れがいいな。なにかあるのか?」

「たまに掃除をしています。よく使うので……」

言いながら、シャノンは椅子を引いた。ヴィクターは少し驚いたようなそぶりを見せ、斜め前の椅子へ座った。

「そんなに来るのか? わざわざここへ?」

「……時間のあるときは、よく。ここは静かで、都合が良いのです」

答えると訝かしむような視線が返ってきたのでシャノンは不審に思ったが、そうか、と言ったヴィクターはなにか聞き返してくることはなかった。流れるような動作でヴィクターは机に視線を向ける。その指は積んである山から地図帳らしきものを取り、さっと開いた。

「今回行くのはここだ。ここに結界の境がある。この辺りまでは道が敷いてあるために辿っていけば良い。その後はまっすぐこちらに向かう。調査対象になっているのは……ここだ。少し開けた土地になっているのがわかるか? ここが最終到達目的だ」

ヴィクターは紙面に触れず、道順をなぞった。わかったか? と言葉が飛ぶ。シャノンはメモを開き、ヴィクターの言ったことを反芻した。

「……いちどきに覚えられるようなものではなさそうです。複写を取っておきましょう」

シャノンは後ろを向き、柱の陰になっているあたりの引き出しから紙を出した。ふっと息を吹きかけ、埃を払う。紙を隣の機械に入れ、操作をする。

「複合機? ここにもあったんだな。ああ、なるほど。そういうことか……」

「どうされましたか?」

「いや、なぜこの机をわざわざ選ぶのか不思議だったんだ。机自体はたくさんあるだろう。利便性の関係なら納得だ。お前、意外と横着なんだな」

横着、と繰り返し、シャノンは非難が意図として伝わるよう、嫌そうな顔をつくった。

「複写を取るのに長時間行ったり来たりを繰り返すのは手間でしょう。合理的と言ってはいただけませんか?」

「合理的、合理的ね…… お前はえらいやつだよ……」

気のない返事を返してくる師匠を一瞥し、シャノンは複写と原本を持って席へ戻った。開いていた地図帳を閉じてから複写のほうに印をつける。ヴィクターが取り出したペンを振って首を傾げたので、シャノンは許可を示すため頷いた。承諾を得たヴィクターはキャップを外し、複写の地図へと注意事項を書き込んでいく。若干の癖はあるが、相変わらずの読みやすい字だった。シャノンがじっと眺めていると、ヴィクターは指先でトントンと地図を叩いた。

「この辺は大きめの獣が出る。凶暴というふうでもないが、まあ気を付けるに越したことはないな」

「どうするんですか?」

「目を付けられないように通り抜けるだけのことだ。繁殖の季節は過ぎているわけだし、そう問題にもなるまい。よほどのことがなければ駆除の要もない」

「……繁殖」

「子連れの獣は気性が荒くなるというだろう。あるいは求愛行動の……いや、どうだっただろうな。ともかくそれは気にしなくていい。時期ではないからな。無論、年を通して調査する場合というのはその限りではないが」

その場合はまたのそのときに口頭で伝えよう、とどこか怪しげな口調でヴィクターは言った。



手帳へ注意点をまとめていたシャノンはおもむろにペンを置き、本へと栞を挟んだ。向かいで別の冊子をペラペラと捲っていたヴィクターはその様子に目を留める。

「どうした?」

「少し外します。……手洗いに」

吊していたランプを下げようとして、シャノンは冊子を手に持つヴィクターを見た。ここにランプはひとつきりだ。道はわかっている。ならば、このまま残していった方が良いのか、と思う。僅かに逡巡するシャノンが何かを言う前に、手のものを置いたヴィクターが立ち上がってランプを取った。

「俺も行こう」

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