3-7 二日目 朝(幽霊・2)
事が起きたのは、シャノンとヴィクターが樹皮の話をしていたときだった。薄暗い館内で、どこからか鋭い笑い声が響いてくる。先に反応したのはヴィクターだった。
「……なんだ?」
遠くから反響して楽しげな声は届く。書籍を閉じ、手帳にペンを挟む。シャノンはため息をついた。
「たいした事でもありません。今からしばらく……そうですね、私が良いと相図をするまで耳をふさいでいてください」
ヴィクターはいぶかしげな顔をしつつ、シャノンの指示するとおりに耳を覆った。シャノンは引き出しの中に置いていた鈴を取り出し、取っ手を持ってガラゴロと鳴らす。それは鈍く、重く、質量を感じるような音色だった。しばらく鳴らし続けたのち、響く声が聞こえなくなったのを確かめてから引き出しへと戻し、シャノンはヴィクターに見えるよう相図した。耳をふさいでいた手が外れる頃には、笑い声の一切は聞こえなくなっていた。
「……今のはなんだ? 慣れた様子だったが、シャノンは何か知っているのか?」
「出入りの少ないのを良いことに、怠業をする生徒が時折紛れ込んでくるのです。話すだけであればさして害もありませんが、人が集まれば騒ぐようなこともあります。火気は厳重に取り締まられるため、流石にこの中で煮炊きをしようというものはいませんが」
嘆かわしいとでも言いたげに、シャノンは冷たく答えた。
「煮炊きはともかく、その生徒の怠業によって利益を得ていた側の人間だろう。よくもまあ、そんなに冷ややかな物言いができるもんだな。いつもそうやって追い払っているのか?」
後ろめたく思う気持ちがないでもなかったのか、僅かに言葉を詰まらせ、疲れたような顔をしてシャノンは首を振った。
「……ええ、邪魔になるときは。追い払うだけであれば声を上げても良いのですが、人がいると知られれば警戒されるかもしれませんので」
「ああ、その辺考えてはいるんだな……」
「無論です」
神妙に頷き、シャノンは置いていたペンを拾い上げた。それまで黙っていたヴィクターがふと思いついたというように口を開く。
「しかしまあ不自然というか、今の時間に人の出入りがあるとは到底思えないが、奴らは一体ここで何をしているんだろうな。シャノンはどう思う、意見を聞かせてくれ」
「そうですね……ときに、ヴィクターは図書館にまつわる幽霊の噂を知っていますか」
「……急だな。どうした」
少し考えるようにしてから、シャノンは話し始めた。
「噂があるのです。どこからか、がらごろと金物を鳴らす音がする。けれどあたりにそれらしき姿は見えない。深追いすれば闇に飲まれて出られなくなる。誰かと行動を共にしていれば鉢合わせることはない…… 端的に言えばそのような話です」
ヴィクターは手元の鈴を視線で指し、これか、と目で問うた。シャノンはゆっくりと頷く。
「肝試しでもしてるっていうのか? この鈴自体に何かあるという風でもなし。ここで誰か死んだという話も聞かないな。ああいや、逆か? シャノンはさっきの笑い声が噂の幽霊であると?」
「可能性はありますね。ですが、ここに幽霊がいるとも思えません。誰かが流した噂です。あるいは私そのものが。私はうわさに引き寄せられた生徒がいるのではないかとにらんでいます。ヴィクターはどう思われます? 笑い声ならば騒霊の類い、ということも可能性としてはありましょう。あるいは水面下で何かが起きているのでしょうか」
いくつか重ねられた質問に、謎かけをする趣味はないぞ、とヴィクターは返す。
「つまり、よからぬ企みのために生徒が夜な夜な集会を開いていると? 動機がなかろうよ。そもそも集まるっていうのならもっと便利の良いところがあろうさ。明け方というのも不審だ。あえて図書館に来ることもない。露見を避けるために灯りだって用意しなくちゃならないだろう。……いや、その通りだな。声こそ聞こえたが、入り口のランプは減っていなかった……」
物思いに沈むように、ヴィクターの声が途絶える。冷たい暗闇に静寂が降り、揺れるランプの光は僅かな不安を連れてきた。ヴィクターは目をぐるりと回すと、少し面倒そうな顔をしておもむろに口を開いた。
「……なあおまえ、さっきなんて言った? 『誰かと一緒にいれば会わない』って言ったよな。噂ってそれだけか?」
「え、ええ…… 他には別段……」
ヴィクターは口を曲げ、少し考えるようなそぶりを見せた。
「ここで実際に誰かと会ったか? お前の他に鈴を鳴らすやつは? そもそもお前、その話を誰から聞いた」
「え…… 誰といわれても…… 図書館のなかで話す者がいると言ったでしょう? わざわざ幽霊の話をしようなどという知人は私にはおりませんが……」
言外の否定に、本物か、と忌々しげにヴィクターは言った。シャノンはそれが何を意味するのかを察し、冷たい手でべたりと触られるのにも似た胸の悪さを感じた。
「……つまり、ヴィクターは私の聞いた声が人のものではないと?」
「『鈴の音に近付けば闇に飲まれる』『金物の音を避けて、誰かと共にいれば遭遇しない』……おかしいだろう。言葉が正しいのなら、お前が散々聞いていたはずの笑い声に対する言及がない。シャノンと怠慢をする生徒の二つ括りがあるとして、相手側からの視点しか噂として語られていないんだ。笑い声を不審に思わないというのならそれが声の主なんだろうよ。試しに、お前が聞いた会話とやらを思い出してみろ。違うか? 違わないと俺は断じる心づもりであるが、実際の所はどうなんだ?」
「そう…… 確かに、その通り、ですが……」
荒っぽいため息が言葉尻に被せられ、シャノンは口を閉じた。
「語られた異界はこっち側だ。なんだ、とんでもないことになっているんじゃないか? お前、一体なんの会話に聞き耳を立てていた? 騒霊か? 妖精かもな。まあ亡霊って事はなかろうが……」
生徒の怠慢の方がいくらかマシだったのかも知れないな、とヴィクターは言い、手の甲を擦った。
「……おまえ、もうここには来ない方が良いぜ。さっきはああ言ったが、いくら対抗手段があるとはいえ現象が本物だとすれば危険が過ぎる」
シャノンはヴィクターに目を向けた。まっすぐ伸びる視線が交差して、鋭い視線は互いを貫く。ヴィクターは向けられた視線の帯びる異議申立ての意図に気が付いたようで、言葉を発することもないまま眉をひそめた。あたりに満ちる不透明な沈黙を、先に破ったのはシャノンだった。
「……そうですね、そうかもしれません。あなたの言葉はおそらく、これ以上なく正しいのでしょう。それでも私はきっとまた以前と同じようにここへ通うのだと思います。幽霊除けは機能している。笑い声はかき消され、噂話は交流の役に立ちました。危険と伴う見返りの、釣り合いは十分に取れています。そのことだけではいけませんか?」
シャノンは言って、ヴィクターの目をじっと見た。理由に不足がありますか、と目を見て問う。否定など端から聞く気はないというような調子の物言いへ、参ったとでも言いたげにヴィクターは手を振ってみせた。
「わかったわかった、そこまで言うなら好きにしろ。多種多様のアプローチは大事だ。ここで『被害が出ていないのだろう』と言わなかったことだけは褒めてやる。ああ、ああ、おみそれしたよ。おまえは筋金入りの仕事中毒だ。おまえ、術士になってもやっていけるんじゃないか? 精々向こう側に飲まれないようにしてくれ」
投げやりに言い、ヴィクターは口を閉ざす。それからしばらく間を開けたのち、ため息交じりに『人じゃないものの斬り方を教えてやる、だから自分でなんとでもしろ』と心底面倒そうな様子で続けたので、シャノンは恭しく頭を下げた。
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