休日-4(舌を湿す甘露について)

「さて、私からできることは? 消毒とハンカチはある。他にも必要なものがあれば用意しよう」

「人払いと、施錠を。それから、必要であれば結界を」

シャノンが答えると、了解した、とリロイは言った。

「……結界は便利なものであるが、むやみに張るとあとあと問題になる場合がある。今回は香を焚くのみに留めておこう。私ではヴィクターのようにはできないのでな。それと、今の時間は調剤をしていることになっている。盗み見の心配は無用だ」

しかし錠は降ろしておこう、といってリロイは部屋の鍵をかけた。ガチリと響いた音の冷たさに、シャノンは僅かばかり動揺した。

「そうして、これからどうする。実際にやってみるということだったが」

話した通り、このところの社会風俗に不案内だ。ほとんど全てを任せることになるが構わないか、とリロイは言う。シャノンは頷いて肯定の意を示す。

「え、ええ。拙いものではありますが、僅かばかりの心得があります。……本来ならば着ているものを外し、寝そべった状態でするべきではあるのですが、今日はそういうわけにもいきませんので……そうですね、安定の良い場所に腰かけていただくと良いのですが。どこかよさそうな場所はありますか」

どきどきしながらシャノンは言った。手紙に詳しく書かなかったことは、自分の口で説明せねばならない。うまくできるかどうにも気がかりであるが、明文化した上で文書として送りつけるよりは難しくなかろうと思ってやりすごす。リロイは腰掛ける場所、と繰り返した。

「スツールがある。出してこよう」



壁に背をつけて座れるように、リロイはスツールを壁際へと置いた。手の届く位置に台を寄せ、消毒の瓶を並べていく。

「……他になにか伝えておかねばならないことはあっただろうか。シャノンからも疑問などあれば遠慮なく言ってくれ」

シャノンは、はたと気が付き、指先を空いた手で摘まむようにしてから訊ねた。

「聞き忘れていたのですが、その……出したものを口に入れることについての抵抗は?」

手を止めたリロイが振り向き、しばしの間が空いてから答えが返る。

「……魔術の一種にその手のものがある。そういうことがあるのだと理解はできるが、それらは私もヴィクターも使わない。肉感的な要素を持つ術は原始的だが、不衛生で、仮にそうでなかったとしても何かと面倒事が多い」

病、諍い、利権、あるいは調達の手間、数えればきりがない、とリロイは言った。僅かにしかめられた表情のまま、なるだけ避けた方が良かろうな、と結論づけられたので、シャノンは理解のほどを示すためにゆっくり頷いた。

「……あまり聞くべき話ではないと理解しているが、シャノンの周囲にその手の術を使うものは居るのか」

「どうでしょうか。いるともいないとも私からは。私の知る範囲に限って言えば、そのような話は一度も」

「そうか。……良いことだ」

なんと返すべきか迷い、シャノンは曖昧に頷く。リロイは返事に満足したのか、場を整える作業へ戻ったようだった。シャノンは足下を通り抜けた風に違和を感じ、何の気なしに振り返る。作業場だと聞かされた空間には存外広さがあり、シャノンは区切られることのない空間の奥行きにたじろいだ。どうやら立っている場所が風の通り道であったらしい。サンルームにも似た半屋内空間にいるのだという錯覚がシャノンを焦らせ、困惑へと突き落とした。

「あの、間仕切りなどはありますか? あまり格式ばったものでなくて構わないのですが……」

「……用意しよう。少し待っていてくれ」

リロイは間仕切りを抱え上げ、奥から移動させてきた。適当な場所へ降ろし、シャノンに細かな位置を訊ねる。空気の通りと光を遮るような角度になるよう、シャノンは導いた。設置を終えたリロイが、実際やるとなると存外手間のかかるものなのだな、と深く感ずるように言ったので、シャノンは返す言葉を探した。

「お手数おかけしてすみません、通常の場面であれば毎回用意するものというわけでもないのです。ただ、他に適したものが思いつかなかったので……寝台には幕を垂らすものですし、あまり詳しくはありませんが、その向きに設えられた部屋ならば何らかの対策が成されるといいます」

「……ああ、そうか…… そういう……」

合点がいったようにリロイは頷き、なるほどともう一度呟いてから、間仕切りの位置を少し壁寄りに動かし、それからスツールの周りを整えに戻った。



膝をつくためのマット、ハンカチ、見慣れないなにか、開いた帳面、ペン、ボトル、缶、瓶などがリロイの手によって並べられていく。シャノンはリロイの背を見ながら、懐から袋を出して中を確かめた。スキンが数種類と潤滑の小袋、新しいハンカチ、それからいくつかの細々したもの。シャノンは胸がどきどきするのを自覚した。さしあたってはスキンを二つ取り出し、口を閉じた袋とともに台の上の手近なところへ並べておいた。リロイは立ち上がって、棚の配置を変えているようだった。話しかけようとして、緊張をごまかすように口の中で舌を丸め、そしてふと重大な手落ちに気が付く。舌が甘い。

「リロイ、すみませんが……口を濯がせてもらっても?」

「……ああ、部屋に水道が引いてある。そこの流しを使うと良い」

「助かります」

流しで口を濯ぐ、焼き菓子の名残を洗い落としながら、段取りを間違えたな、とシャノンは思った。不手際を呪いたくなるが、菓子を焼いて持っていくという選択をしたのは他ならぬ自分であるし、そもそも手紙に焼き菓子のことを書いた以上は約束を違えるわけにもいくまい。大丈夫、とシャノンは言い聞かせた。大丈夫だ。状況は立て直されているし、心配するようなことはなにもない。シャノンはゆっくり息を吐き、ハンカチで口を拭いてリロイの所へと戻った。

「お待たせしました……リロイ?」

覗いた間仕切りの向こうには誰もいない。風の流れの遮断された間仕切りの中、シャノンはスツールに視線を向け、次に消毒の瓶、色とりどりのハンカチ、自分の持ち込んだベルベットの袋を順に眺め、それから、新たに敷物の広げられた床へと目を落とした。どこか無作為に揃えられた瓶たちはじっと出番を待っている。時間が止まっているようだ、とぼんやり思う。どこか澄んだような感覚は、気忙しい足音が近付いてきたことで霧散する。シャノンはもう一度、リロイ、と声に出した。

「……ここにいる。口の消毒を渡していなかったと思って持ってきた」

「お気遣い感謝いたします」

シャノンはリロイから渡されたトローチを一つつまみ、口の中で溶かしてから飲み込んだ。苦みは鈍く、舌を刺すという風でもない。リロイは壁にあるスイッチで光量を調整しているようだった。スライダーは明るすぎないが暗くもない位置で止められる。これなら暗闇の中で手元が狂うということはないだろう。細やかな気遣いに対し、シャノンはそっと感謝した。

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