3-10 二日目 夜(夜警)

窓越しに傾いてきた日を眺め、シャノンはふーっと息を吐いた。

「して、この後の予定はどのように? 湯を浴びるのならばそろそろ急がねばならない時間ですが……聞いていますか? ヴィクター?」

「聞いている。聞こえている。共用の風呂には行くな」

振り返ると、寝台のへりに腰掛けたヴィクターは、どこから出したのか、小さな裁縫道具でマントの端を繕っていた。そこでふとシャノンは、ヴィクターが大浴場にいるところは見たことがないな、と思った。

「……そうは言っても体は清めねばならないでしょう、どうするんですか?」

「これをやる」

言って、ヴィクターは針を持ち替え、粉末消毒剤の大缶をぞんざいに手渡してきた。シャノンは両手でそれを受け止める。

「使い方は知っているな? 行く先に井戸がないなんてこともある。というか禁域だ、井戸は無い。……水場って言おうとしたんだ。ともかく消毒に慣れろ、急にやれって言われても困るだろうからな」

聞きながら、シャノンは言葉を反芻する。水場のない土地。消毒に慣れろ。曖昧だったイメージがある一点で像を結ぶ。つまるところ、それは入浴のための水が使えないということだ。合わせてこの大缶。慣れろ、とヴィクターは言った。出発の前にわざわざ練習期間を用意しているのだと気が付いて、ざっと血の気が引いた。練習をせねばならないほど致命的かつ長期にわたってやるのだろうと察しがついたのは幸いか、それとも。

「使用目的は存じておりますが……具体的にはどのように?」

「……服を緩めたら筆で取って、湿った部分へはたくんだ。わかっているとは思うが、顔周りとそれ以外で筆を分けろよ」

繰り出し式の筆を三本追加で渡されて、シャノンは曖昧に頷いた。



本当なら身体が汚れるより先にも刷いておく、という言葉を思い出し、シャノンは教えられたとおりに消毒を済ませた。首のスカーフを新しいものに替え、外したものは洗濯篭へ。粉が引かれたあとのさらさらした感触が、替えずに着付けた下着のこなれた感じと合わさり、皮膚感覚へ奇妙な清涼感と不調和をもたらした。風呂に入らず干したばかりのシーツに潜るような、掛け違ったような感触がどうにも落ち着かない。戻ってきたヴィクターは絶えず身じろぎするシャノンを不審そうに見たが、粉を含んだ筆を見て納得したように頷き、『すぐ慣れる』と言った。

「……そもそもの問題として、水場の近くに設営するのは危険が多い。誰しもがそこを拠点にしたがるし、当然、招かざる客と鉢合わせる確率だって上がる。遭遇自体は監視の結果だったり、全くの偶然だったりするが、どちらにせよ歓迎せざる事態なのは確かだ。……それならそこに依存するような動き方というのは避けておきたい。だろ?」

どっかりと座ったヴィクターはひらひらと片手を振った。シャノンは黙って頷く。

「敵の動向を追いたければ水場か安全な場所を張る。監視もしやすいが、なにしろ敵は人間だけじゃない。待ってる間に獣に襲われるなんてのも、可能性としてはゼロじゃない」

言葉を切り、目は眇められる。僅かに止んだ声は不安を呼んだ。

「……能力が高ければ踏み倒しがきく。だが、現場に出る魔術士の九割九分は『能力が高い者』じゃない。当然だな、誰だって初心者から始まるんだ。取りうる行動が割れているというのはリスクそものであるために、選択肢を増やすことが重要視された。どこでもやっていけるのなら、作戦はより自由に組み立てられる」

消毒剤はそのために使われた、とヴィクターは言った。シャノンは考えを巡らせ、何かを問おうとした。結局の所、口から出たのは本質からは遠いような質問だ。

「……普段からヴィクターはこんなことをしているのですか?」

知れず低い声になったのは意図したものではなかった。ヴィクターはなんでもないように答える。

「それは基準をどこに置くかで変わってくるな。潜在的に予測される敵の多い空間ではこれ以上に厳しい場合もあるし、慣れ親しんだ女王の庭に行って帰ってくるだけならそんなでもない。人里に近い山中では山小屋を使うことだってある。ただまあ、そこらへ俺が呼ばれることはまずないな。そういうのはもっと歳若いやつの仕事だ。ともあれ、頭に入れておくだけで防げるトラブルというのもある。初めてじゃなにが起きるかわからないし、打つ手は増やしておかねばな」

軽い調子でとんでもないことを言う。実際、本人にとってはなんでもないことなのだろう。しかし、不穏な言葉選びにはシャノンも反応せざるを得ない。

「この職を得たときに覚悟はしていましたが、いざこうして聞くとなるとあまり楽しい話ではないですね……」

「聞きたくなくても聞いてもらわねば困るな。俺はお前を生きて帰らせなくちゃならない」

返された言葉は端的だった。顔を曇らせたシャノンは何も言わず、ただ曖昧に頷き返した。




日没は過ぎ、窓の外はすっかり暗くなっている。靴を外すために屈もうとしたシャノンを、ヴィクターは手の動きで呼びよせた。

「……まさか、夜の間も何かしようというのですか?」

「察しが良いな。そのまさかだ、お前には哨戒のやりかたを覚えてもらう」

また新しい話が舞い込んできた、とシャノンは半ば忌々しげに思った。いい加減回りの悪くなってきた頭の中、上から下まで覚えることばかりだ、とシャノンは悪態をつく。そのまま黙っていても事態は進まないので、シャノンは導きうる最善を考え、口を開いた。

「……その話、明日に回せませんか」

ヴィクターは少し驚いたような顔をして、口元だけで物言いたげな笑みを浮かべた。

「そういうなよ、大抵のトラブルは頃合いも示し合わせもなく突っ込んでくるんだぜ? 概要だけでも聞いておけ、何があるとも限らないしな。ともあれ、警戒をするために寝ずの番をする、これは通常三時間で交代だ……」

一方的な説明を耳に入れながら、嫌だな、とシャノンは思ったが、もう反論する気力も残っていなかったのでため息をついて首を振るだけに留めた。

「致し方ありません。あまり気の進むことでもありませんが、気合いを入れていきましょう……」

声の調子になにか思うところがあったらしく、ヴィクターは眉を上げ、二度、目を瞬いた。その仕草へ何を感じるよりもまず先に、眠りたいな、とシャノンは思った。

「……早く話を切り上げたいのはわかった。この辺は適当にやってくれ。あんまり張り詰めたままだと早晩死ぬ。トラブルの具合がどうあれ、それだけは確実だ」

シャノンは言葉を切り、ヴィクターの言葉を反芻した。疲れの中に、ぼんやりとした苛立ちが募る。

「……それがわかっているのなら、何も言わず寝かせてはいただけませんか。ここであなたに文句を言って何が解決するとも思いません。ですが、慣れないことの連続に身体が追いついていません。今日という日と私に、もはや新しいことをする余力は、残って、いないの、です」

シャノンは単語ごとにゆっくりと強調するような発話でヴィクターに応じた。それは普段の取り澄ましたシャノンからはとても考えられないほど棘のある言い方で、不満を表わすように握られた拳は少し震えている。理性と立場の両方が無ければ壁を殴っていたのかもしれなかった。苛立った様子のシャノンに目をやり、ヴィクターはちょっと首を傾げた。

「そうか、よく言ったな。何かあれば起こす。先に寝ろ」

ぱっと顔が近づき、額が合わせられる。触れ合う睫毛にぎょっとしてシャノンは仰け反ったが、ギラリと光った目の光沢に眩んで足までは動かない。視界の外でその口が何事かを呟けば、シャノンの意識はずるりと滑り、かき回されるように融解していった。

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