二時間目(手を握ることと口づけについて)

中途半端に閉ざされた垂れ幕。天蓋の内側にあたりを照らすものは存在せず、光といえば部屋の灯りのはね返ったものが壁の方からぼんやりとさしてくるのみだ。輪郭のぼやけた淡い闇の中へ、ヴィクター、リロイ、シャノンの三人は円陣を組んで座っていた。ヴィクターは何も言わず、殊更に何かするということもなかったが、どうやら知らぬ間に目配せをしたらしかった。視線の先にいたリロイが居住まいを正し、急とも思える動作でシャノンの方へ向き直る。シャノンはぴっと背筋を伸ばし、リロイを正面から見据えた。リロイがゆっくりと瞬きをするのが見えた。

「気を張り詰めさせる必要はない。手を出してくれ」

「……手?」

シャノンが差し出した手を、リロイは取った。互いに手袋も指輪も付けていない、素のままの手だ。伸ばした指先が触れ合う。それから、掌。筋張って、乾いていて、しかし熱い手だった。大きさも硬さも違う掌同士が飽くまで緩く握り合わされ、皮膚には熱と鼓動が伝わってくる。ヴィクターのものより倍ほど薄く、一回り大きいようにも感じる。シャノンはどぎまぎした。せざるを得なかった。視線を落とした手首には肉と筋による起伏が見え、続く体の恵まれたさまを想像させる。つなぐ手に熱が伝播して、肌の匂いまでするようだ。それほどまでに近い距離にリロイはいた。意思や意向、自分の希望とは別のところで胸の鼓動が強く打つ。

「力を抜いて、目を閉じるんだ」

「は、はい……」

答えはしたが、目を閉じることなどできはしない。呆然と見開いたままの目で見る、伏せられた睫毛の長いこと。手をやさしく握り合わせる、祈りにも似た仕草にただ、きれいな人だ、と思う。この月色の髪が肩を滑るのを何度も見てきた。握られた手の中で鼓動のリズムが同期する。どく、どく、どく、と脈拍はひとつの抑揚になって体を揺らす。いや、僅かにこちらの方が早いだろうか。分からない。肌の下を通る管をちょうど同じ大きさの何かが押し広げるように通っていく感覚が、漿液じみた粘性のない高揚と重くまったりした安楽とをマーブル模様のように混ぜ合わせていく。気分がよく、気分が悪く、やはり調子はどちらとも付かない。入れ物の中を冷たい水と熱い湯が行き来するのに、一向に温度の均質な湯ができないような、不条理とも言える感触が体をかき回していく。鼓動は変わらずどくどくと打つ。名状しがたいうねり。波のような満ち引きも十を過ぎたあたりでシャノンは急に怖くなり、腕を引いてリロイの手を振り払った。どちらからともなく離れた手のひらの隙間にぞくりとするような冷たい空気が入ってきて、手のひらが知れず濡れていたことを知らせてくる。眼前のリロイがゆっくりと目を開いた。その様子と言ったら、まぶたの隙間から光がこぼれたと錯覚するほどで、シャノンは思わず身震いをした。体の芯が凍えるようだった。

「気分は。良くないか?」

シャノンは答えようとした。開けた口からかすれたうめきが飛び出し、シャノンは咄嗟に口を押さえる。声が出なかった。声にならなかった。舌はしびれたようになっていて、答えねばと思えども今のシャノンに出来ることといえば首を横に振ることと、目を見開いたままリロイの瞳を見つめること、そればかりだ。気分は悪くなく、でもしかし、体内を渦巻く名状しがたい衝動がある。つばが溜まり、脂汗が出る。リロイは気遣わしげに顔を覗き込んだ。覗き込んできた。近付く肌の気配に、どうしたって息が荒くなる。シャノンはそれを隠そうとした。息を詰めたのを気分が悪いのだと解釈したリロイの表情は僅かに強ばったが、もはやそれにも気付けない。シャノンは膝をすりあわせる。目の前に揺れる金の光が眩しく、輝く瞳にただ、見られたくない、と思った。

「……シャノン?」

再度問われたシャノンはびくりと肩を揺らし、それでも何も言えなかった。ヴィクターが横からひょいっと覗く。

「……なあ、やれっていっておいてなんだが、若いやつに直接接続は刺激が強かったんじゃねえの? おーおー、目が濁ってる。リロイは『上手い』からなあ」

「俺が悪いみたいな言い方はやめてくれ、手加減はした。結果がどうあれ、なるだけ丁寧にやったつもりだ」

泥濘じみた意識の中、リロイが叱責されているらしいことだけ分かったので、シャノンは否定しようと口を開いた。言葉は放たれることなく、口の端からは溜まっていた唾液が垂れたのみだった。ヴィクターはそれを取り出したハンカチで拭ってやる。見ていたリロイは目を瞬いた。

「……新しいものか? 手を拭ったやつじゃないだろうな」

「当然だろ! 俺をなんだと思ってるんだ? ……さっきは軽口たたいて悪かったよ、終わったら後で俺にもやってくれ。手袋越しだから出力は普段通りで良い」

「……承った」

早口で交わされる言葉たちは耳に留まることなく抜けていく。シャノンは悪酔いしたような具合の悪さの中で、リロイの手の熱さを思い出していた。


◆◆


熱に浮かされたような表情のままぐったりしているシャノンを眺め、ヴィクターはリロイに向けた言葉を探す。

「まあ何だ、裏を返せばよく効くってことだ。幸先の良いスタートなんじゃないか? 若いってのはいいな」

ヴィクターの台詞へ、リロイは何事かを言おうとしたが、言葉は放たれることなく渋面が作られただけだった。

「……ものは言いようだな。どうするつもりだ?」

「夜は長い。五時間取ったんだ、急がないしゆっくり待つさ。ああそうだ。先に言っておくべきだったな、宣言通り結界は五時間持つ。対話型でない一括処理の術式だから俺が落ちてもきっかり五時間はそのままだ。経過後、減衰で解除されるようにしてある」

「了解した」

先に準備を進めておくか、と言って、ヴィクターはコルセットに挟んでいた小さな巾着から薄い缶と化粧に使うような丸い刷毛を取り出した。根元を半回転させ穂先を出す。缶の蓋を開け、刷毛の先に粉をたっぷり含ませる。さりさりと手に払い、粉の状態を見た。

「良さそうだな。シャノン、顔に触るぞ。良いって言うまで目を開けるなよ」

そういってヴィクターは顔に粉をはたいた。目を瞑ったままのシャノンは何をされているのか分からなかったが、ヴィクターのすることをリロイが止めないので、秘術の類いなのだろう、と放っておいた。頬、額、顎ときて、首元にも刷毛が滑る。

「開けて良いぞ、後これを。噛まずに舐めろ、塊のまま飲み込むなよ」

言うやいなや、シャノンの口に飴のようなものが突き込まれた。トローチ状のそれは苦く、馴染みのないものであった。目を開けると、リロイとヴィクターが同じものを口にするのが見えた。シャノンは未だぼうっとする頭で、薬の類いであろうか、と思う。つつがなく進んでいるような雰囲気ではあるが、不可解なことは多い。ヴィクターのする殆どのことがそうであるように。

「珍しいな、これが出てくるとは……俺はもう歯を磨いたんだが……」

リロイが不服そうな声音で言い、口の中でトローチを転がす。丸いトローチは歯に当たり、カラコロと音を立てた。

「それは……良いだろ、別に。今日は丁寧にするって言ったからな。リロイ、してやれ。今日の主役はおまえなんだからな」

「ああ、そうだったな……」

親睦を深めるためだと言い含められていたのを思い出し、リロイは唇を舐めた。薄目を開けてぼうっとしていたシャノンはびくりと身を固くする。リロイとしてはただ唇が乾燥で張り付くのを防ぐ程度の意図でしかなかったのだが、シャノンからすれば冷たい美貌の美丈夫が舌舐めずりをしているように感じられた。シャノンは次の一手に怯え、じっと黙って待っていた。あるいは期待していたのかも知れない。


大きな手が伸びてくる。


シャノンが纏うキルトの下着の上から、骨っぽさのある長い指がなぞる。寝転がって見上げる金の髪は滑らかに光を透かし、上等の紗布のようだった。にわかに顔が迫ってきて、シャノンはぎゅっと目を閉じた。気配が迫り、頬がすりあわされる。唇での愛撫をされるものだと思っていたシャノンは滑らかな頬の感触に驚き、ただされるがまま力を抜いた。頬骨がぶつからないよう丹念に行われる動作は皮膚の感触だけを克明に伝えてくる。それはなめらかで、かぐわしい。手を触れるのにだって許可を要する魔術士同士で、近い距離が煩わしくならないほどにまで丁寧に扱われるというのはどこまでも心地よかった。しっとり触れ合うそれがひときわ強く押しつけられた後、頬がはなれていく。淡い温度の喪失に、どことなく物足りないような心地になる。そうしていると再び顔に影が落ちる。距離を測ろうと薄く目を開ければ、金の睫毛が至近距離にあった。

直後、ふに、と口に柔らかいものが押しつけられ、唇が押し広げられる。ぬる、と異物が入り込む感触がして、シャノンは驚きに体をはねさせた。リロイに乗られ、口づけを受けていた。思考は停止する。それは、ああ、名誉に他ならない。ゆっくりと力を抜き、知らず引っ込めていた舌を恐る恐る受け入れるような形で差し出せば、ぬるりと押し広げられるように厚い部分が入ってくる。それは舌の置き場さえ見失った口の中でぬめるように割り入ってきて、摩擦のない摩擦は滑らかに大げさにシャノンの感情を乱す。そうして器用に絡め取られ、唇の隙間へと誘い出された舌の先がすぼめた口先でちゅっと吸われて放される。シャノンはクラクラした。大胆なようでどこか繊細な動きだった。眩む頭で、自分もなにか、せねばならない。そう思った。そう思って、少し迷い、顔を起こして濡れる下唇を僅かに吸った。目を瞬くと、驚いたような顔のリロイがこちらを見ていた。シャノンは身を引き、口元を押さえた。かっと頬が熱くなる。過ぎたまねをしただろうか、気分を害しはしなかったか。ああ、恥ずかしい。あのリロイにキスをしてしまった! 羞恥がばっと体中に広がり、シャノンは耳まで真っ赤になった。

「シャノン。こちらを向いてくれ」

上から声が降ってきて、熱をもったような手が顔を隠していた手を柔らかく外す。シャノンは首を引き、ゆるゆると振って抵抗の意を示したが、両手が押さえられているのでたいした事は出来なかった。手首を掴まれている。拘束されている。リロイに。両手をついて広げられた腕の中へ自分が収まっていることに気が付き、シャノンは、はっとして息を吐いた。それは恍惚とした響きを伴っていたが、シャノンは当然気付かない。リロイは顔を近づけて、浅く息をするシャノンの唇をちゅっとついばんだ。感情の読めない目が細められる。シャノンは次の言葉を待った。

「……お返しだ」

「ふ……わわ……」

シャノンは今度こそ顔を覆い、目眩のするような陶酔の中で、感嘆のため息をついた。

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