第34話 ここにいるから。
わたしははしっていた。
ただひたすらに。どこに向かってかはわからないままに。
……そうか、逃げたくなっていたんだ。「やるべきこと」から。「おねえちゃん」としての役目から。
悟り、しかし足を止める動機にはならず、むしろ向かい風は強くなっていく。
流石に疲れて息切れを起こしたころには、もうここがどこかなんてわからなくなっていた。
雑草の生い茂った広場。その中心に古びた小さな木造の簡素な小屋……とも言えないようなものが鎮座。
白いペンキ塗装が剥げて木の地肌が見える木造ベンチに腰掛けると、まず感じたのは座面や背摺りのささくれの痛みでもそこから見える気持ち悪いほどに美しい夕日でもなく、お尻に感じる冷たさであった。
わたし、こんなにおもらししてたんだ……。
外気によって冷やされた、自分の出したものを大量に吸い込んだ吸収帯。それが自分のお尻に密着して……とても気持ち悪い。
替えのおむつなんて持ってきてない。もう何もかもがどうでもよくなって、いやになって、おむつのことなんか忘れてて。
……でも、もうそれもどうでもいいや。
ため息を吐いた。
ああ、気持ち悪いほどに、高台から見下ろした世界は赤く染まっていた。
**********
どれくらいの時間が経ったのだろう。俺が家を飛び出して行ってから。
「るりーっ! どこだー!!」
甲高い、鈴のような声。自分の声ではないように錯覚しかけてしまう。
いまの自分の透き通る声。ただし、声量は全くない。なぜなら、この体は幼い少女のものだからだ。
推定六歳程度の幼女の出せる声量は限られている。ゆえに……彼女に届くことはないだろう。
それでも、一縷の希望に懸けたくて。
「るりーっ!」
叫んだ。叫び続けた。
当てなんてなかった。俺はダメなお兄ちゃんだ。……妹の行くところに見当なんてつきやしない。
だけど、勘と運だけはいいのだろうか。
いるかもしれないと、第六感に従って上った階段。そこは、遊具もない公園。小学生時代によく遊んでいたような、近所の公園で。
その中心にある東屋。沈みかけの夕日にわずかに照らされたその建物に、彼女はいた。
諦めきった表情。光の見えない目は赤く腫れていて。
「あ、おい、ちゃ……」
かすれた声で、名前を呼んだ。
俺は何も答えないで、彼女のもとへ、草をかき分けながら歩いて行って。
東屋の乗る、石と
その瞳は震えていた。恐怖が見えた。
――目を伏せた俺の、次に発した言葉。彼女は、目を見開いた。
「……ごめんね」
ぽつり、ぽつり、雨が降る。言葉が、ぽつり、ぽつり、溢れだす。
「さっきは、酷いことを言った。俺、何にも考えてなかったよ。……瑠璃にとって、あんなに嫌なことだなんて、考えもしなかった」
顔を上げ彼女の顔を見る。瑠璃は、俺を見下ろし。
「ありがと……でも、関係ない。だって、もう、わたしには」
「
見上げた先の瞳が、動揺したように瞬く。
「……父さんも、母さんも、生きてる。いつかまた会える」
「でも、でも……!」
「俺も……兄貴も、ここに――」
「でも、みんないなくなる!!」
「俺はいなくならないから!!」
食い気味で、ほぼ同時に叫びあった。
それから、気まずい沈黙が漂う。たった一呼吸の間、冷たい風に二人の髪が靡き、雨粒に濡れていく。
「……ずっと、一緒にいるから……だから……」
そして、祈るように、囁くように、呟くように、叫ぶように――
「るりも、そばにいてよ。いなくならないでよ……!」
涙は、六月の雨に溶けていき。
「ずっと一緒にいようよ……。二人で、支えあって」
取った彼女の手は、氷のように冷たく。
「……ほんとに、いっしょに……いて、くれる……? こんあ、だめなわたしでも……」
「ああ……もう、離れたりしない。絶対に」
しかし、吹きかかった吐息は、雨に紛れて肩に落ちてきた涙は、あまりに熱かった。
「うぅ……うわぁぁぁん!!」
声を上げて、彼女は泣きだして。
その肩を抱きながら、俺も涙を流したのだった。
**********
それから数分後。
「あっ、ようやく見つけた。るりー!」
珊瑚ちゃんが、俺と瑠璃に駆け寄る。
それから、おそらく珊瑚ちゃんから連絡を受けたのだろう。だいぶ暗くなってから九条先生と翡翠さんも公園に来て、主に先生からの軽く説教タイム。
割とありがちな内容だったので省略するが……瑠璃は、まるで聞いていないかのように俺にべったりとくっついていて。
……この時点で違和感を覚えていればなぁ、なんて少し思ったのは数日後のことだが、いまは知る由はない。
「ごめんなさい……」
謝った瑠璃に翡翠さんが頭を撫でて――あとついでに家に帰ってからおむつを替えて――この件は無事に解決となったのである。
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