第12話 変化、そして失敗

 わたし――日向 瑠璃るりは今日も学校に行く。

「ねーねー、るりー」

 通学路、肩を叩かれ、人懐っこい声がわたしを呼んだ。

「なに、珊瑚さんご

 彼女の名を呼び振り向くと、頬の来る部分に指が置かれていて。

「んふふー……るりのほっぺ、いつも通りぷにぷにだ」

「やめてよ……もう……」

 そう言いつつもわたしの顔は緩んでいた。

 今朝のこと……おねしょしたことなんて、もう忘れ去って。


 そう、わたしは今朝、数年ぶりにおねしょをしてしまった。


 それだけじゃない。昨日からちょっとどこかおかしい。

 誰かに甘えたい気分がすごく強くて、ちょっと子供みたいな気分になってたり……。おむつにおもらしとかしちゃったり……。

 それに、おととい知り合ったばっかりのお姉さんと、取り返しのつかないようなことをしちゃったのも、昨日。それが原因なのかも。

 でも、どこか晴れやかな気分もあって。もう、なにがなんだかわかんない。

 わたしはため息をつき。

「んー? るり、なんかあったの?」

 心配そうに聞いてくる珊瑚に、はっとして笑顔を作り。

「いやいやっ、なんでもないから! 心配しなくても大丈夫!」

「まじー?」

「マジー!」

 なるべく悩みを悟らせまいとわたしは笑った。

「……うそつき」

 ぼそりと、そんな一言が聞こえたような気がした。


 程なくして学校へとたどり着き、いつも通り、授業の準備やコミュニケーションなんかをこなしていく。

 そうして休み時間。他愛もない話の途中、ある友達が急にこんなことを言ってきた。

「……なんか、今日の瑠璃、いつもとフインキちがくね?」

 ぎくり。わたしはポーカーフェイスを装い。

「え? どこらへんが?」

「だって、いつもは『』なんて言わないだろ? 普段は自分のこと『』って言ってたよな?」

 ものすごく微妙な違いをついてきた。普段どんだけわたしのこと見てるのよ。

「しかもちょっと声が柔らかくなってる……。昨日までちょっと近寄りがたいオーラ放ってたけど、今日はそんなことないね」

 別の友達が追い討ちをかけてきた。

 というか、そんなオーラ放ってた覚えないんですけど。マジで意味がわからない。

 そして、珊瑚がさらに話に乗ってきた。

「そーいえば、るりってば今朝ねー」

「ちょっ、やめっ……」

「めっちゃおっきい溜め息つい……」

 慌てて珊瑚の頭頂にチョップ。

「そういうことは言わないでよっ! 言われるこっちの身にもなってよ……」

 顔面がすごく熱いのを感じて、直後、授業開始のチャイムが鳴った。

 しまった、トイレに行きそびれた。


 ――それに気がついたのは、授業が始まってから二十五分ほど経った頃。

 身体中から変な汗が吹き出す。下腹部がむずむずする。

 なぜだか、急激な尿意が込み上げてきたのだ。

 着々と溜まっていったそれは、わたしの膀胱をちくちくと突き刺し、出口を刺激する。

 先生に言ってトイレに行くなんて考えはなかった。どうせ許してはくれまい。

 黒板の上に飾られた掛け時計を見ると、授業の終わりまであと半分もある。

 ダメだ……無理。あと二十五分も我慢できそうにない。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 頭のなかがぐるぐるして――「るり、どうしたのー? 呼ばれてるよー?」

 珊瑚が横から腕をつついてきて……わたしは驚いて。

「ひゃあっ!」

 声を上げた、その瞬間。


 パンパンに膨らんだ水風船が、ついに破裂した。


 勢いよく解き放たれた液体は、足を伝い、水音を立てながら床に広がっていく。

 あ、ああ、やってしまった。

 とめどなく、瞳からも水が流れる。

 わたし、お姉さんなのに。みんなから頼られる、クールなお姉さんだった、はずなのに。

 誰にも迷惑なんて、かけたくないのに。

 ああ、やっちゃった。

 だめだ、わたしは、もう――。

 みんながからかう声が聞こえる。クラスメイトが、同情するかのように嘲笑っているのが聞き取れた。

 ……わたしのイメージは完全に壊れちゃったみたい。

 もう、誰もわたしを頼ってくれないな。きっと明日から、いじめられる。

 もう、だめだ。

 そこまで考えて勝手に絶望したその時。

「みんな! 静かにしてよ! るりが泣いちゃってんじゃん!!」

 珊瑚の叫びに、一瞬にして教室は静まり返る。

 静寂のなか、わたしのすすり泣く声だけがその部屋に響いていた。

「……るりはわたしが保健室に連れてく。……立てる?」

「っ……うん」

 かろうじて返事をして、震える足で立ち上がり、珊瑚の肩に支えられながら保健室へと向かった。


「るり、大丈夫? ……そんなわけないか」

 わたしに優しげに声をかける珊瑚。わたしは、なるべく涙をこらえながら、返事をする。

「……大丈夫、だから……先、戻ってていいよ」

 これ以上、心配をかけさせるわけにはいかない。まして、珊瑚はわたしの大切な友達だから、なおさら……。

「うそつき」

 一瞬、耳を疑った。

「るりってば、いつも強がってるでしょ」

 そんなことはない。そう言い返したかった。だけど――。

「その顔、図星だね」

 なんにも喋れなかった。

「昨日から、なんか変だって思ってた」

 珊瑚は一筋の涙を流して、語る。

「……ずっとおでこにシワつくってた……今もそうだよ。それに、一緒に帰ろうって言っても無視しちゃうし……。なんだかとっても切羽詰まってるような感じで……」

 すすり泣き、詰まる言葉に、わたしは目の前の少女の真意を悟ったような気がして……思わず彼女を優しく抱き締めた。

「……もうすでに、心配してくれてたんだ……」

「うん……だって、たいせつな親友なんだもん……」

 歪む視界。わたしは、ささやくように。

「ごめんね……心配かけさせちゃって」

「当たり前のことだもん。謝ることなんて、ないから……」

 保健室、抱き合う二人の少女の泣き声だけが、しばらく静かに響いていた――。

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