第30話 少女、胎動
やがて、窓から見える空の色彩が、水色から橙、そして藍色へと変わっていく。
「もう夜になっちゃったね」
「珊瑚ちゃん、早く帰ったほうがいいんじゃない?」
時間、夜七時。俺の言葉に、彼女は笑いながら。
「いいよ。今日は泊ってくから」
「ああ、そう。……なんだって?」
「泊ってくの。だめ?」
「いや、駄目じゃないけど……」
止める理由なんて何もない。いや、泊める理由もないのだが……泊めない理由もない。
うちにはいくつかの空き部屋があり、そのうち、父や母が寝室として使ってた部屋にはそれぞれベッドが残されているので、寝床の心配はいらない。あとはご飯なのだが……まあ、出前でも「じゃあ、私も泊まらせてはくれないか」
九条先生がこんなことを言い出す。
「夕飯は私が作ろう。なに、心配はいらないさ。これでも、いつもいつも……そう、だいたい二十年近くは一人暮らしで自炊をしてきたんだ。まずいわけがない」
「じゃあ、私も手伝わせていただこうかしら。いい?」
「ああ、頼む」
翡翠さんはもはや何も言わずとも泊る前提らしい。やれやれ。
ちなみに冷蔵庫内の残り食材を使って出来上がった夕飯の焼鮭は、結構おいしかった。若干味が濃くてお酒に合いそうな味をしてたのが気になるが……たまには悪くないだろう。毎日食ってたら胃を悪くしそうだが。
「ねえ、なんでわたしを椅子にして……というかおっぱいに頭を乗せてるのかな?」
珊瑚ちゃんの胸は、瑠璃のそれよりも大きめで、包み込むような感触。柔らかさは瑠璃のそれに劣るが、何より形がいい。至福の感触に文字通り頭が両側から包み込まれる。
「あおいちゃん……というかお兄さん。お風呂の中とはいえ、ちょっと恥ずかしいから……」
肌は吸い付く、というよりさらさらすべすべとした感覚で、ずっと触っていたくなってしまう。じゃんけんで俺とお風呂に入る権利を勝ち取ったのがこの子でよかった。
「さすがに、そろそろやめてくれるとうれしいかな……」
俺は幼女が好きで、小さい女の子におっぱいなんてない。だが、それが嫌いというわけでもないのだ。特に女子中学生の発達途上のそれはもうたまらな「ちょ、やめて!」
はっとして我に返ると、俺の手が勝手に、枕にしていたはずの珊瑚ちゃんの乳房を触ろうとしていたということに気が付いた。
二人きりのお風呂。一瞬の気まずい沈黙。
「あっ……ごめんなさい!」
「いや、未遂だったからいいけど」
彼女の海のような心の広さに、ひとまずほっとしながらそそくさと浴槽の反対側に移る。というか、なんでこんなセクハラをぶちかましてしまったんだ。ああ、自己嫌悪。
反省する俺。それを横目に珊瑚ちゃんは赤面していた。
「……こういうことは、るりとしたかったのに」
「瑠璃と……なんだって?」
「あ、きこえちゃった?」
狭い浴槽に二人きりなのだ。いやでも聞こえてしまう。
静かな夜、珊瑚ちゃんはほうっと、水面に波を立てながら、ぽつりとつぶやいた。
「……わたしね、たぶん、るりのことがすきなんだ」
風の音、虫の声、呼吸音、互いの心臓の鼓動。それらだけが、この小さな部屋に反響する。
「ライクじゃなくて、ラブの意味で。恋っていうやつ」
幼稚園時代、出会ったころにはそういう感情はなくて、ただただ仲のいい友達で、親友で。でも、いつからか、友愛が恋愛に代わっていた。
ありがちな、とてもよくある愛のカタチ。ただ、性別の壁を除いてね……。彼女は泣きそうな声で笑う。
「えへへ。なんでだろう。おかしいよね。……女の子同士、なのにね」
「……おかしくなんてないと思うけどな」
気が付けば、そんな言葉が口をついて出てきていた。
「俺、自慢じゃないけど、男だったころは気持ち悪いほどモテモテでさ。いろんな人に告白されてたんだよ」
「すごいじゃん」
「いや、鬱陶しくてたまらなかったけど。でね、その中には男も何人か混じってた」
「……え?」
珊瑚ちゃんは不思議そうな顔をする。
「いわゆる、ホモとかゲイとか言われる類のやつ」
「そんなひと、ほんとうにいたの」
「いた。むしろ、みんな真剣に恋をしてた。俺はその気がなかったから断ったけど」
「……おかしいよ。だって、そもそも恋なんて男と女がするものだよ……?」
「いや、それは違う。男同士でも、女同士でも……好きになった相手が同性だったなんて、意外とよくあることなのさ」
たしかにあんまり見かけないし、宗教上の理由で認められてないことも多々あるから誤解しがちだけど。
そんな風に語ると、珊瑚ちゃんの、鼻水をすするような声がして。
「……女の子同士でも、恋ってしていいの……?」
「ああ。……回りくどかったかな」
「うん……でも、ありがと」
視線を少し前に動かすと、水面には少女の笑顔が反射していた。
「はやくるりに伝えたいな。この気持ち」
「じゃあ、早く起きてもらわないとな」
二人の少女のやけに明るい笑い声が風呂場に響き渡り。
「じゃあ、そろそろ風呂を出て寝ようか」
「うん」
その日は布団に入った。もちろん翡翠さんにテープの赤ちゃんおむつをつけてもらって、プニキュアのパジャマを着せてもらって。
瑠璃の部屋、眠り姫と化した妹に抱き着いて、瞳を閉じた。
暗闇。また夢の中。
「蒼にぃ」
「なに?」
「話し方、女の子みたい」
笑うような少女の声。これにももう慣れてしまったな。
「って、どういうこと……だ!?」
「そのままの意味。男の姿だとちょっと」
「わかった、これ以上は言わないで」
俺のメンタルどうかしちゃうから。
ため息をつくと、一瞬の静寂。否が応にも心が整えられ。
「いま、瑠璃ちゃんが大変なの」
これこそ、どういうことなんだ。
「手短に。瑠璃ちゃんはいま、大変なことになってる。心が壊れそうになってるの」
「……え」
嘘だろ。だって、そんな素振り、一度も……。
「あの子はずっと耐えてた。特に、先週の日曜日。五日前のあの日――『蒼』という少年が『あおいちゃん』に変わった、あの日から」
……思い返してみれば、その兆候はあったのかもしれない。
月曜日に俺をお兄ちゃんと呼んでいたこと。火曜日にお漏らしして帰ってきたこと。水曜日におむつをして学校へ行ってたこと。そして、木曜日に怒鳴って、それから出てこなかったこと。
ああ、どうして気付いてやれなかったんだろう。
そして、あの日からということは。
「もしかして」
「蒼にぃ。落ち着いて」
過呼吸になりかけていた。夢の中なのに、妙に息苦しい。
落ち着け、俺。冷静になるんだ。今は話を聞け。
深呼吸して、息を整える。
「……確かに、原因の一端は蒼にぃ……いや、『わたしたち』にあるのかもしれないわね」
遠回しに言っても、事実は変わらない。
なにもかもを瑠璃に頼りすぎた。それが心の負担になって、その結果、精神を崩壊寸前まで追い詰めてしまったのだ。
もちろんそれだけではないはずだが、俺がそれに拍車をかけてしまったことに変わりはないだろう。
俺が、兄である俺が、妹を追い詰めていたなんてな。
穴があったら入りたいし、もういっそこの世からも逃げてしまいたくなる。
だけど。
「だから、わたしたちにできるなにかをすればいい」
はっとして、俺は前を向いた。
けれど。
「果たして、こんなわたしになにができるんだろう」
夢の中だというのに、頭がくらくらとしてきた。眩暈がする。周りの真っ暗な景色がぐるぐると渦巻いて、やがて光が差してくる。
そう、夢から覚めるのだ。いつもの時間切れ。もっと、考える時間がほしかったのに。
「あきらめないで。きっと、何かできることはあるはずだから」
叫ぶ少女の声。俺ははっとして――眩い光。一瞬目を細め。
「あぅ~?」
赤ん坊のようなその声に、俺は目を見開いて。
「るり……?」
瑠璃が、起きていた。キョトンとした顔で俺を見て、それから純真無垢な笑顔を見せて――その彼女の二言目で、俺は涙を流した。
「おはよぉ、
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