なのかめ ~そして、ふたりは。

第31話 崩壊

「あおいおねーたん。……どーしたの?」

 舌足らずなしゃべり方で、目の前の少女は言った。幼女の姿をした俺に向かって。

「……うそ、だよね。お、おれのこと、わかる!?」

 俺は叫ぶ。しかし。

「えへへ。わかるもん。あおいおねーたんは、あおいおねーたん!」

 あおい? おねーたん? そんな言葉は知らない。

 ……昨日見た幻覚。白昼夢。その中で遊んでいた少女。見知らぬ女の子は、俺の姿をしていた。そして、その少女は「あおい」と呼ばれていた。

 あの夢の中の、三歳くらいの幼い妹と、目の前で目を丸くした少女。確信めいた嫌な予感が背筋を寒くする。

「…………るり、いまなんさいだっけ?」

 その答えは、あまりにも予想通りだった。

 嫌な予感が、確信に変わった。


「るりちゃんはさんさいだよ? まだおむつのとれない、あかちゃんなるりちゃんなのー」


 ――赤ちゃんというには大きすぎる、大人に近づく発展途上の身体を持った少女は、えへへっと笑いながらそう言った。


**********


「え……るり……?」

「うん、るりちゃんだよぉ。しらないおねえちゃん」

 リビング。キョトンとした顔で瑠璃は、泣きそうな顔をした珊瑚を見つめる。

「……わたし、珊瑚だよ?」

「さんごちゃんはこんなにおっきくないもん! あ、もしかしてさんごちゃんの……おねぇちゃん?」

 朝、着替えさせてもらうためにきたリビング。ついてきた瑠璃と、先に起きていたらしい珊瑚ちゃんが遭遇してしまったのである。

「なるほど、記憶も幼いころに戻ってしまったようだな……。困ったことになった」

 しれっと食卓で牛乳を飲んでいた九条先生が呟く。

 しかし、そのあと。

「おはようございま……わわっ」

 起きてきた翡翠さんに、瑠璃は抱きつき。

「ひすいねーねっ」

 はっきりと呼んだ。

 ……瑠璃が三歳の時、つまり俺が六歳の時。海外にいた頃か、あるいは日本に渡ってきて間もない頃か。少なくとも、その時には翡翠さんとは知り合ってない。というか、一週間近く前にニシマツヤに行った時が初対面のはずだ。

 それ、すなわち。

「正確には、色々と混ぜこぜになっちゃっているみたい」

「そうきたか……。一体、どうして……」

 九条先生が首をひねらせ、俺は肩を震わせた。なぜなら。

「……すべては、俺のせいなんです」


 リビングから出たところの廊下、九条先生と珊瑚ちゃんは、俺の夢の中の話を真剣に聞いていた。

 ちなみに、翡翠さんは瑠璃の相手をしてもらっている。というかもうべったりで離れてもくれないらしい。

「育児などのストレスによる防衛機制、それで幼児退行か……。ちくしょう、その手の専門家たる私が、どうしてその可能性に気付けなかったのだろう!」

「まあまあ落ち着いて」

「落ち着いていられるか……まあ、反省はおいておこう」

 深呼吸する先生。珊瑚ちゃんは笑いながら。

「……でも、気持ちはわからなくもないかも。パパもママもいなくなって、頼みの綱だったお兄ちゃんもちっちゃくなって頼れなくなって。それじゃあ、疲れて甘えたくなっても不思議じゃないよ」

 むしろ、るりはがんばってた。

 言いながら、しかしその頬には一筋、涙。一滴二滴と滴り落ちる。

「泣いてるの」

「好きな子に忘れられちゃって、悲しくならないわけないじゃん……」

 そう言って彼女はうつむいた。

「いったい、どうすりゃいいんだよ……」

 悲哀。絶望感。暗い雰囲気が、廊下に満ち。

「二人とも、しっかりしろ! ……前に進まねば、行動しなければ、何も変わりはしないぞ」

 九条先生が、一喝。その時だった。

「みんな、なにしてるのー?」

 何も知らない瑠璃の声とともに、廊下とリビングを隔てるドアがノックされる音が、廊下に響き渡った。

「あおいたんもいっしょにあーそーぼー」

 見たことのない彼女の笑顔。幼く、純粋な「子供」の笑顔。

 それを浮かべたその少女は、もはや自分の妹とは思えないほどに可愛らしかった。

 幸せそうな顔。脳裏に浮かぶ彼女は、どこか無理をしているような気がしていた。

 ……このまま、戻さなくてもいいかもしれない。

「うん」

 俺は、彼女の笑顔を真似るように笑い顔を作って。

「……おままごと、しよっか」

 提案すると、瑠璃は。

「んっ!」

 首を大きく縦に振った。


「あ、おねぇさんは……ままやく!」

 指さされた珊瑚ちゃんは、戸惑った顔。

「え、自分がおかあさん役やるんじゃなくて……? でわたしがおとうさんとか」

「ままじゃなくって『あかちゃん』がいいのっ! あおいちゃんはおねーちゃんで……あ、ひすいねーねもまま! あ、そこのおばさんはおばあちゃんね」

「なんだと!?」

 ……ああ、なるほど。お母さん役はもうやり飽きてるから……。

 俺は一人で納得した。

 お母さんが二人なのは……たぶん、幼児特有の自由な発想なのかな。

「じゃあ、はじめよ! あおいおねーちゃん!」

 振りまくその笑顔はあまりにもまぶしすぎて、俺はつい目を背けた。

 そのうち、おままごとが始まる。と、その前に「ママ」役の翡翠さんと珊瑚ちゃんが瑠璃のおむつを替える。

 むわっとした、どこか甘みを伴うような臭気。それはここ数日で嗅ぎなれてしまった彼女の臭い。

 だがしかし赤ちゃんのように笑顔を振りまくその少女は、あまりにも『彼女』らしくなくて……

「あら、そうちゃ……あおいちゃんもおむつ?」

「……んえ?」

 いつの間にか出ていたらしい。翡翠さんに指摘され、多少の恥ずかしさで顔面が熱くなり。

「あおいちゃんのおかお、まっかっかー!」

「……」

 にっこりとした笑顔で、高く甘えたような声で、瑠璃は俺を幼稚にからかった。

 ……胸が締め付けられるようだった。目の前の少女はもはや別人になってしまったのである。

「あおいちゃん、どっかいたいの? いたいのいたいの、とんでけー」

 その言葉は、頬を濡らす俺に対するあまりに純粋な好意で。しかし、何の対策にもなってないことは、誰の目から見ても……本人から見てもわかるはずなのに、何度も何度も繰り返して。

 瑠璃なら、きっとこんなことはしない。賢くて生真面目で頑張り屋さんな彼女なら、すぐに何か対策をするはず。

 目の前の、自分の妹の姿をした紛い物を、にじんだ視界でぐっと睨みつけ――


『落ち着いて! 必ず、元に戻せるはずよ。……この子の目を覚ませるのは、蒼にぃだけなんだから……』


 幻聴。喉元まで出かかった怒りを飲み込んで、深呼吸。

「おい、どうしたんだ……?」

 九条先生はいよいよ心配そうに俺に声をかけ、しかし。

「ありがとね、るり……ちゃん。おかげでなおったから、だいじょうぶ」

 俺が微笑むと、瑠璃は花を咲かせたような笑みを浮かべた。

 もはやどうすればいいのかわからない。最適解は、正解は。

 どうすれば、みんなが幸せになるのか。考えろ。考えるんだ。

 胸が締め付けられるような苦悩をなるべく出さないようにして、俺は「お姉ちゃん」を演じるのであった。

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