第38話 What is "I"


「ねぇ、蒼にぃ。あなたってもしかしてものすごく鈍感なのかしら?」

「そんなことは……」

 ちょっとあるかもしれない。夢の中、大きな身体で俺は、少し考える。

「……今日のなのちゃん、とっても不機嫌だったわね」

「そーだな」

「なんでかわかる?」

 そんなことを聞かれても、わかるわけがない。

「そういうアオイはわかるのか?」

「わかるわけないじゃない」

 ですよね。子供の考えてることはよくわからない。

 ため息をついた俺に、「でも」ともう一人の自分は切り出す。

「いまのあなたならわかるわけないってのも確かよ」

「は? 何を言って」

「はい、時間切れ。ごめんね」

「いっつもそうだ! 核心がわからないまんま時間が過ぎていく!!」


 こうして寝覚めの悪い朝がやってくる。

「あ、あおいちゃん起きちゃった?」

「んぅ……あおい……あ、おれか」

 一瞬知らない女の子のことが脳裏に浮かんだ気がして、首を横に振る。……最近こういうこと増えたなぁ……。

 なんとなく股間がすーすーして心許ない。少し上体を起こして下を見ると……おむつがなくて、かわりにつるつるで未発達の「女の子の部分」が顔を覗かせていて。

 その先で、翡翠さんがその部分を凝視していた。

「ひゃっ!? え、え? おねえさんっ? まさか……えっち! ろりこん! ぺどふぃりあー!!」

「防犯ブザーなんてどこから出したの! 違う! 違うから!」

 九条先生が念のためって持たせてくれてた防犯ブザー。変態め、覚悟ッ! と紐を引き。

 早朝からピヨピヨとけたたましいブザーの音が鳴り響いた――。


「ごめんね。おむつから漏れそうになっちゃってたから……」

「替えようとしてくれてたんだ……。ごめん、ちょっと理性が働いてなかった」

 苦笑する翡翠さんに謝る俺。朝食の席。さっきの言葉がそのまま男だったころの俺に対して圧倒的ブーメランだったことは言うまでもない。

 ……でも翡翠さん、悪いひととは思ってないけど……変態ではあるよね? 俺の疑念をよそに、少女の声。

「うるさかったのー」

「ごめんごめん……」

 拗ねる瑠璃の頭を撫でると、彼女は「にへへー」と笑う。今日の瑠璃はちょっといつもより幼めらしい。

「るりねー、あおいちゃんにあたまなでなでされるとねー、とってもうれしくなるのー!」

 少し舌足らずに話す彼女は、とても中学生には見えない。それはそれで可愛らしいが……自分のせいで、こうなったんだと思うと、素直に喜べはしない。

 俺は少しだけ息をついて。

「ごちそーさまでした」

 手を合わせてから椅子から降りて、幼稚園へ行く準備を進める。

 最近ではボタンも自分で止められるようになって、スカートも自分で履けるようになってきた。抵抗感も少し薄れてきたし、なんならかわいい制服が着れてうれしいって思ってきてる自分が少しいる。

 ……女の子に染まり過ぎちゃってないか、俺。

 もしかして:今更。

 脳裏に渦巻くそんな文字列に、俺は頭を抱えた。


 そんなモーニングルーティーンを経て、俺は幼稚園に向かう。

 幼稚園。教室に向かう。

 ……なのちゃん、大丈夫かな。昨日みたいに、また笑ってくれてるといいな。

 気と共に重くなる足取り。教室のドアを開け――期待した衝撃が来ることはなかった。


 その少女は俺の姿を見ると、少しだけ目を細めて、よたよたと近づいてくる。

 ゆっくりと、まるで歩き始めの赤ん坊のように近づいてくる彼女をなるだけ優しく受け止めると、彼女はしゃくりあげるように口にする。

「あお、い、ちゃん。おは、よ……」

「だいじょうぶ!?」

 思わず出た、心配の言葉。それに、彼女は言う。

「だいじょーぶ。だから……しんぱい、しないで」

 明らかに大丈夫じゃなさそうな、泣きそうな顔で。

「そんな顔されたら、心配しないわけないじゃん」

 やさしく言った、つもりだった。

「……っ、だから! 心配しないでって!!」

 気迫に満ちた声音で叫ぶ腕の中の幼女。びくりとする俺に気付くこともなく。

「じゃないと……じゃないと――」

 震え、怯える彼女。

 どうすれば、いい。どうすれば。なんでこうなった? 俺が、俺が何とかしてあげないと――。

「――落ち着いて、あおいちゃん!」

 肩を叩かれて、はっとした。――過呼吸になっていた自分に、まったく気づいていなかった。

「菜花ちゃんのことは先生わたしに任せてください。……まずは、おむつを替えてもらって、落ち着いて――」


 しばらくの時間が経った。

 いつの間にかパンパンに膨らんでいたおむつを替えてもらって、普通のカリキュラムに戻る幼稚園。

 お歌もお遊びも、見かけ上はつつがなく進む。そこにひとりがいないことを除いて。

 ……その実、歌は音程がずれるし、遊んだって少しも楽しくなくてすぐにおもちゃを箱にしまった。

「かくれんぼしようぜ!」

「ええ! あおいちゃんもやらない?」

「……ん」

 友達のあかねちゃんとろくくんの遊びの誘いに頷き、俺は園庭の隅に隠れる。なるべく誰にも見つからない場所。

 ジャングルジムの裏にある茂みの、さらに裏。幼稚園の敷地の一番端っこ。わずかな冒険間にドキドキしている自分に気付いて、軽く額を抑える。

 ……本当に心が子供になってんじゃないだろうな。

 そもそも、俺は男だよな?

 自分の「まだ」ない胸を触って、おむつ越しに「ムスコ」のあった部分を触って、腰まで伸びた髪を触って。

 ――いつか、わたしのおまたからも血が出てきて、子供を産めちゃうようになるのかな。

 いやいやいや、「俺」は男だ! いまの女の子の暮らしも楽しいけど……戻る気もないけど……でも、本質は……。

 走馬灯のようにフラッシュバックする、女の子になってからの記憶。

 排泄はおむつに頼り切り、かわいい服を着せられ、長く伸びた髪をアレンジされ……なんなら食事も何もかも、周りの人に頼らざるを得なくて……そんなくらしが、たのしくてしかたなかった。


 俺、本当に男なのか?


 実はもともと心は女の子で、いまの暮らしが本当の自分の身の丈に合った生活なんじゃないか?


 楽しい暮らしが、生温い幸せが忘れさせてくれていた自己同一性の崩壊アイデンティティ・クライシス

 ああ、もうだめだ。頭がおかしくなってくる。

 幼女化して小さくなった脳が悲鳴を上げだす。偏頭痛と共に、少しだけ眠気。

 深呼吸した。

 ――ふと感じたのは、孤独。

 きゅっと胸が締まる感覚とともに、不意に泣きそうになった。

 さみしいよ……なのちゃん……。

 だめだ、俺は男だろう。男子高校生なんだろう。決して、心まで幼稚園児なんかじゃあないんだ。だから、こんなことで……こんな、ことで――。

「ひ……ぐ、ない、ちゃ……だめ……おれ、は――」


「みーつけた」


 ぼやけた視界をスモックの袖で拭いて、顔をあげると。

 そこには赤髪の女の子――あかねちゃんがいた。

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