第37話 なのかクライシス


「……にへへ……うあ、うわぁぁぁぁぁぁん!」

 急に泣き出したなのちゃんに、俺は動揺する。

「どうしたの!?」

「うぅ……な、んれも、ない……ぐすっ」

 なんでもないわけはないだろう。でも、本人が言わないのならなにもわかりはしない。

 結局俺は、何もできずにただ彼女の背中を擦ってやるくらいしかできなかったのだった。


 個人面談か何かに使う部屋なのだろうか。小さな部屋で、俺となのちゃん、そして先生が対面する。

「菜花ちゃん、なにがあったか聞かせてくれないかしら」

「……なんにもないもん」

 俺と先生は目を合わせ、先生は首を横に振るばかり。

 本人がこういうのだから本当に何もなかった。ただ今日は酷く気分が落ちてるだけ。また時間が経てば元通りに――。

 ――なんてあるわけがないだろう!

 ほかならぬ自分の妹の惨状を思い出す。

 あの時自分はどうしていた。ただ楽観視して甘えていただけじゃないのか。

 ……あの時、何か手を差し伸べていたら。あの時、彼女を支えてやれたなら。もう少し、違った結末になったかもしれないのに。

 時間はもう戻らないけど。この体も、彼女の心も、元に戻るかわかんないけど。

 ――二度と、繰り返してなるものか!

「きかせてよ、なのちゃ――」

「――っ」

 感情的になりそうになった俺に、飛び込んでくるのは目の前の幼女の姿。

 ……ひどく怯えた様子で、俺を見ていた。

「や……め、て――ま」

 まるで脳が直接殴られたかのように、冷や水をぶっかけられたかのように、思考は一気に冷めあがる。

 だめだ。感情的になるのは。

 目の前の彼女はいったい何歳なんだ。

 ――まだ五歳か六歳。幼くて、まだまともな判断もできないような歳。

 そんな幼女に、怒鳴って言うこと聞かせようなんて……そんなの、ひどすぎる。

 まして、俺は以前、怒りをあらわにしたことで――妹を、傷つけたじゃないか。

 落ち着け、落ち着くんだ。

 俺は深呼吸して。

「……ごめん。感情的になり過ぎた」

「かんじょーてきって……」

 なに? と聞かれる前に、俺は自分が少し難しい言葉を使っていたことに気付く。……幼稚園児に、あんまり難しい言葉は通じない。

「かっとなった。いまはおちついた。……ごめん」

 そうして部屋を出て廊下へ。

 授業中。どこかの教室で歌う声がする。

 俺は一人きり、暗い廊下で深呼吸した。


 それからしばらくの時間が過ぎて。

 教室に合流した俺。休憩時間、一人で遊ぶ。

 こうしていつの間にか貴重な時間は過ぎていって。

「……あさのこと、ごめんなさい」

 ひとりだけになった教室に、なのちゃんが入ってきた。

 さーさーと、雨が降る午後。


 二人は何も言わず、ただ二人並んで空を見ていた。

 灰色の空。雨音。それに紛れて水音。――――沈黙。


 ふう、と息を吐いて、俺は隣の少女を一目見た。

 ――あんなに明るかった明るい髪は、まるで萎れた向日葵のように暗く見え。

 俺の視線に気がついたその少女は、俺を見てあどけない作り笑いを浮かべた。

「にへへ。だめ、だね、あたし」

 ……一目見ただけでわかる作り笑いですら、どこか儚さと可愛らしさの面影を感じさせるのは、きっと俺の感性がおかしいに違いない。

 胸を指すとげのように深く突き刺さったその微笑みに――赤い手形のついた頬に本来似合う言葉はきっと「痛々しさ」のはずなのだから。


「お迎えですよー」

 先生が言う。

 ――腫れた頬。おむつ替えのときにちらっと覗くと、お尻も少し赤くなっていた。

 きっと先生が叩いたのではないと思う。思いたい、のではない。朝見た時にはすでに頬が腫れていたのだ。

 先生のことを信用しきったわけではないが、さすがに朝来たばかりの子を話も聞かずに引っ叩くなんてことはないだろう。今までおよそ一か月、そんなことは一度もなかった。

 ならば、家にいる誰かがなのちゃんを叩いた。そう。つまり。

 なのちゃんは、虐待を受けている。

 ――この子は、俺が守らなきゃ。

 ひしっとその幼い少女を抱いた。

 しかし。

「おーい、菜花ぁ。迎えに来たぞー」

 けだるけな低めの女の声。いつもと違う……?

 疑念を抱く俺。なのちゃんは少し微笑んで。

「こはくおばちゃん、こっち!」

 嬉しそうな声で呼んだ。

 そこに現れたのは、金髪ショートの、中学校の制服を着崩した少女。俺は以前、彼女を見たことがある。

「おう、菜花。よくがんばったなー……っと、こっちは?」

 その女子中学生――瑠璃の友達の、琥珀ちゃんは、俺を一瞥して。

「あ、あおいちゃーん! 会いたかったーっ!」

「珊瑚ちゃん!?」

「るりもいるよー!」

 驚く俺に、姦しい女子中学生たちは。

「はー……癒される」「かわいー! お持ち帰りしたーい!!」「や! あおいちゃんはるりのなの!」

 三者三様の反応。頭を抱える俺に、ほおずりする珊瑚ちゃんと瑠璃。一気に騒がしくなった教室。苦笑いする先生。

 ふとなのちゃんを見ると、どこか嬉しそうに笑っていた。

「じゃあ、帰ろうか」

 そう、琥珀ちゃんは笑って。

「うん!」

 元気に返事するなのちゃんに、すこしだけほっとした。


    *


「なにをやっているの!」

 連絡帳を見た若い女が、幼女を叱る。

 泣きじゃくる幼女――菜花に、その母は厳しく。

「なんであなたはほかの人に迷惑をかけることしかしないの!? ねぇ!」

「姉さん、やめなよ! 菜花はまだ――」

「うるさい!」

 止めようとするのは、菜花の母の妹、つまり叔母に相当する琥珀。しかし、怒鳴る母。

「あなたに何がわかるの! 文句言うならまず黒髪にして菜花の見本になるように――」

「これは地毛だっての! 姉さんも昔から知ってんだろ!?」

「言葉遣いもよ! 丁寧語にしなさいな。菜花がマネするでしょ!?」

「しないだろ! 菜花はもう五歳。そこまで馬鹿じゃ――」

「バカだからこんなに人様に迷惑かけて……菜花、聞いてるの!?」

 夕食。目玉焼きを前に、うまく持てない箸を握って涙を流す菜花。

「……ごめんなさい……」

「ごめんなさい? 謝るんなら次からはしないようにしなさいよ」

「ひぅっ……」

 ――それができないなんてことは、この場の誰も知ることはない。

「できるの? できないの? ねえ」

 詰問するその女は、気付いていない。

「……はい、でき……まじゅ……」

 子供に詰め寄って叱ったところで、効果などありはしないということを。

「何度出来ますって言ったっけ? 昨日も一昨日も言ったわよね?」

 何も答えない菜花に対して、母は。

「次、人様に迷惑かけたら……どうするか、言ったわよね?」

「……おしり、叩かれ……」

「よく言えました。……おしり、出しなさい」

 ためらいつつも言うとおりにする菜花。――そうしなければ、もっと怒られるとわかっているから。

 こうして、罰の時間は始まった。

 ぱしん、ぱしんと響く音。泣きじゃくる声。

 ――菜花は尿意を感じ取れない。故に。

「なんでおもらしするの!?」

「ひぐっ……わが、ん、ない……よ……」

「……お尻たたき十回追加ね!」

「いやぁぁぁぁあぁぁぁ!!」

 叫ぶ声。水音。その渦中で、未熟な彼女は、自省するのだ。


「なんで……正しく育ってくれないの……」

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