第27話 ねむりひめ
妹の寝室に侵入すると、先ほどと変わらずにすうすうと寝息を立てる瑠璃の姿が見える。もしかしたら起きているかも、だなんて淡い期待は打ち砕かれた。
しかし、心なしかさっきよりおしっこのにおいが強くなってないか?
……翡翠さんが掛け布団をめくると。
「あー……盛大にやっちゃってるわねー」
一言で言おう。
決壊していた。
おむつが吸いきれなくなって、溢れていたのだ。
敷き布団には、巨大な世界地図が広がっていた。しかも、何度か乾いては上書きされた跡まである。
……洗濯、できるかなぁ。このシミは流石に一回じゃ落としきれない気がする。
親がそろって海外に行ったあの日から――いや、その前からお手伝いしたりして培った経験と勘が、苦労を予感させた。まぁ、瑠璃ならしっかり落としてくれるのだろうが……まぁ、起きた時にやってもらおうか。
閑話休題。
ともかく、びしょ濡れで臭くなったシーツを取り除き、ついでに瑠璃を床に移してもらう。いつも夜のおむつ替えに使っている動物柄のマット――翡翠さんが言うに、おねしょシーツというものらしい――を敷いて。
「ついでにおむつも替えちゃいましょうねー」
なんて言って翡翠さんは何かを取り出した。
柔らかいビニールで出来ているそれは、ピンク色に可愛いうさぎさんの柄が散りばめられている大きな四角形の物。それが展開されると、俺が夜に使っているようなものと同じような形になって。
「……これは、なに?」
俺が聞いてみると。
「大人の赤ちゃん用のおむつ」
「え、いまなんて」
「だから、大人の赤ちゃんのためのおむつだって」
まったく意味が分からなかった。大人の赤ちゃんってなんだ……?
「バニーちゃん、可愛いからお気に入りなのよ。海外製だからいっぱいおしっこしても大丈夫だしね。まあ、ちょっと大きいからめんどくさいけど……」
「へ、へぇ……」
なに言ってるのかはあんまりわからなかった。というか仮に意味が分かったとしてもあんまり理解したくなかった。
――これがこの人の本性のほんの一片にすぎないということを俺はまだ知らない。
白い目をした俺を横目に、翡翠さんは瑠璃のタプタプになったおむつの横部分を破って、外す。すると、一気に部屋中に臭いが充満した。
臭いをものともせず、丁寧に、しかしてきぱきと、翡翠さんは瑠璃のお尻をおしりふきで拭う。
そして、拭き終わると、さっき広げたものを、白い吸収帯を上にして瑠璃のお尻の下に敷いた。
その吸収帯で少女の幼い股間を包まれる。そして、色付きのビニールで作られた横羽ともいうような部分で腰を包み、その先に着いた四枚のテープをおなかの部分にしっかりと貼り付け、最後にお股や背中に指を入れてギャザーを立てて。
「よし、できた!」
翡翠さんが言う頃には、目の前に大きな赤ちゃんがいた。
あーもーこのおねーちゃん、可愛すぎ……やばい……。
俺は悶絶した。
さて。
「ねぇ、
リビングに戻ってお茶をすすっていると、翡翠さんに呼ばれる。
「なに?」
答えたら、彼女はくすりと笑った。
「なんでもなーい……あ、そうだ」
本当に意味がわかんないが、そんな俺の様子を気にしてないみたいに、翡翠さんは質問する。
「この身体になって、どんな感じ?」
「……どういうこと?」
「ほら、どんなことがあったとか……例えば、好きな子とかできた?」
俺はお茶を吹き出した。
「にゃ、にゃにを……いるわけないじゃん……」
こちとらまだ幼稚園児……じゃなくて小学一年せ……あれ、なんだっけ。ともかく、恋なんてもんとは無縁なんだ。
「え~。じゃあ気になる子とかは?」
「いや、いないって……」
そんなことを言って、しかしそのとき思い出した。
「……でも、そういえばね。この前、幼稚園に体験入園に行ったときに、なのちゃんって子に抱きつかれてね……」
なのちゃん、可愛かったな。人懐っこい犬みたいで、あとなんか妹みたいで。瑠璃とはちょっと違うけど。
「どんな子なの?」
「いや、元気いっぱいで可愛い女の子」
「おお、百合」
百合……花かな。なんでここでそれが出てきたのかはわかんないけど。
まあ、ぼちぼち、そんな話をしばらく続けたのだった。
これが俗に「ガールズトーク」とか「恋バナ」などと呼ばれるものであると知ったのは、ずっと後のことである。
……ちなみに、それを知った時に「百合」という言葉の別の意味を知ることになるのだが、少なくともこの時はそういう感情は一切なかったことを付記しておく。
――ここまできて、少しだけ自分のことについて思い返す。
おれは、じゅうななさいのだんしこーこーせー。そう、わたしは、ろくさいのしょーがくいちねんせ――ふるふると頭を振った。
なんで一人称が「わたし」になってんだ。俺は「俺」だろうが。十七歳、来年には選挙権を得るはず……だった。
思い返してみれば、これまでにも何度か……とくに慌てていたときなどに、こうして一人称がぶれていたような気がする。たびたび、こうして思考や言動が幼くなっていたように感じる。
まるで、なんにもできないか弱い少女になっていくような、そんな気がした。
……もう、俺は「俺」ではいられないのかな。
漠然とした不安感が、心をきゅうっと締め付け――。
「そうちゃん、大丈夫?」
「あ……うん。ごめん」
「どうかしたの?」
「いや、ちょっと考え事をしてて」
俺は笑った。
その笑みに言い知れぬものを隠していることを、誰も知ることはない。
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