むいかめ ~ずっと、このままで~

第26話 独りぼっちの朝

 暗く、薄い光がカーテンから差し込む。

 光を遮るそれを開けようとしてベッドから起き上がると、下半身はいつものように重くなっていた。

 ひとつため息を吐くと、その状態のままリビングへと向かって。

「るりー……」

 妹の名前を呼んだ。しかし、返答はない。

 もう一度呼び、しかしまたも返答はなく。

 ……なんとなく、嫌な予感がした。

 たたたっと瑠璃の部屋へと駆けていく。

 夜の失敗を存分に受け止めて大きく膨らんだおむつが動きを阻害して、とても走りにくい。そのせいで何度も転びかけた。だから、早くおむつを替えてほしかったのだ。

「るりー」

 彼女の部屋に入ると、尿の独特な臭いが鼻をつく。

 瑠璃もいっぱいおねしょしてたんだな、なんて少し笑いつつ、しかし呼んでも反応のないことにわずかな不安を覚えた。

 それを振り払うように頭を振って、彼女のベッドに駆け寄る。

「るり……早く起きないと学校に遅刻するぞー」

 いまだに寝ていた瑠璃を揺さぶりながら、声をかけて――けれど彼女は安らかな寝顔を崩すことなく眠り続ける。

「おい、るり……起きろって! 早く起きてよ! るり!!」

 いよいよ強くなる焦燥感。不安感。しかし、どんなに揺さぶっても、どんなに声をかけても、目覚めない。

 叩いて、ゆすって、叫んで。

「るり! るりっ!!」

 死んだように目覚めない彼女。

 一生目覚めなかったらどうしよう。そんな不安が頭を強くよぎって、胸が絞まるような感じがして――涙が、こぼれだした。

「るり、るりぃ……うわぁぁん!」

 俺は――わたしは声を上げて、泣き出した。


 ひとしきり泣いて、少し落ち着いて冷静になる。

 にじんだ視界内に見えた時計は――みじかいはりがきゅうとじゅうのあいだで、ながいはりが……えーっと、ろくだから――くじろっぷんだ!

 そこまで行きついて、はっとして頭を振る。なにを言ってるんだ。九時半だろうが。

 ……だめだ。頭がぼんやりする。思考がどうかしてる。おかしくなってる。

 本当にこの体のせいで知能とかが幼くなって……いや、まさかそんなことは。

 ふるふると頭を振って、思考を整理。

 そうだ、昨日残したご飯を食べて……でも、俺を世話する人が必要か。服が脱げないし、おむつは自分で替えられるけど……自分の筋力じゃ寝ている瑠璃を持ち上げておむつを替えてあげるなんてできないし。

 そこで、俺は瑠璃の携帯を持ってきて――ロックはかかってないようで、すんなり開けた――ある番号に電話する。

 俺の知ってる人で、俺に起きた出来事も把握してる人。それでいて、瑠璃を任せられる大人。その条件だとただ一人。

「もしもし、翡翠さん」


 果たして、彼女は電話してからおよそ一時間足らずでこの家に到着した。

「すみません、仕事もあるのに呼びつけちゃって」

「いいのよ。それより、瑠璃ちゃんが目覚めないんだって?」

「ああ、はい」

 リビング、座るのも忘れて、そんな問答を繰り広げる。

「お姉さんとっても心配だわ」

 ……微笑んで、茶化すように言った翡翠さんに、俺は一瞬激昂する。

「そんなこと言ってる場合じゃないんですって!」

 叫ぶと、翡翠さんは俺のおでこを押さえて――体が、後ろに倒れた。

「あうっ! いたた……いったいなにを……」

「落ち着いて、深呼吸しましょう」

 ……言われて、初めて自分が慌てていて興奮して……冷静さを失っていたことに気が付いた。

「吸ってー……吐いてー……おしっこのにおいがするでしょー……」

 茶化しているが、確かに、大量の尿を閉じ込めたそれは冷たく湿り気をまとって、お尻に不快感をもたらしていた。

「さ、おむつ替えしましょ」

 言って、にこりと笑う彼女は確かに、しっかりとしたお姉さんで――。

「あ、終わったらお姉さんの番、おねがいね?」

 ――いや、やっぱりしてたんかい。

 スカートをめくりあげて黄色く膨らんだ幼児用おむつを見せつけてくる姿に、俺は心の中でずっこけた。


「一人で服も着替えられないなんて……かわいいわぁ」

「赤ちゃん扱いするな~!」

 お姉さんの微笑みに、俺は呻き声を漏らす。

 扱いに抗議はすれど、自分で着替えることすらできていないのは事実である。受け入れるしかないのだ。

 ……そうだ、思い返してみれば、いまの俺は赤ちゃんそのものでしかないのだ。

 すぽんっと新しい服――どうやら袖が丸く膨らんだTシャツらしい――から頭を出しながらそんなことを考えていた。

 下は三段のフリルがついたデニムのスカートをはかされる。すこしおねえちゃんっぽいかっこうだ。やった。

 ……ははっ、お姉ちゃんっぽいったっておむつも外れてないんだけどな。

 正気に戻りつつ自嘲気味に笑う。そんな俺に、翡翠さんは気付いてか。

「そうだ、瑠璃ちゃんおねしょしてるならおむつ替えてあげなきゃ。たしか、してるんだよね?」

「ああ、うん……」

 あぶない、忘れかけてた。そういえば、そのために呼んだんだった。

 ということで、俺たちは瑠璃の部屋に行くことにした。

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