たなばた
「せんせー、これなぁに?」
朝。教室に入ると、明るい茶髪をツインテールにした幼女――なのちゃんが、何かを指さして言っていた。
その幼女のちっちゃいおてての人差し指が示す先には、笹の枝。
これは……あれ、なんだっけ。
――最近、知識面も幼児化し始めている気がする。漢字も読めなくなってるし、計算もできなくなってるし……。
数秒考えて思い出せずに、俺はため息を吐いて。
「しらないの? ななたよ!」
「いやたなばただよ!」
そうか、七夕だ。あかねちゃんとろくくんの会話でようやく思い出した。
思い出してみたら、今日は七月七日。織姫と彦星がまぐわう年に一度の日だ。
夏の大三角形、その二角に値するベガとアルタイルを年に一度しか逢うことの許されぬ非常にロマンティックな夫婦に見立て、その逢引の日を盛大に祝ってやるという趣旨のとっても風流なお祭りの日である、と朝の読み聞かせ絵本で先生は話していた。
そんな詳しいことは実はよく知らなかったのだが、お願い事を短冊に書いて笹に吊るすイベントという認識でたぶん問題はない。
七夕の夕ってカタカナのタに似てるからね。幼稚園児なら字は知らなくても無理はないか……。自信をもって間違えるところはあかねちゃんらしいや。
クスリと笑って。
「あっ、あおいちゃぁぁぁぁん!! たなばたぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ぼげっふ!」
笑顔のまま、なのちゃんの朝タックル攻撃を受けたのだった。
さて。
「今日は短冊にお願い事を書いてみましょう!」
日も高くなってきた頃。屋内で俺たちは短冊を前に座っていた。
鉛筆の持ち方が違う、なんてあかねちゃんがろくくんに迫っているのを横目に、俺は息を吐く。
お願い事なんて大層なもの、いまの俺にあるはずもなかった。
正直、高校生だった時よりも楽しいから。
幼稚園が楽ってのもあるし、元の姿だとモテすぎて困ってたってのもある。
それに、子供にならなきゃなのちゃんとは出会ってなかった。
……俺たち二人はまだ少しの付き合いだけど、既にかけがえのない親友になっていた。
そう考えると……「元の姿に戻りたい」なんてもう願ってはいられなかった。
となると、困ってるのはあと一つ。
机の上でコロコロと鉛筆を転がしていた右手を、不意にスカートの上に伸ばす。
そしてそのまま、軽く押した。
……この感触、もう濡れてるみたい……。
周りを見渡して、もう一度、今度はため息を吐いた。
みんな布のぱんつなんだよね……。左に座ってるなのちゃんを除いて。
俺は転がしていた鉛筆を握って、文字のようなものを書きだし。
それからしばらくして、左隣の幼女にぽんぽんと肩を叩かれ。
「あおいちゃんはなんてかいたのー?」
ようやく短冊に書けた、ミミズののたくったような字を見て答えた。
「……『おむつがはやくとれますように』」
「きぐーだね! いっしょ!」
――鉛筆の持ち方を忘れていたことに気がついたのは、それからしばらく経ってからである。
「はぁ……」
幼児退行した女子中学生の妹、瑠璃が、紫がかったような黒、というより瑠璃色に近い色をしたサイドポニーを揺らして、ため息を吐いた俺の顔を覗き込む。
「にーに、どーしたの?」
「……えんぴつのもちかた、わすれちゃってた」
俺はそんな愚痴と共に、帰るときまで笹に吊るしてからお持ち帰りすることになった短冊のへたくそな文字を見せた。
「うゅ?」
小首をかしげる瑠璃に、俺は「そっかー、わかんなくていいよ」と微かに笑う。出来ていたことをできなくなる恐怖なんてわかんないほうがきっといいからね。
そして、同時にようやく実感する。
……ほんとうに、こどもになっちゃったんだ。
小さな手を見て急に切なくなって。
「るり、おほしさま、みたいな」
瑠璃が急に口にした。
突然何なんだ。目を丸くする俺に、彼女は。
「あのねあのね、きょうはたなばたなんだって。おほしさまにおねがいするとかなうんだって、せんせーがゆってた!」
力説する彼女。まあ、止める理由なんてないし。
「いいよ」
「やったあ!」
ぴょんっと飛び跳ねた彼女。程よく成長した胸部がぷるりと跳ね、俺は少し目を逸らした。
「おほしさま、みえないね」
「そうだな」
都会の空は排気ガスに汚れていて、星なんか見えようもない。
それでも、数年ぶりに晴れた七夕。見えない星々が、地上の分厚い大気の奥で煌めいているのがわかるような、ひどく澄んだ藍の空。
家の二階のベランダ。二人はそんな空を見ていた。
織姫と彦星は会えたのかな、だなんて自分らしくない。ふぅっと息を吐いて。
「あついね」
瑠璃が微笑みかけた。
蝉がじわじわと鳴いている。蝉時雨、なんて言葉も聞くが、それに及ぶことはまだないような――初夏のさわやかな暑い夜。
「でも、きもちいい」
「ん」
一音で答えた瑠璃。その横顔は、どこか嬉しそうに、どこか寂しげに微笑んで見えた。
「ねがいごと、いわなくていいの?」
「そうだね」
答えた瑠璃は、少し深く息を吸って。
祈るように、蚊の鳴くような、頼りない声で口にした。
「ぱぱとままに、あいたいよ……」
フラッシュバックした記憶。
生暖かい日々。親のいたあの頃。
人並みの幸福を享受していたはずのあの日々。あえて説明するまでもないような、他愛もない幸せ。
俺が高校に上がって、瑠璃は中学に上がった。ある日、両親は突然いなくなっていた。研究の都合で海外へ、イギリスだかアメリカだかに飛んだらしい。
手紙はたびたび届く。電話もたまにしてくる。二人でも幸せじゃないわけじゃなかった。いまでも、普通に食って暮らして、たまに贅沢したりして、多分人より幸せかもしれないくらいの生活を送れている。金もある。親から有り余るほど送られてくる。友達にも恵まれている。周りには優しい人がたくさんいて、俺たちを支えてくれている。
けれど、ふと思い出したときに、頭の中をよぎるのだ。親がいた頃の幸せが。
そんな時は、ふと夜空に向かって涙を流したりするのだ。
高校生の俺でさえそうなのだ。なら、もっと幼い、中学生の瑠璃はどうだったか、想像に難くない。
辛かっただろう。……精神崩壊して、幼児退行してしまうほどに。
胸がきゅうっと締め付けられた。
求めている人は、多分帰れやしない。世界的と名指される薬学者なのだ。忙しすぎて、俺たちにかまう暇などありやしないだろう。
知っていた。だから、無邪気に願ってすらいられなかった。
「むりかもしれないけど」
水滴が落ちた。
ふと見上げた彼女の顔。
微笑みを湛えながら、涙を流していた。
俺は目を伏せ、息を吐き。
やがて、彼女を抱きしめた。
「こんなところにいたのね。ごはん、買ってきたわよー」
声が聞こえた。
そういえば、今日は翡翠さんが来る日だったか。
息を吐いたのち、振り返ると女性がいた。翡翠さんが、手を振っていた。
「戻ろうか」
「ん」
どちらが言ったのかは定かではない。けど、そんな一言ずつが交わされたことは覚えている。
「今日は弁当屋なの。ちょっと遅くなっちゃったから」
「ああ、大丈夫。ありがと」
一言二言交わして向かう食卓。準備をしたテーブルに、三人がついて。
『いただきまーす!』
割り箸……をあまりの非力さゆえに割れなかったので割ってもらって。
「あおいちゃん、おはし、つかえるようになったの?」
「ふふーん! まだれんしゅうちゅうだけどね!」
すごいでしょーと、握り箸の瑠璃にドヤ顔をしてみる。
忘れちゃっても、子供になっちゃっても、もう一度覚え直せばいいだけだもんね。
翡翠さんが、ふふっと笑った。
「あおいちゃん、箸の持ち方間違えてるわよ」
「えっ……あっ」
そんな家族の光景の裏。じわじわと蝉の合唱する夜。
ポストに一通、手紙が差し込まれていた。
宛名は「日向 蒼・日向 瑠璃」。そして、差出人は「日向 群青」。
裏面には、手書きの文字が書きこまれていた。
『盆休み、帰れるかもしれない。数年ぶりに君たちに会うのを楽しみにしている』
『日向群青より。親愛なる、娘たちへ』
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