第18話 繰り返し、くりかえし
「おはよ、るり」
「うわっ!?」
考え事をして歩く道、不意に肩を叩かれ、わたしはびくりと肩を震わす。
……また少しだけ、おまた付近に湿り気がしたような気がして――無意識化の条件反射なのか、またぶるりと体が震えた。
「……浮かない顔して、どしたの?」
「いや、なんでもな……」
「わたしにだけはうそをつかないって、昨日約束しなかったっけ?」
そういえば、昨日家に来た珊瑚におむつを替えてもらったときに、そんな話をしたんだっけ……。
わたしはやれやれといった感じでため息をつきつつ。
「……珊瑚ってなんでこういうことには敏感なのかなぁ」
「ふふ、だてに何年も付き合ってないし」
そうか、そうだったよね。幼稚園の時からの親友なんだもん。そりゃわかっちゃうか。
「で、今日はどうしたの?」
「……最近、おしっこが我慢できなくなっちゃって」
最近というか、気が付いたのは今日の朝。おねしょしておむつを外す前に、急におしっこがしたくなって――気が付いたら、出ていた。少しだけ。
それから今までの数時間の間、一度もトイレで出せていない。何度も何度も、少しづつおむつの中に出してしまっている。
そんなことを話してみたら。
「え、じゃあ今も……」
「まぁ……。さっきもちょうど話しかけられたときに……」
「まじ?」
「……マジ」
顔が真っ赤に沸騰してるのがよくわかるなか。
「おむつ、替えたげよっか?」
そんな提案をされて高鳴ってしまう胸の鼓動を隠すように。
「いや、いいよ。自分で替えられるし」
「昨日はあんなに甘えてたのに?」
「うっ、うるしゃいっ! ……あ」
叫んだら、また少しだけ、お尻の近くに湿気がまとわりついた。
「出ちゃったのかな?」
目をそらしながら、わたしはこくりとうなづいた。
学校の玄関、万が一にもスカートの中が見えないように細心の注意を払いながら下駄箱に靴を入れて、上履きに履き替えて、そのまま目の前にある女子トイレに直行した。
あまり使う人の多くない、古びたその部屋には、いくら掃除しても消えないトイレ独特の臭いが漂っていて。
「……くっさいなぁ」
ため息をつきながら、スカートの中の下着を下ろして――漂っていた悪臭に新たな臭いが追加された。
パンパンに膨らんだおむつを足から抜く。それを丸めて個室の隅に置かれた箱の中に詰め込み。
――もしかしたら、今ならトイレでできるかな。
脳裏に浮かんだ
わたしは目を伏せて、トイレットペーパーで水分を丁寧に拭き取り、持ってきた新しい紙のパンツを一枚取り出して、中学生に使うには明らかに幼いその柄を
息の詰まる感じがしたのは、おそらく漂う臭いのせいだけではないだろう。
それから授業に出たわたしは、幾度となく股間を濡らした。
膀胱括約筋をしっかりと引き締めて出さないようにしても、いつの間にか出ている。座っていても、立っていても、歩いていても、お構いなしに出てしまう。
ほんの少しづつ、しかし出る頻度は赤ん坊同様に多い。なるべく我慢しようとしても、二十分後にはもうすでにやってしまっていた。
「……とりま、保健室に行ってみれば?」
給食を食べ終わった後の昼休み、珊瑚のその提案に、わたしは首を振った。
「やだよ。恥ずかしいもん」
「おもらししたこととか、わたしにいっぱい甘えてたところまで見られて、今更?」
「……え?」
「昨日、保健室でわたしに抱き着いて泣いてたじゃん。あのとき、保健の先生がいたのに気付いてなかったの?」
…………あの時は二人だけの世界に浸りすぎて気付かなかったけど……よく思い返してみると、落ち着いてからすぐに早退の準備のこととかいろいろしてもらってたような……。
わたしはひどく赤面した。
「うーむ……なにか、尿関連以外で体に不調とかはないのかい?」
「いや……とくには」
保健室にいた白衣の女性――九条先生に下半身の悩みを打ち明けると、彼女は意外にもからかわずに真摯に聞いてくれた。
しかし、一通りの問診が終わると、ひとつのため息が聞こえた。
「ここまで聞くかぎり、体には特に問題はなさそうだ。今度の週末にでも泌尿器科の病院に行ってみることをお勧めするよ」
まぁ、仕方もないか。私もため息を一つついたところで。
「ところで、ここ最近なにか君の周りでなにか大変なことがあったとか……たとえば、親や兄弟が死んだとか、あるいは生まれたとか。そういったこととかはなかったかい?」
不意にどきりとした。
「な、なんで……」
「いや、ないのならいいんだ。でも、この様子は――」
「十中八九、なんか隠してるよね。るりって意外とそういうのよく顔に出るからさ、わかるんだよね」
珊瑚に指摘された。
もう隠せない。私は悟った。
深呼吸して腹をくくり。
「……にわかには信じられないと思いますけど」
前置きをして、今まで起こったことを順番に語った。
「お兄さんが幼女になった!?」
「そんなことがあり得るのか!? ここは現実だぞ!?」
「……ほら、信じられないでしょ?」
わたしはちょっぴり笑った。
「というか、なんで昨日は言ってくれなかったの?」
「あはははは……ごめん」
とても話せるようなことじゃないし、話してもどうせ信じてはくれまい。というか、今話してみたところで、目の前にいる二人がこの話を信じてるようには見えないし。
でも、話してみてなんだかすっきりした。
「ふーむ……。そういえば、日向の親は海外にいるんだっ……ん? 日向……?」
その中で一人首をひねる九条先生。わたしに質問をしようとして、何かに引っかかったようだ。
そして、数秒後、彼女は突然、思い出したように叫んだ。
「あーっ、日向ってあれかーっ!」
背筋がびくりとして、少し震えた。ちょっと漏れたかも。
「えっ、なになにくじょー先――」
珊瑚が聞こうとするのと同時に先生はわたしにまくしたてる。
「日向! 君の父親はもしかして『日向
「え、あ、はい、そうですけど……」
「やっぱりそうだ! あの日向博士の娘か!! あの人なら人間を若返らせたり性別を変えたりする妙薬を作っててもおかしくはないな!!!」
「……先生ってお父さんと知り合いなんですか?」
「知り合いも何も、大学時代に同じことを汗水たらして研究していた仲さ! アイツとは
「ちょっと落ち着いてくださいよ!」
いったん深呼吸する九条先生。
「すまない。私としたことが取り乱してしまった。えーっと……確か、葵ちゃんだっけ?」
「瑠璃ですけど」
「あれ? たしか、最後にもらった手紙が、娘の葵ちゃんを生んだってことだった……ああ、あれはちょっと年が違うか。君のお姉さん――」
「姉もいないですって」
「え……? じゃあ思い違いかな……でも……ん……?」
九条先生は再び首をひねり出したそのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「あ、もうそろそろ授業。えーっと……げ、次は倉田の国語じゃん! 急がなきゃ……一秒でも遅れたら説教の時間になる……」
聞こえた言葉に、私は軽く戦慄。倉田先生の説教は、当事者でなくとも聞いてるほうまで死にたくなってくるほどには厳しいから、なるべく避けたいところだ。
「はやくいこうよ、るり」
珊瑚の言葉に、わたしは「うん!」と返事をして。
「先生、ありがとうございました!」
うんうんとうねりを上げる九条先生にひとまずお礼を言って、わたしたちは駆け出した。
どうにか間に合った。
だが、こっそりとおむつを触ってみると、また少しだけ重くなっていた。
――ほんとうに、どうなっているんだろう。
わたしはまたひとつ、小さなため息をついて、ぼうっと黒板を見つめた。
黒い板を、そこに書き足されては消されていく白い線を、べらべらと長ったらしく話す
「んっ……?」
不意に出た声。水の流れる音は先生の話にかき消されて、わたしだけに聞こえた。
また、やっちゃった。
――あれ、いまなにをかんがえてた?
一瞬だけ、クラスメイトのことを年上のお兄さんやお姉さんだと錯覚してしまった自分に、思わず背筋が凍えた。
どういうことなの?
わたしって、いったいなんなの?
胸の中の黒い影は、ゆっくりと、着実に、私を蝕んでいたようだった。
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