第26話

「先日は、その……失礼した」


 息を飲んで固まっているマリーゼに、ルピウスは謝罪する。頭を下げるその姿に、今の自分はルピウスから見てマリーゼではなく、レードラなのだと気付いた。


(大丈夫……バレてない)


「オーナーですか? ただ今お呼び致しますね」


 この一年で身に付けた営業スマイルを貼り付け、マリーゼはバックヤードに向かおうとする。ついでにレードラも呼んで、変わってもらおう。そう思ったのだが、続くルピウスの言葉に、つい足を止める。


「タリアは……あれから話し合おうと、何度も幽閉された部屋に通った。だが、聞く耳を持たない。髪を掻き毟り、暴れ狂って呪詛を吐き続けている。マリーゼへの、憎しみの言葉を――」

「……」

「私の声など、届いていないようだった。恨み言を吐けば吐くほど醜くなって、あれはもう、元の姿に戻るかどうか……いや戻ったとしても、私が以前と同じように彼女を愛せるのか分からないんだ。

そして昨日、彼女がああなってから初めて見えた目が……どこもかしこも醜かったタリアの目の色が……そこだけが、宝石のように青く煌めいて――あれは、マリーゼの瞳だった!」


 苦悩を吐き出すように頭を抱えるルピウス。聞いていてもいなくても構わない…と言うよりも、マリーゼと同じ姿のレードラを前にして懺悔したくなったようだ。


 マリーゼの心は、静かに凪いでいた。


 彼との再会に怯え、レオンとレードラが相手をしている間もバックヤードで震えていたのが馬鹿らしくなるほど、ルピウスを前にしても何も感じない。

 恐怖も失望も怒りも悲しみも……一片の憎しみすらなかった。


 ただ、遠い親戚の幼馴染みが不幸に遭ったのを、哀れに思うだけ。マリーゼにとってルピウスとは、最早過去なのだった。


「なあ…タリアはマリーゼから、瞳を奪ったのか? 悪魔の所業を行ったのは、本当はマリーゼではなくタリアだったのか? 私だって最初は、マリーゼに酷い事をされていると訴えられた時は信じ難かった。あんな美しい瞳の持ち主が、そんな事をするはずがないと。

だが、マリーゼがその美しさと婚約者の地位を驕り、みすぼらしいタリアが愛されるわけがないと、何度も詰られていると言われている内に……」


 ルピウスは洗脳されていたようだった。だがそれも、マリーゼに確認していれば済んだ話だ。信じないと言いつつもルピウスはタリアをそばに置き続け、彼女の言う事だけに耳を傾けた。騙されたと言うのは簡単だが、最初からルピウスはタリアに惹かれていたのだ。

 そしてマリーゼもまた、ルピウスを信じ過ぎた。タリアへの嫉妬を押さえ込み、いつかは分かってくれるはずだと何の手も打たなかった。

 お互いが行き違い、二人の信頼を永遠に失わせてしまった。


「マリーゼに会いたい……」


 項垂れたルピウスが疲れ切ったように声を漏らした。マリーゼはそれを、他人として見下ろしている。


「この間みたいに、呪いを解けと迫りたいんじゃない。会って、今度こそ話を聞きたい……。あの時、彼女は泣いていたんだ。私はそこで、真偽を確かめなくてはならなかった。

だがタリアを救ってやれた……違う、彼女と一緒になれると浮かれるあまり、何も見ようとしていなかった。もし……冤罪で陥れてしまったのなら、私は全力で謝って、生涯を彼女への償いのために捧げたい」


「マリーゼは死にました」


 ルピウスの独白を、マリーゼは容赦なく斬り捨てた。自分でもこんな声が出るのかと驚くほど、冷たい響きだった。ルピウスが頭を上げてマリーゼを見つめる。


「それは……本当、なのか」

「馬車が渓谷から落ちて……御者と共に遺体になっているのが発見されました。谷底に墓もあります」


 半分嘘だった。墓は御者一人のものだ。だがマリーゼの中では、クラウン王国王太子の婚約者としての彼女は死んでいた。


「もう、謝る事もできないのか…? 私は、彼女に何をしてやれるんだ」

「ルピウス殿下、貴方のすべき事は決まっています。身を捧げるべきは国、そして愛すべきはタリア嬢です」

「……私が、マリーゼを殺したも同然なのにか? タリアがそれを唆したのにか?」

「だからこそ、背負うのです。失ったものは二度と取り戻せません。罪を背負って、一から建て直すのです。それが殿下のできる、唯一の償いではないでしょうか」


 もうルピウスの事など何とも思っていないマリーゼだったが、故郷はそうであっては困る。彼自身が真相に辿り着き、心から反省した後は、元の真面目な王子としてやり直して欲しいのだ。その隣にいるのが、自分ではなくても――

 ルピウスは力なく苦笑した。


「厳しいな……本当に、マリーゼ自身に言われているようだ。彼女の事は、先祖のマサラ王妃に生き写しなだけあって、まるで若返った祖母と一緒にいるような気分だった。年下だがしっかりしていて、隙がなくて……恋愛対象には見られなかった。ただ唯一あの青い瞳だけは、いつも見ていたいほど惹き付けられていたよ」

「そうですか」

「私はこれで帰ろうと思う。タリアの処遇について結論を出さなくては……。その前に、マリーゼの墓を見たい。連れて行ってくれないか?」

「承りました。準備をして参りますので、少々お待ちを」


 谷底に降りるなら、レードラと入れ替わらなければならない。単に降りるのではなく、あのドラゴンの姿でないとルピウスに怪しまれるからだ。今はまだ、バックヤードにいるだろうか……とマリーゼが思い巡らせていると。



「そう言えば、レオンの事なんだが」


 ルピウスが何気なく口にした言葉。

 単なる世間話のつもりだったのだろうが、今のマリーゼにはタリアより何より、激しく動揺させる事だった。


「はい……?」

「この間ここへ来た時、店長と結婚したいと言っていただろう。店長の方は、どう思っているのか気になって」

「そ、そうですね」


 声が震えていないだろうか。


「だってそうだろう、貴女は帝国の黎明期から国を護ってきた、伝説級の存在だ。人間の女のように恋愛対象にするものじゃない。だが……レオンを見る事で、私も己を顧みる事ができた」

「……どう言う事です?」

「本性を隠し、美しい女性の姿でもって破滅させるタリア……あの女は魔女だった。騙されて夢中になる私は、傍から見ればさぞかし滑稽だったのだろうな」


 ルピウスの言い方に、ムッとするマリーゼ。彼がタリアに騙されたのはその通りなのだが、レオンを見て客観的に気付いたと言うのは失礼ではないのか。


「それは…私がオーナーにとって、男を騙す魔女だと仰りたいのですか」

「いや、気を悪くしたのなら済まない。貴女は何も悪い事をしていない。最初からおかしいのはあいつだ。思えばマサラ王妃の肖像画を見た時、そっくりだと言っていたのは、マリーゼではなく貴女の事だったのだな。

あいつは俺と同じく、国を継ぐ役目を負っているにも関わらず、正式に婚約者も決めずに、ドラゴンである貴女を追い回している。この間もわざわざ選抜会まで開いておいて、候補者たちに婉曲に断りを入れたそうじゃないか。

我が友人の奇行を見て、つくづく思い知ったよ……私は愛に狂わされて、正気を失っていたのだと」


 自分の愚かさを表すのにレオンを引き合いに出すルピウスに、マリーゼはだんだん腹の奥底が熱くなってきた。留学時代、この二人はとても仲が良さそうに見えた。特にルピウスの方はレオンを尊敬するような口振りだったのだが、もしも今のように心の中では見下していたのだとしたら――


「……ないで」

「? すまない、今何と…」

「一緒にしないでっ!!」


 マリーゼは爆発した。タリアに誑かされ、冤罪を着せられて。婚約破棄の上に国外追放された時よりも、ずっとずっと。目の前の男に、腹が立って仕方がない。その理由が何なのかも分からない。


「貴方にレオン様の何が分かるの…? 不毛な恋だと、叶わぬ夢と知りつつも突破口を探して、どれだけ苦心してきたのかも知らないで……!

レオン様は、すべて分かった上で愛を貫いているんです。それでもあの御方は優しいから……女性が傷付く事を、何より恐れています。愛せない事、その手を取れない事を決して相手のせいにはしない。

貴方はタリア嬢と結ばれるために、何か努力をしたのですか? 誰かに相談したのですか? 想像と違ったら、今度は魔女呼ばわりですか? 貴方はただ自分の我儘で、目障りな人間を排除しただけ。レオン様とは違う」


「て……店長?」


 一息でぶちまけて、はあはあと荒い息を吐くマリーゼ。かつてルピウスの前で、こんなにも感情を露わにした事はない。そのせいかレードラのふりとも言えなくなってきたが、マリーゼ本人だともバレなかったようだ。


「だ…だがタリアは私に頑張らなくてもいいと言った。ありのままの貴方が素敵だと……。悩み事でも何でも話してくれたら嬉しいなどと言われたら、誰だって舞い上がってしまうだろう。

あの時は、清らかで優しい聖女にしか見えなかったのに……腹にあんな醜い化け物を抱えているなんて、見抜けるはずがない。レオンだってきっと…」


 なおも自分たちを同列に並べようとするルピウスに、呆れてしまう。タリアの甘言はマリーゼからすれば『悪魔の囁き』なのだが、彼の立場を考えれば、確かに厳しい王子教育の中で一時の癒しになったのは間違いない。自分ではルピウスを支えられなかったので、それはもう仕方ないと割り切っている。


 だがレオンも同じかと聞かれれば、マリーゼは全力で否定してみせる。


「あの人は、間違えない。例え本性が恐ろしい化け物だったとしても、それが愛する人であれば受け入れるし、周りが全員同じ顔をしていたとしても、その中からたった一人を見つけ出すのがレオン様なんです。

私はそんなあの人が……レオン様が――


好き」


 当たり前のように、口から滑り出た。

 完全にレードラでいる事を忘れていたし、そのつもりもなかった。言ってから、自分で驚いたぐらいだ。


「私は、レオン様の事が好き…」

「……店長?」

「レオン様を、愛してるの……っ」


 確認するように何度も呟く内に、震えるほどの喜びと、ナイフのように刺す痛み。


(あ、何だ……そうだったんだ)


 今更、自分の本心に気付いてしまった。レオンとレードラ、出会った時から完成していた二人の関係。割り込む事で壊してしまうのが怖かったから、気付かないふりをしていた。


(好き…レオン様が、好き…っ)


 レオンをバカにする声が、差す指が、今度はマリーゼに向けられている。この恋は、不毛なのだと。

 だが、それでも止められなかった。自覚した瞬間に溢れ出した想いが涙となって――


 ぽろり、と黄金の瞳から零れ落ちる。


 ルピウスはその光景に、見覚えがあった。無意識に手が伸び、眼帯に触れる。咄嗟にマリーゼは片目を押さえて隠した。


「…あっ」

「君はやはり……マリー」

「おいルピウス、てめえ歯ぁ食い縛れ!!」


 バックヤードからレオンが飛び出してきたかと思うと、ルピウスを殴り飛ばした。

 マリーゼは外れかけた眼帯を慌てて付け直す。


「ぐっ、レオン…」

「レードラ、平気か? こいつに何かされたのか?」

「違うの…違うんです……」


 赤くなった目を見咎められて、マリーゼはかぶりを振る。目元どころか、今はレオンの顔を見ただけで真っ赤になってしまう。そこへヨロヨロ立ち上がったルピウスが、口元の血を拭いながら近付いてきたので、レオンがマリーゼを背に庇う。


「レオン……その店長は、マリーゼなんだろう?」

「はあ? 何言ってんだ、この間見たのを忘れたのかよ。彼女は渓谷の女神レッドドラゴン…」

「私はマリーゼの幼馴染みなんだ。彼女を見間違うわけがない」


 ふはっと笑い飛ばしたレオンに、ルピウスは苛立ってまなじりをきつくした。だがそれに構わず、レオンが肩に手をかけ抱き寄せたので、こんな時にマリーゼの胸はときめいてしまう。


「レオン!」

「お前の目は節穴か? それとも一目惚れでもしたのかよ。こいつは俺の女だ。

愛してるよ、レードラ」


 それは、いつか見た幻。夢の中の甘い光景。

 レオンの唇が、マリーゼの眼帯に落とされる。


 だがそこから紡ぎ出された名前に――


 ピカッと一瞬、辺りが光った。


「…っ!!」

「どっ、どうしたレードラ!?」


 ボロッ、と大粒の涙が零れる。心臓が抉られたように痛い。体がバラバラになりそうだ。これは演技で、誤魔化すためにしていると分かっているのに、感情が言う事を聞いてくれない。


 ガラガラガラ…ドオ――ン!!


「その名前で、呼ばないで……っ!」

「え…? おいレードラ、待っ」

「マリーゼ!!」


 突如降り出した大雨の中、店を飛び出す彼女を追いかけようとして、男たちは互いを先に行かせまいと牽制する。その間を、こそこそと赤い影がすり抜けていった。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「ふ…ううっ、ひっぐ! グスグスッ」


 龍山泊のテラスから少し離れた場所にある崖の小さな出っ張りに座り、マリーゼはずぶ濡れになるのも構わずに嗚咽を漏らしていた。風魔法を使わなくてもシーフ以上に軽やかに登れる『天使の靴』は、魔界の超激レアアイテムだけあって滑りやすい岩壁を物ともしない。


(私、何やってるんだろ……。ルピウス殿下に会ったらすぐレードラ様に代われって言われていたのに……せっかくレオン様がフォローして下さったのも台無しにして)


 止まらない雨と涙を拭いながら、マリーゼは膝を抱える。つい先日まで、マリーゼはレードラの影武者を務め上げていた。もう何度、レオンから「レードラ」と呼ばれただろう。なのに本当の気持ちに気付いた途端、それが悲しくて仕方がなくなったのだ。


「またお主は、こんな危険な場所に一人で…仕方のないヤツじゃ」


 そこへレードラが、壁伝いに歩いてくる。日本…いや地球ならニンジャと呼ばれていただろう。叩き付けるような激しい雨の中にも関わらず、レードラの声はよく通って聞こえた。


「どうした、お主を泣かしたのはルピウスか? レオンか?」

「どちらでもありません。ただ……

どうして私はレードラ様ではないんだろうって」


 哲学的な物言いになってしまったのか、レードラが首を傾げる。


「何じゃお主、神にでもなりたくなったのか?」

「そんなんじゃないです……

私、レオン様が好きです。

好きに、なってしまったんです」

「そうか」


 横向きになったまま、レードラはマリーゼのそばに腰を下ろした。


「辛いか?」

「はい…っ、だけどレードラ様の事を諦めて欲しいわけではなくて……。何だろう、上手く言えなくて、頭の中がグチャグチャなんです…」


 すん、と鼻を啜り上げる。レオンはマリーゼに傷付いて欲しくないと言った。けれど彼のその優しさが、今は彼女を傷付ける。いつだったかレオンの言った通り、報われない愛は残酷だった。


「そう言う時はな、一度グチャグチャを吹っ飛ばすんじゃよ」

「レードラ様…?」

「これ言うと何故か梁山泊の連中が笑うんじゃが……頭を空っぽにした方が、案外良い考えが浮かんだりするもんじゃ」

「え……わわっ!」


 レードラの体が、眩しい光に包まれる。



 その頃。


「だから、あれはレードラなんだって! マリーゼの瞳は金色か?」

「その瞳は、タリアに奪われたんだ。だからあれはきっと……義眼か何かだろう。それよりいつからマリーゼの事を呼び捨てに?」

「今更だな……ん、雨が止んできたぞ」


 谷底の霧の中を、テラスから目を凝らして探っていた二人は、急に天気が回復したと思った直後、物凄いスピードで下から突き上げてきた赤い物体に腰を抜かした。


「うわぁっ!?」

「レードラ!?」


 大きく翼を広げ、巨大なレッドドラゴンが渓谷上空を飛んでいく。呆気に取られて見上げる彼等には、その角にしがみ付いた一人の令嬢の姿は見えなかった。


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