第2話
ルピウスが龍山泊の魔法陣から隣国へ飛ばされて数分後。
「もう出て来ても平気じゃぞ」
レードラの声に、カウンター奥のバックヤードからおずおずと顔を覗かせたのは。
「あ、あの……ご迷惑おかけしました」
姿形、何から何までレードラと瓜二つの少女。
ルピウスの元婚約者、追放された悪役令嬢ことマリーゼ=オンブルその人であった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今から一年前の事。
古書喫茶の定休日、レードラは渓谷の間を本来のドラゴンの姿になって悠々と空中散歩していた。深過ぎて途中霧まで立ち込め、谷底が見えないこの渓谷を泳ぐように移動するドラゴンを、『霧の人魚』『渓谷の女神』と称したのは古代の人々だったか。彼女を捕えようと言う酔狂な連中による罠の一つとして、蔦で作られた網が霧のすぐ下辺りに張り巡らされているが、それもほとんどが年月と共に枯れ落ちている。
(運が良ければ、ここに転落した者が引っ掛かる事もあるのじゃが……ん?)
霧の中に潜ったレードラは、重みで今にも切れそうになっている網に、傾いた馬車が絡まっているのを発見した。
(ほほぉ、どうやら神はこやつらを見放さなかったようじゃの)
もっとも、ここドラコニア帝国における神はレードラと言う事になるのだが。これも何かの縁と、尻尾で馬車を掴んで回収すると、弾みで蔦製の網がぶちぶち切れてしまった。
(今まで御役目、ご苦労じゃったの)
かつては自分を捕えるために作られた罠の成れの果てに労いの言葉を送ると、レードラは龍山泊のテラス目指して大きく羽を広げた。
「わっ、何だ!? こりゃひでぇ…」
何が楽しいのかしょっちゅう冷やかしに来る、古書喫茶『龍山泊』オーナーことレオンハルト=フォン=ドラコニア第一皇子が、レードラの持ち帰った馬車を見て目を丸くする。
この皇子はもっと他にすべき事があるだろうに、暇さえあれば(暇がなくても)帝国の守護神であるレードラを口説きにくるのだ。国のためにも世継ぎを残さねばならないのに、実に酔狂かつ不毛な男だ。
「こいつはもうダメだな。残るは……女か」
馬車の中にいたのは、二人の人間。一方は御者らしく、既に事切れていた。女の方も重傷で虫の息だったが、かろうじて生きている。
「レードラ、治せるか?」
「瀕死であっても、命さえ尽きていなければ可能じゃ。任せろ」
人間形態に戻ったレードラが神聖魔法をかけると、女性の傷はみるみる塞がっていく。その様子をしばらく見ていたレオンは、異変に気付いて息を飲んだ。
「お、おい! これって……」
「ふむ……神聖魔法はどんな傷でも治癒できるが、逆に言えば『傷』でなければ元には戻せないと言う事じゃな。最初から無い物は戻せぬ……ん? そうじゃ!」
「えっ、何か言ったかレー……うわぁあああぁぁっ!!」
レオンの絶叫が渓谷に木霊してから、一刻後――
古書喫茶にある席の一つ、ベッド付きの個室で、女は目を覚ました。最初は数回瞬きをし、ゆっくりと部屋の中を見渡して……がばりと起き上がり片目を押さえる。
「ここは…? どうして私、目が見えるの。だってあの時……」
「よっ、起きたか」
声をかけられてドアの方を見ると、そこには自分と歳の変わらない貴公子と……
「わた…し……?」
生き写しのように自分とそっくりな少女がいた。
角を思わせる金銀の髪飾りと、スカートからはみ出しているふざけた付け尻尾を除けば、赤い髪や顔立ち、背丈に至るまで寸分違わない。
そして左側は大きな眼帯に覆われているが、右の金色に輝く瞳は彼女がただの人間ではない事を窺わせる。
「初めまして、じゃな。儂はドラコニア帝国が守護神、レードラじゃ。この形態では古書喫茶『龍山泊』を営んでおる。
渓谷に張られた蔦に引っ掛かっていたお主の馬車を拾ったが、こうして我等の姿形が似通っているのも何かの縁。お主の失った物は、我が体の一部により補わせてもらったぞ」
「ドラコニア帝国の…守護神……? では、貴女の本性は…レッドドラゴン!?」
王妃教育の一環として隣国ドラコニア帝国の歴史についても学んでいた彼女は、人間にしか見えないレードラを呆然と見つめる。その視線が眼帯に移った時、何かに気付いて部屋に設置された鏡を慌てて覗き込んだ。
そこには――もう一人のレードラがいた。
眼帯こそないものの、爛々と光る黄金の眼。それにより、レードラが自分に何をしたのかを悟ってしまった。
即座に、レードラの前に膝を付く。
「私のような
「ほんとだよ! 言葉はなくても感謝しろよ!?」
彼女の言葉を遮り、レオンが不機嫌そうな声を上げた。
「ドラコニア帝国守護神様直々の賜り物をさぁ……あーっもう! それを喉から手が出るほど欲しがって、狙ってくる奴等がどれだけいると思ってんだ、通りすがりの怪我人にそんなあっさりと!」
「も…申し訳ありません!」
レオンの剣幕にすっかり萎縮してしまい、頭を下げたところ、レードラの尻尾が頭上でヒュンと唸り、レオンにビンタした。
「やかましい! 儂はこの娘を気に入ったから友好の証にくれてやったのじゃ。お主もそう固くなるでない。儂が勝手にした事じゃが、迷惑でなければ受け取って欲しい」
尻尾を収めず、そのまま彼女の頭をヒョコヒョコ撫でてやると、レードラと同じ瞳が潤んだ。見た目こそ瓜二つだが、中身は全然別人だ。
「迷惑なんて、そんな事あるはずもございません。本当に……ありがとうございました。
申し遅れましたが私、クラウン王国から参りました、マリーゼと申します。謂れなき罪を着せられ、帝国に送られてきましたが、元はオンブル公爵家の者でございます」
淑女の礼を取るマリーゼに、レオンは溜息を吐いた。
「……知ってる」
「えっ」
「俺がクラウン王国に留学した時、ルピウスに付き添ってた婚約者だろ。瞳以外はレードラにすっげー似てたから、よく覚えてる」
言われてレオンの顔を窺い見たマリーゼは、彼の正体に気付いて驚愕した。
「あ……貴方はレオンハルト皇子!? お、お久しぶりでございます。申し訳ございません、今まで思い出せず」
「ふはははは、じゃろうな! 帝国の第一皇子が小汚い格好でこんな洞窟みたいな場所にいるなんて、誰が思うか」
「うるせーよ! …それで、何があったのか教えてくれないか? 謂れなき罪とか、その目の事もな」
二人に促され、戸惑いながらもマリーゼは頷いた。
『ずっと気に入らなかったのよね。私にメロメロの王子様も、唯一好きだって言ってたから……だけどそれ、もう要らないでしょ? 私たちの結婚式なんて辛い光景、どうせ見たくもないだろうしね。だから……』
伸ばされた指が、悪意が眼前に迫ってくる。それが、最後に見た記憶。
その後、馬車が道を外れ宙に投げ出されるまで、暗黒の中ずっと続いた激痛を思い出し、ぞっとして自身を抱きしめていると、レオンは嫌悪も露わに吐き捨てた。
「胸糞悪いな……ルピウスも、そこまで愚かだとは思わなかったぜ」
「ふむ……人体の中でも最も魔力が宿る部位……そこは言わば魔力の結晶じゃ。その女が奪い取ったのは、本当はお主の魔力なのじゃろうな」
レードラの分析に、マリーゼがきょとんとする。魔力を奪った? それではまるで……魔女ではないか。
レオンも彼女の推測に同意する。
「俺のいた世界にも、そんな概念があったぜ。欲しい所を食う事によって、そいつの能力を自分の物にできるんだ。魔法と言うか、呪術の類だとは思うが」
それを聞いて、思わずマリーゼも口を押さえた。奪った物をタリアがどうしたのかは想像したくもないが、ともあれ彼女がマリーゼを追い落としてルピウスの婚約者に納まったのは確かだ。
クラウン王国の行く末が心配だが、今はとりあえず、自身の身の振り方を考えなくてはならない。
「それで、これからどうする? あの魔女に復讐でもしに行くか?」
「いいえ……私はもう、祖国を追放された身です。今後はクラウン王国の貴族としてではなく、ただのマリーゼとして生きていく力を身に付けなければなりません。
お二人のご迷惑でなければ……どうか、どうか私をここに置いて下さいませんか。雑用でも何でも、言い付けて頂ければ何でもします!!」
深く頭を下げて懇願するマリーゼ。
レードラがちらりと窺うと、レオンは腕を組んで唸った。
「…そりゃ、あんたはレードラのお気に入りになったんだから、邪険にはしないさ。本来なら客として正式に迎え入れてもいいんだが、それは避けたいんだろう?」
「はい。ルピウス殿下には……いいえ私自身が、見切りを付けておきたいのです」
マリーゼは傷付いていた。タリアによる体の傷よりも、ルピウスの冷たい眼差しと態度に、深く。いずれは真実も明らかになるだろうが、今はただ距離を置き、新たな人生を送りながら静かに心を癒したかった。
「うむうむ、お主がそうしたいのならば好きにするといい。…じゃがな、嫁入り前の娘が『何でもする』などと、軽々しく口にするでない。何せ男と言う生き物は、隙あらばエロい事に持ち込もうとするからの」
「しねえよ、俺が欲情するのはレードラちゃんだけだよ!」
「馬鹿ッ垂れがぁ!! お主のは余計ヤバいじゃろうが!!」
「ふ……ふふっ! あはは…っ」
ホッとした気の緩みで、二人のバカなやり取りにマリーゼはつい噴き出してしまった。久しぶりに笑って、涙まで出てきた。
クラウン王国の悪役令嬢は、国外に追放されて死んだ。
だが、マリーゼの人生はまだまだ続くのだ。
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