第28話

 そういうわけで、水に濡れてしまった私は公爵家のメイドたちの手を借りてお湯を浴び、使い物にならなくなったワンピースの代わりに、ハイデン公爵夫人が若い頃にお召しになっていたというドレスをお借りしている次第なのだ。


 ハイデン公爵夫人の若い頃に流行ったドレスというだけあって、普段私が身に纏っているものとは勝手が違う。そのため、リアを手間取らせてしまっていた。


 姿見越しにリアが奮闘する様を見守ることしか出来ないのがもどかしいが、少しでも彼女が作業しやすいように、腕を上げたり息を止めたりと彼女の指示には大人しく従った。


 流石はリアというべきか、しばらくすればコツを掴んだようで、次第に形になってきた。


 葡萄色の生地に、ドレープの入った大ぶりの赤いリボンを腰に巻き付けるデザインで、決して古臭さを感じさせない、品の良い華やかさのあるドレスだった。もしもこのまま夜会に出て行けば、良い意味で注目を集めることは間違いなだろう。


「素敵なドレスですね。公爵夫人がお召しになっていただけあって、生地も特別素晴らしいものですし……」


 腰のリボンを調節しながら、リアは感心したように述べた。


 幼いころから私の衣装選びに付き合ってくれているおかげか、彼女の物を見る目は肥えているのだ。そのリアのお眼鏡にかなったということは、やはり相当いい品で間違いない。


 公爵夫人の遺品とも呼べる素晴らしい品を貸してくださるなんて、ハイデン公爵は相当私を好意的に思ってくださっているのかもしれない。クラウスとは契約で結ばれているに過ぎないことを考えると、その親切に申し訳なさを覚えてしまう。


「このドレスと一緒にいくつか髪飾りもお借りしたので、結い上げてみましょうか。このまま公爵様とクラウス様と晩餐を召し上がられるのでしょう?」


 リアはどこか浮足立ったように姿見越しに私に笑いかける。基本的に彼女は、私を飾り立てるときは機嫌がいい。昔はよく、彼女のお人形代わりにいろいろと着替えさせられたものだ。


「そうね、お願いするわ」


 お湯を借り、着替えている間に随分と遅くなってしまったこともあって、今夜は公爵邸に泊まることになっていた。もちろん泊まるのは客間であるし、公爵様の目もあるので何の問題も無いのだが、お兄様が知ったらきっとお怒りになるだろう。


 ……いえ、もしかしたらもう、私のことには構わないかもしれないわ。


 周りから呆れられるほどに私を溺愛していたお兄様が、突然全く構わなくなるということは考えにくいが、私がそうしたように、なるべく距離を置こうと考え始めても不思議はなかった。


 私はクラウスと、お兄様はミシェル嬢と、進むべき道に進むときが来たのだ。それを思えばやっぱり朝のように胸が重苦しくなるが、ここが公爵家であるという緊張感のせいか、涙が零れることはなかった。


「お嬢様の瞳に合わせたアメジストの髪飾りにしましょうか。それとも、お腰のリボンに合わせたルビーの髪飾りの方がいいですか?」


 今までの私ならば、問答無用でルビーを選んでいただろう。大好きな、お兄様の瞳の色だから。


 でも、変わるときが来たのだ。ささやかな選択から、意識を変えていかなければ、私はいつまでもお兄様離れできないだろう。


「……アメジストの方がいいわ。なるべく大人っぽく見えるように綺麗に結い上げて」


 リアは私がルビーを選ばなかったことが意外だったのか、数秒間だけ鏡越しに私を見ていたが、私を見守るような大人びた笑みを見せて、小さく頷いた。


「お任せ下さい。公爵様とクラウス様をあっと言わせて見せますよ」


 リアがブラシで髪を梳いてくれる感触に弱々しく微笑みながら、そっと目を閉じる。瞼を閉じて一番に思い浮かぶ人がお兄様ではなくなるその日まで、私はこの苦しみと戦い続けなければならないのだろう。




 リアの手によって完璧に飾り付けられた私は、晩餐のために私をエスコートしてくれるらしいクラウスの訪れを待ちながら、リアとレニーに今日の出来事を聞かせていた。


「それでね、釣竿を引いたらお魚が釣れたのよ。私、生きているお魚は初めて見たわ」


 私がクラウスと共に釣りをしている間は、リアもレニーも屋敷の中で休憩していたので、私の釣りの腕前を見せられなかったのが残念だ。二人とも、午前とは打って変わって、酷く穏やかな表情で私の話に耳を傾けてくれている。


「そのあと、クラウスったら魚を触った手で私の頬をつねったのよ。今はもう魚に素手で触れるけれど、それにしたって顔に触れることはないと思わない?」


 いつからか釣りの話からクラウスの話に移ってしまったが、それでも二人は変わらずに聞いてくれていた。むしろ、釣りの話の時よりも笑みが深くなっている気がする。レニーに至ってはにやにやしていると言ってもいい。


「……レニー、言いたいことがあるなら言って」


 軽く腕を組んでレニーを咎めれば、彼は微笑ましいものを見たとでも言わんばかりにくすくすと笑みを零した。


「いえ、何だか、惚気を聞かされているみたいだな、と思いまして」


「の、惚気!?」


 予想外のレニーの言葉に、思わず声を上げてしまう。そんなつもりで話していたわけではないし、クラウスとは惚気るような甘い関係でもないのだ。


「無邪気にはしゃぐお嬢様がよっぽど可愛らしかったのでしょう。それで思わず触れたくなったというだけでしょうから、許して差し上げてください」


 まるで恋愛上級者のように余裕ぶるレニーを前に、何だか仕返しをしたい気持ちになってくる。


「ふうん? レニーも、マリーには触れたくなるの?」


「そりゃあもちろん、あの儚げな笑みを見たらそっと抱き寄せたくもなる――」


 そこまで言いかけて、レニーははっとしたように口を噤む。珍しく灰色の瞳が睨むように私を見た。


「……お戯れを、お嬢様。別に俺とマリー姉さんはそういう関係ではありませんから」


 同じバート一族であるレニーとマリーの血縁関係がどのようなものかははっきりわからないのだが、少なくともこういう話をしても抵抗がない程度には、遠い親戚であることは確かだった。


 マリーと言えば、お兄様のこのところのお気に入りのメイドだ。彼女ばかりを吸血の相手に指名して、マリーを弱らせていたことは記憶に新しい。それでもお兄様に恋をしているらしいマリーは、お兄様を責めないように、と私に釘を刺したのだっけ。


 レニーがマリーに寄せる想いは、私も何となく気づいていたが、彼はマリーとお兄様のことをどう思っているのだろう。彼からしてみれば、お兄様はいわば恋敵のはずだ。


 お兄様にミシェル嬢という女性の影がちらつく今、私らしくもなく話題を掘り下げたくなってしまった。


「……レニーは、お兄様とマリーを見ても心は痛まないの?」


 恐る恐る尋ねれば、レニーは噴き出すように笑った。


「まさか。マリー姉さんの想いはともかくとして、マリー姉さんがノア様に相手にされていないことは火を見るよりも明らかですからね。俺にも十分勝機があると考えれば、それほど心は痛みません」


 意外に計算高いようだ。レニーはもっと純朴な性格だと思っていたのだが、認識を改めた方がいいかもしれない。


「それに……ノア様に血を吸われて落ちない女性がいるとも思えませんしね。むしろマリー姉さんの審美眼はまともなのだと安心しているくらいです」


 それは随分な余裕だ。私も見習いたいくらいである。何か参考になるかもしれないと思って問いかけたのに、自分の心のままならなさを思い知らされただけだった。


「……レニーは心が広いのね。少しも嫉妬しないの?」


 溜息交じりの私の問いに、一瞬だけレニーは灰色の瞳を揺らがせた。


「それは……もちろん、マリー姉さんがノア様に吸血されているときのことを思えば、嫉妬くらい覚えますが……俺もお嬢様に血を差し上げることがあることですし、お互い様かな、と」


「お互い様?」

 

「ノア様からしてみれば、吸血のためとはいえフィーネ様に触れられる俺のことは、殺したいくらいに憎いでしょうからね。そういう意味の、お互い様です」


「レニー」


 お兄様の話題が相応しくないと判断したのか、ここまで黙って話を聞いていたリアがレニーを諫めた。だが、珍しく彼はリアに反発するように話を続ける。


「……俺、お嬢様がクラウス様と仲睦まじく過ごせたって話を聞いて、安心しました。それに嘘はないですし、この先もそのように仲良くなさって幸せになって頂きたいと心から願っていますが……どうしても、ノア様のことがちらついてしまって……」


 まるでマリーのようなことを言う。決して私を非難するつもりなどないのだろうが、何よりも私の心を抉る言葉だった。


「ふふ……私に甘い言葉を囁くお兄様を諫めていたのはレニーなのに、おかしなことを言うのね」


「対外的には怪しまれるわけにいきませんからね」


「屋敷の中ではどんな関係になろうが構わないとでも?」


 思わず皮肉気な笑みを浮かべてレニーを見る。きっと今の私は、見るに堪えられないほど醜い顔をしているだろう。


 すぐに否定の言葉が返ってくると思っていたのに、続くレニーの言葉は意外なものだった。

 

「……俺は別に、いいと思いますよ。本当に欲しいものの前では、倫理観も理性も捨てたって」


「っ……」


「レニー!!」


 リアが声を荒げてレニーを制止する。そのままレニーの腕を引き、彼に無理やり頭を下げさせながら、自身も腰を折った。


「っ……出過ぎた真似をいたしました。私ともども、処分はいかようにでも」


 珍しく堅い態度で、リアは謝罪をする。確かに、過激な意見ではあったが、それで彼らを罰する気など少しも無かった。人それぞれ信条というものはあるものだ。


「顔を上げて、二人とも。私はちっとも気にしていないわ」


「……いえ、流石に俺も言いすぎました。お嬢様にとって、さぞかしおぞましい意見だったかと思います」


 レニーはきまり悪そうに弁明をしたが、私はくすくすと笑みを返した。その笑い声が意外だったのか、リアとレニーのそっくりな灰色の瞳が大きく揺れる。


「ふふ、そんなことないわ。私だって考えたことがないと言えば、嘘になるもの」


 ここまではっきりと二人の前で告げるのは初めてだった。示し合わされたように見開かれる二人の目からそっと視線を外しながら、今日は身につけなかったルビーの髪飾りを弄ぶ。


「私が何より恐れているのはね、お兄様なら私のこの想いすら受け入れてしまうだろうということよ。私はどう言われたって構わないけれど、お兄様が世間から後ろ指をさされたり、悲しい思いをするのは許せないの。お兄様にはもう二度と、痛い思いも苦しい思いもしてほしくないから」


 これだけは昔から揺らぐことの無い決意だった。晴れやかな笑みを浮かべて、リアとレニーを見つめる。


「そのためならば私、何だってできるわ。命だろうとこの身だろうと、何だって賭けられるの」


 クラウスとの婚約は、まさに私の決意を体現したものと言ってもいい。お兄様を守るためならば、この命も、純潔すらも惜しくない。


 これもお兄様に負けず劣らず重い愛だと、誰より私自身が分かっていた。クラウスが聞けば鼻で笑いそうな話だ。


 手に収められた深紅のルビーは、失われたお兄様の右目の色を思い起こさせた。私の我儘のせいで、痛みと共に失われてしまったあの色を、取り返せるものなら取り返したい。


 もっとも、お兄様はきっと、変色したあの右目すらも私への愛の証なのだと誇らし気に笑うのだろう。やっぱり、お兄様が私に向ける愛は異常だ。

 

「……やっぱり、お嬢様はノア様の妹ですね。愛の重さがよく似ていらっしゃる」


 レニーは呆れたような、どこか打ちのめされたような笑みを見せた。決して悪意から来るものではないと分かったので、私も柔らかく微笑み返す。


「ふふ、同意見よ。見た目は全く似ていないけれど、そこだけはお兄様に通じる何かを感じるの」


 笑い合う私とレニーとは裏腹に、リアはどこか神妙な面持ちで私たちを見守っていた。この三人の中では姉のような立場にあるリアだから、思うところは多々あるのかもしれない。


「リア、そんなに悩まなくてもいいのよ」


「……分かっております。私たちが悩んだところでどうすることもできない問題なのでしょう」


 やがてリアは伏せていた視線をゆっくりと上げると、灰色の瞳で射抜くように私を見つめた。


「ただ、これだけは覚えていてくださいませ。私は、お嬢様の味方であり、非常食です。お嬢様がどんな道をお選びになろうとも、この命が尽きるまでお供いたします」


「リア……」


 まるで騎士のような忠誠心だ。バート一族はもともとクロウ伯爵家の者に忠誠が厚いと言うが、いざ言葉にされると何だか恥ずかしくなってしまう。


「俺だって、そうですよ、お嬢様。俺は、まあ……非常食くらいにしかなれませんが、それでもいないよりマシでしょう」


「ふふ、二人が味方だと思うと心強いわ。ありがとう、リア、レニー」


 心から二人に笑いかければ、彼らもまた、それに応えるように頬を緩めた。楽しいだけの会話ではなかったが、図らずも彼らとの絆の強さを再認識させられた気がする。


 その瞬間、まるでタイミングを見計らったかのように客間のドアがノックされた。恐らくクラウスが迎えに来たのだろう。早速訪問者を確認しに行くレニーの後姿を見届けて、リアに視線を向けた。


「それじゃあ、行ってくるわね。ドレスも髪もありがとう」


「……晩餐の間くらいは、何もかも忘れて楽しんでくださいませ。私はこちらでお休みの準備をして待っておりますね」


 返事の代わりに小さく頷きを返した私は、リアの言葉に励まされるようにして、客間のドアへと向かった。僅かに開かれたドアの先には、やはり予想通りの人物がいるようだ。


「お嬢様、クラウス様がお越しです」


 レニーが慎ましく礼をしながら、クラウスの訪れを告げる。公爵家の晩餐会が、今、始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る