第31話
「クラウス、大丈夫? お茶でも淹れましょうか?」
何とかクラウスを客間へ導いた私は、彼をソファーに座らせながら問いかけた。ミシェル嬢の前にいる時よりは多少顔色がよくなったように思えるが、紺碧の瞳に浮かんだ怯えの色は相変わらずだ。
「いい……ここに、いてくれ」
クラウスは私のドレスの袖を掴むようにして懇願した。このような態度を取られては私だって離れられない。
私たちは客間に案内してくれたリアが、心配そうにこちらの様子を伺っていたが、今は二人きりになったほうがいいだろう。私は小さく首を横に振って、リアに退室を促した。
クラウスにしがみ付かれるような体勢のため、ソファーに座るに座れない。手持ち無沙汰になってしまった私は、震えるような彼を落ち着かせるため、そっと彼の黒髪を撫でた。
思ったよりも柔らかい髪質のようで、触り心地がよい。普段のクラウスならば「馬鹿にするな」と一蹴しそうなところであるのに、今ばかりはおとなしく撫でられていた。怯えているのは可哀想だが、正直母性をくすぐられる姿ではあった。
「……大丈夫よ。ここには私しかいないわ」
言い聞かせるようにクラウスに話しかければ、彼は私の腰を引き寄せてお腹に顔を埋めるような体勢になってしまった。妙に気恥ずかしいが、やっぱり今のクラウスを無下に扱うことなど出来ず、私もそっと彼の背中に腕を回す。
先ほどのミシェル嬢の言葉は、衝撃の連続だった。クラウスを捕らえ、暴行していた主犯であることをあんなにもあっさりと認めるなんて不思議だが、彼女にとっては隠さなければいけないほど特別なことではないのかもしれない。それくらい、彼女は吸血鬼と人間を別なものとして考えている節があった。
吸血鬼と人間は相容れないもの。種族的な面で見ればそれは確かだけれども、どちらにも心はあるのだ。とてもじゃないが、私は人間を、ただの食料とは思えない。大抵の吸血鬼は私と同じ考えだろう。
人間を食料に過ぎないとする、ミシェル様のような過激な思想があることは知っていた。一昔前までは主流な考えであったし、今も年配の吸血鬼を中心に根強く残っている思想であることも分かっている。
だが、ミシェル様のような若者にまでその思想が残っているのは意外だった。やはり、育った環境の違いなのだろうか。
理由はどうあれ、幼いクラウスを苛んだミシェル様のことは許せそうにない。どんな手を使ってでも抗議の声を上げていくつもりだ。
「……俺のことを愚かだと思うか?」
「え?」
私にしがみ付いたまま、クラウスは静かに問いかける。
「……白銀の君はノアだと断定していたのに……真相はこんな呆気ないものだった。俺はノアへの復讐のためにお前と婚約までしたのにな……」
「……お兄様が犯人でなくて良かったとは思っているけれど、あなたを愚かだとは思わないわよ。令嬢が男装していたなんて普通考えないでしょう」
「……そうか」
クラウスを噛みしめるように呟いたかと思うと、今度は思いきり私を抱き寄せた。バランスを保ちきれず、彼の膝の上に倒れ込むような体勢になってしまう。
声を上げる間もなく、そのままぎゅっと抱きしめられた。息もできないほどに。
「……馬鹿だよな、俺は。ノアを見たときは恐怖なんて微塵も感じなかったのに、あの女を見たときにはあまりの憎悪と怯えで動けなくなっていた。あの瞬間まで、白銀の君はノアだと確信していたはずなのに……あの女と目が合った瞬間に悟ってしまったんだ。こいつが俺を苛んだ吸血鬼だと」
きつく抱きしめられているせいでクラウスの表情は窺い知れなかったが、その声はまるで泣いているようにも聞こえた。どうしてよいか分からず、私はクラウスの肩に頭を預けるようにして、彼の言葉に耳を澄ませた。
「あれだけ復讐を誓っていたのに、あの女の前では手も足も出なかった。情けないよな。殺そうと思えばあっという間に殺せるはずなのに……」
「あなたがあんな人の血で手を汚すことはないわ。人間を不当に傷つけるのは吸血鬼の世界でも掟に反することよ。ミシェル様があのまま野放しにされるとは思えないわ」
人の世を乱す吸血鬼には、厳しい罰が下されるのが通例だった。彼女も恐らく例外ではない。
そのまましばらくクラウスを抱きしめていると、ふと、客間の扉がノックもなく開かれる音がした。扉に背を向けるような形でクラウスに抱きしめられている私は来訪者が誰なのか分からなかったが、続くクラウスの言葉ですぐに正体が分かった。
「……ノア」
「……っフィーネから離れてくれますか、クラウス殿」
顔を見なくても、お兄様が心底不快そうな表情をなさっていることは分かった。弱っているクラウスを前にしてもお兄様の態度は変わらないらしい。
クラウスもクラウスで、今はお兄様に反抗する気がないのかあっさりと私の体を離した。お兄様がすかさず私の隣を陣取ると、ソファーに座るクラウスを見下ろして問いかける。
「……一つだけ聞かせていただきましょう。先ほどミシェル嬢が口にしたレオンという名に心当たりがあるのですか?」
それは私も訊きたいところではあったが、何も動揺しているクラウスに問い詰めることはないだろうに。半ば非難するような心地でお兄様を見上げるも、クラウスはやっぱり促されるままに淡々と口を開いた。
「……俺の、本当の名だ。神殿に引き取られる前から、そう呼ばれていた」
「……っ」
クラウスの答えに、お兄様は絶句しているようだった。やがて、私とクラウスを比べるように見つめると、意を決したように私の手首を取る。
「……申し訳ないですが、フィーネをあなたに嫁がせるわけにはいかなくなった。この婚約話、無かったことにしてください。ミシェル嬢の処分については、また後程お知らせしましょう」
「っお兄様!?」
お兄様にしてはあまりに横暴な言葉に、思わず抗議の意を込めて声を上げるも、彼の耳には届いていないようだった。
望んで結ばれた婚約ではないけれど、このところようやくクラウスを心を通わせ始めたと思ったのに。恋愛の甘いときめきはなくとも、友情のような温かな感情が芽生えた相手と、いきなり別れるのには抵抗があった。
「……そんな横暴が許されるとでも? フィーネとの婚約は、父上の耳にもすでに届いているんだぞ」
半ば放心状態だったクラウスが、ここにきて睨むようにお兄様を見据える。お兄様はそれを受けてもなお、表情一つ変えず、私の手を握る力を強めるだけだった。
「……だとしても、あなたにフィーネをくれてやるわけにはいかなくなった。無理に婚約を推し進めようとするならば、こちらにも考えがあります」
「何だと……?」
不穏な空気を醸し出す二人を前に、私も必死に声を上げた。
「待ってください、お兄様! 落ち着いて話をしましょう? いきなり婚約を認めないなんて言われましても、私も戸惑ってしまいます」
甘えるように強請ってみるも、今のお兄様の前では無意味だった。お兄様は真っ赤な左目で私を見下ろすばかりで、何一つ言葉を返してくださらない。
こんなことは初めてだ。私とクラウスを婚約させまいとするお兄様の意思は相当堅いらしい。
「それでは、失礼しますよ、クラウス殿。場合によってはもう顔を合わせることも無いでしょう」
お兄様は一方的な挨拶を告げると、私の手を引いて歩き出した。何とか手を振りほどこうと足掻くも、力の差には敵わない。
ここは一度引いて、お兄様の話を聞くべきなのかもしれない。このままでは話は平行線をたどるばかりだ。
ソファーから立ち上がり、今にも声を上げようとするクラウスを振り返って、私は小さく首を横に振った。アイコンタクトでどの程度通じるのか分からないが、この事態を何とかしようとする私の意思は伝わったらしい。
クラウスは一度だけ私に頷くと、今度はお兄様の後姿に向かって告げた。
「……フィーネに何かしたら許さない」
私を殺そうと目論んでいたクラウスがそんなことを言うなんて。こんな状況にもかかわらず、妙な感動を覚えてしまった。
その言葉を受けたお兄様は、どこか仄暗い瞳で自嘲気味な笑みを浮かべ、彼を半身で振り返った。
「……あなたには関係のないことだ」
その笑みは、ぞっとするほど美しかった。お兄様独特の怪しげな色気とどことなく危うい雰囲気が相まって、思わず目を奪われるほどに印象的な微笑みだったのだ。
お兄様はそれだけ告げて、今度こそ私を連れて客間を後にした。私は最後にもう一度クラウスを振り返り、訳の分からないこの状況を何とかしてみせると心に誓ったのだった。
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