第30話

 事態が大きく動いたのは、それからわずか一週間後のことだった。


 公爵家から戻ってきてからというもの、私は表面上にはいつも通りを装っていたが、内心は鬱々とした日々を送っていた。


 屋敷の中では、相変わらずだ。お兄様とすれ違っても、あの憎悪とも執着とも取れぬ眼差しで意味ありげに微笑まれるだけで、ろくな会話もできていない。


 いや、お兄様の婚約の話が上がってからは、私の方から避けていると言った方が正しいのかもしれない。婚約者を迎えようとしているお兄様と顔を合わせたところで、辛い現実を突きつけられるだけなのだから。


 一方でクラウスは、私が公爵家に泊まったあの日から、何かと私のことを気にかけてくれていた。落ち込む私の姿が余程印象に残ったらしい。


 基本的にはあの意地悪な態度であることに変わりはないのだが、ちょっとした仕草に私への思いやりが隠されていることに気づいてしまったせいか、何だかこのところ顔を合わせるとくすぐったいような気がしてしまう。


 それは、今もまさに実感していることだった。


「何を笑っているんだ?」


 今日は、この間公爵家に泊めてもらったお礼に、クラウスを伯爵家に招いているところだった。二人で小さなお茶会を楽しんだ後、こうして伯爵家の庭を散歩している次第なのだ。


「いえ、何だかくすぐったいなって思って」


「くすぐったい?」


 クラウスが訝し気に問いかけてくる。その表情をふっと笑って見上げながら、私も私で、彼との時間を楽しんでいることに気が付いた。


 そう、クラウスと過ごすのは楽しいのだ。初めは出来るだけ顔も見たくないと思っていたが、お互いの意識が少しずつ変容した結果なのか、いつからか彼と過ごす時間を心地よく思っている私がいた。


 少なくとも今は、お兄様と顔を合わせるよりもずっと楽に息が出来る。逃げているだけだと言われたらその通りだとしか言えないが、こうして私と過ごしてくれるクラウスに救いを感じているのは確かだった。

 

 でも、面と向かってありがとうと言うのは気恥ずかしい。私らしくもなくどこか悶々とした気持ちでクラウスの隣を歩いていれば、不意に、屋敷の門をくぐる一組の男女の姿が飛び込んできた。


 陽光に煌めく銀髪と、遠目でもはっきりとわかる鮮やかな赤色の瞳からして、男性の方はお兄様だと一目でわかる。だが、彼の隣に並ぶ白金の髪の女性は見慣れなかった。


「……来客か?」


 クラウスの問いに、はっとした。そうだ、お兄様は今日、街へ出掛けていたはずだ。


 ……いずれ婚約者となるミシェル嬢に、この国の王都を案内するために。


 縁談の話が上がったのは先週だと言うのに、もう顔を合わせている辺り、お兄様とミシェル嬢の婚約は殆ど決定事項なのだろうと、ますます塞ぎこんだばかりだった。


 となれば、自然と分かる。お兄様の隣にいるあのご令嬢は、噂に聞くミシェル嬢なのだろう。見ようによっては銀にも見える淡い白金の髪と、真っ赤な瞳はいかにも吸血鬼らしい美しさを保っていた。


 ただでさえ人並み外れた美貌を持っているのに、お兄様と並び立つと一層存在感を増すようだ。とても華やかな、美しい人だった。


 ……あの方が、お兄様の婚約者。


 瞬間、胸中を締め付ける仄暗い感情を嫉妬と呼ぶのだと私は知っていた。一週間経って平気な素振りをして過ごしていても、いざミシェル嬢を前にすると少しも立ち直っていないことが分かる。


 王都を見学してから、伯爵家で少し休憩をすることになったのかもしれない。もしもこのまま泊まっていく流れになったら嫌だな、なんて思いながら、彼らの前に姿を現すべきか悩んでしまう。


「フィーネ?」


 こちらの表情を窺うように見下ろしてくるクラウスを前に、はっと我に返り表情を取り繕う。お兄様のこととなるとすぐこれだからよくない。


「……どうやら、お兄様の婚約者のご令嬢がいらしたみたい。この間話したミシェル嬢よ」


「それは……大丈夫なのか?」


 彼が心配しているのは恐らく私の心情なのだろう。私は曖昧に微笑みながら、軽く俯いた。


 本来ならば今すぐにでも挨拶しに行かねばならない相手だが、私は今、クラウスの相手をしているのだ。それを大義名分にして、このまま挨拶をしない無礼を押し通したい。


 だが、その淡い願いはいとも簡単に打ち砕かれた。ミシェル嬢が、庭に立ち尽くす私たちの姿を認めてしまったのだ。


 彼女はお兄様に何やら話しかけたかと思うと、お兄様と腕を組んだままこちらに近寄ってくる。そうなってはこちらも歩み寄らないわけにはいかない。


「……行きましょうか。あなたは適当に挨拶をしてくれればいいわ」


 クラウスはどこか愁いを帯びた視線を投げかけてきたが、私に連れられるようにして歩き出した。


 これほど重く感じる一歩も初めてだ。油断すれば溜息が零れてしまいそうな心持ちのまま、お兄様とミシェル嬢に対面する。


「……フィーネ」


「お兄様、御機嫌よう。街はいかがでしたか? よく晴れていますから、人通りも多かったでしょう」


「……そうだね。だから、少し休憩に来たんだ。彼女も疲れてしまったようだし——」


 お兄様は露わになっている赤い左目でちらりとミシェル嬢を見やった。仲睦まじく腕を組む二人の姿は本当にお似合いで、悔しいが文句のつけようがない。


「あら、ノア様、こちらがフィーネ様ですの? 以前お会いしたこともあったかもしれませんけれど、とってもお美しくなられたのね」


 ミシェル嬢は華やかな笑みを浮かべ、真っ赤な瞳を細めた。言いがかりだとは分かっていても、私がどれだけ願っても得られなかったその瞳の赤に、心の奥底に沈めたはずの劣等感を刺激されるような気がする。


 私はクラウスから手を離し、ドレスを摘まんで慎ましく礼をした。


「……改めまして、クロウ伯爵家のフィーネと申します。この度はお兄様とのご婚約、誠におめでとうございます」


 自分でも驚くほど感情のこもらない声が出た。頭を下げていて正解だった。目を見たままだったら、ミシェル嬢にどんな表情を向けていたか分からない。


「まだ正式に決まったというわけでもないけれど……ふふ、そうね、近いうちにあなたのお義姉様になるのかしら? どうぞよろしくね、フィーネ嬢」


「……はい、ミシェル様」


 それとなく視線を伏せたまま、無理やり作り笑いを浮かべた。ミシェル様のお隣にいるというのに、お兄様の視線が突き刺さるようで痛かったが、ぎゅっと指先を握りしめて耐える。


「そちらの方は?」


 ミシェル嬢の興味が私からクラウスに移るのが分かった。彼にも軽く挨拶をしてもらわなければならない。


 そう思い、彼の整った顔立ちを見上げた途端、ふと彼の腕が私の腰に回った。まるで恋人同士のような距離の近さに、どくん、と心臓が跳ねる。


「ハイデン公爵家のクラウスです。フィーネ嬢の婚約者ですので、以後お見知りおきを」


 ミシェル様は、真っ赤な瞳で吟味するようにクラウスを見つめていた。あまり品の良い仕草とは言えない。この方がお兄様のお隣に立つのかと思うと、どうにもやるせなさを感じてしまった。


「……ユリス侯爵家のミシェルと申しますわ。お隣のベルニエ帝国から参りましたの。フィーネ嬢の婚約者ならば、わたくしたちは家族も同然——」


 そこまで言いかけて、ミシェル様ははっとしたようにクラウスを見上げた。


「……レオン?」


 ミシェル嬢は聞き慣れない名を口にしたかと思えば、そのまま彼の顔に見入るような素振りを見せる。


 クラウスもクラウスで、紺碧の瞳を見開いて彼女を見下ろしていた。いつだって余裕綽々な彼が見せる表情とは思えないほどの狼狽ぶりだった。


「レオン……?」


 お兄様まで、その耳慣れない名を口にして固まってしまった。彼の左目が、大きく揺らぎながらも、信じられないとでも言うようにクラウスを見つめている。


 どうやら、レオンという名に心当たりがないのは私だけのようだ。疎外感と、お兄様とクラウスが見せる珍しい表情に妙に胸騒ぎがする。


 やがて、薔薇色の紅が引かれたミシェル様の口元ににいっと弧が描かれる。


「へえ……そう、あなた、生きてたの! 面白いこともあるものねえ」


 あまりにも意味ありげな言葉を囁いたかと思うと、彼女は底意地の悪い笑みを見せた。そのまま、ずい、とクラウスに詰め寄ると、挑発するような声で告げる。


「……私のこと、覚えているかしら? あの時とは随分姿が違うけれど、分かるでしょう? ねえ、どうしてクロウ伯爵家とかかわりを持っているの? もしかして、クロウ伯爵家の正体を知らないとでも?」


「……ミシェル嬢、彼と、知り合いなのか」


 お兄様がどこか茫然とした調子で問いかけた。どんどん顔色を悪くするクラウスとは対照的に、ミシェル嬢は楽しくてたまらないとでも言いたげな華やいだ笑みを見せた。


「ええ! それはもう。もしかして、彼は今、クロウ伯爵家の贄なのかしら? それなら宴の際にはわたくしも呼んでくださいまし! 久しぶりにまた、可愛がって差し上げたいですわ」


「ミシェル嬢、一体何を言って……?」


 ミシェル嬢の高笑いを前に、私とお兄様が状況を掴めなかったが、クラウスの紺碧の瞳には怯えの色が浮かんでいた。明らかにいつもと様子が違う。青ざめた顔色からしても、とても気分が悪そうだ。


「クラウス……?」


 不安に思い、思わず私から彼の腕に触れれば、紺碧の瞳が縋るように私に向けられた。


「何なら、今からでも私たち三人で彼の血をいただきませんこと? ああ、ノア様とフィーネ様は彼の出自をご存知? 彼は、失われた彼の国の特別な血を持っているのよ。あの味、一度味わったら忘れられないわ……」


 彼の国の特別な血? 味わう?


 お兄様は未だ状況を把握できていないようだったが、クラウスから事情を聞いている私は何となく察してしまった。クラウスの血を飲んだことがあるとでも言いたげなその言葉が、彼の持つ暗い過去と結び付くにはそう時間はかからなかった。


「……ミシェル様、もしかしてあなた『白銀の君』と関係があるのですか?」


 クラウスの手をぎゅっと握りしめながらも、睨むように彼女の問いかける。クラウスを庇うような私の姿に、ミシェル様の赤い瞳が愉悦に揺らぐのが分かった。


「随分懐かしい名前でわたくしを呼ぶのね? うふふ、フィーネ様にまでそう呼ばれると何だかくすぐったいわ」


「っ……」


 まさか、ミシェル嬢が「白銀の君」だとでもいうのか。クラウスの長年の敵が、こんなにもあっさりと明らかになるなんて。


「でも……『白銀の君』は白銀の髪に赤い目をした少年だったはずです」

 

 少なくともクラウスの話を聞く限りではそうだった。お兄様と同じ、白銀の髪に赤い瞳を持つ、吸血鬼の中の吸血鬼の少年だったと。


「あら、フィーネ様、随分お詳しいのね? わたくし、これでも幼いころはもっと銀に近い色の髪をしていましたのよ? それこそ、ノア様のようなね」


 ミシェル嬢は自分の白金の髪の毛先を摘まむと、にこにこと美しい笑みを見せた。


「両親に内緒でお外へ遊びに行くときには、少年の格好をしておりましたの。その方が何かと都合がよかったもので。ふふふ、なかなか様になっていたでしょう? ねえ、レオン?」


 またしても耳慣れぬ名で、ミシェル様はクラウスのことを呼んだ。彼は底知れぬ憎悪を覗かせた表情で、ミシェル様を一瞥したが、そのまま縋るように私を抱き寄せた。


 私を抱きしめるクラウスの指先は震えていた。先ほどからずっとミシェル様に怯えている様子であるし、これ以上ここにいるのは酷だろう。まだまだ聞きたいことは沢山あったが、この場はお兄様にお任せするしかない。


「……あなたが『白銀の君』だと言うのなら、私はあなたのことを心から軽蔑するわ、ミシェル様」


 一度だけ、彼女の紅の瞳を睨みつけ、そのまま背を向けた。振り向く直前に彼女はどこか拍子抜けしたような表情をしていたが、やがて私たちの後姿に笑いかける。


「へえ? フィーネ様、その男に本気で惚れているの? 滑稽だわ‼ なんて面白いのかしら!」


 彼女のその言葉は、嫌味というよりは好奇心がくすぐられて仕方がないとでもいいたげなものだった。


 かつて「白銀の君」と呼ばれていたような吸血鬼の中の吸血鬼の彼女にとっては、人間なんて食料に過ぎないのだろう。彼女にとってクラウスは渇きと飢えを潤すだけの存在であり、どれだけ虐げても構わない下等な生き物でしかないのだ。


 一昔前はそのような思想の吸血鬼の少なくなかったと聞くが、今は珍しい方だ。ユリス侯爵家の由緒正しい吸血鬼の血がそうさせているのだろうか。


 ともかく、ミシェル嬢に何を言われようとも、こんな状態のクラウスを放っておく気にはなれなかった。私は黙り込むクラウスの手を引くようにして、彼を落ち着かせるために、屋敷の中の客間へと急いだのだった。

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