第29話

「っ……」


 客間のドアを開け、私を迎えに来たらしいクラウスの前に姿を現したところ、彼は私の姿を見るなり息を呑んだ。そのままたっぷり数秒間、呆気にとられたように私を見つめている。


「……何よ、正直に言えばいいじゃない」


 彼の顔を覗き込むようにずい、と近寄れば、クラウスの紺碧の瞳が揺らいだ。彼もまた、深い黒の礼服に身を包んでおり、相変わらず人目を引く出で立ちをしていた。


「……いや、悪くないと思っただけだ」


「相変わらず素直じゃない褒め方ね……」


 それも今に始まった話ではない。小さく溜息をつきながら、私はクラウスにエスコートを促すように手を差し出した。


 思えば、彼に触れられるだけで手が爛れてしまうのではないかと恐れていた頃から考えれば、私たちの関係性も随分マシになった。こうして自ら手を差し出すようになるなんて、考えられない変化だ。


 その後の晩餐の時間は、ハイデン公爵を交えた三人で、非常に穏やかなものとなった。昼間と同様、公爵家での料理は絶品で、思いがけず素敵な時間を過ごしたのだった。




 食事を終えた後、私はクラウスによって、彼のアトリエに案内されていた。昼間何気なく彼が語った、あの薄紅色の花の絵を見るためだ。


 燭台によって照らされたアトリエはどことなく薄暗かったが、それがどこか非現実的な雰囲気を醸し出していた。油絵の具の独特の匂いの中、立てかけられたりテーブルの上に放置されている絵をちらちらと見つめる。


「綺麗な色を使うのね、素敵だわ……」


 気づけば素直な感想が口から漏れ出ていた。どれも鮮やかで、印象的な配色が多い。


「それはどうも。……これが例の絵だ。やっぱり見せるのは恥ずかしくなってきたな」


 クラウスはふっと柔らかな笑みを見せると、壁に立てかけられていた絵の一つを手に取る。


「そう言わずに見せてよ。私たちが見ている景色が同じものなのか知りたいじゃない」


 そのためにここまで来たのだ。クラウスの隣を陣取りながら強請れば、彼は手にしていた小さなキャンバスを表に向けた。


 それは、まさに私が夢の中で見るものと同じ、薄紅色の花の絵だった。確かに幼いころに描いたというだけあって、周りに立てかけられている絵より拙いものだったが、あの夢を見た後のような感傷的な気持ちを呼び起こすには充分だった。


「……どうだ?」


「同じよ……。私も良く、この花を夢に見るの」


 ひらひらと舞い散る、儚げなあの花。名前すらも分からないあの花に、どうしてこんなにも惹きつけられるのだろう。


「どんな共通点があるんだろうな、俺たちには……」


 クラウスは絵の中の薄紅色の花弁に触れながら、どこかもどかしそうに呟いた。それは私だって知りたい。このところずっと、この花に囚われているような気がする。


 私はドレスの中からそっと、肌身離さず着けているクラウスのロケットを取り出した。ゆっくりと蓋を開けば、薄紅色の花弁が閉じ込められている。


「……これは、あなたがずっと持っていたものなの? その……神殿にお世話になる前から」


「……恐らくは」


「じゃあこれは、あなたが本当のお父様とお母様のもとにいたころから持っていた可能性が高いのね」


 クラウスは何も言わなかった。彼自身も確信はないのかもしれない。


「……大切に、持ってくれているんだな」


 彼の紺碧に瞳は、私の手の中のロケットに注がれていた。


「まあね。大切な取引の鍵ですもの」


 軽く笑いかけるようにクラウスを見上げれば、不意に彼の右手が私の頬をつねった。鈍い痛みが走る。


「もう、何よ——」


「――少し、疲れた笑い方をしているな」


「え?」


 彼に、そんな些細な表情の変化を指摘されるなんて意外だった。夜が近づくにつれ、気分が重くなっているのは確かなのだ。

 

 むしろクラウスと遊んでいた昼間の笑みこそが、異常だった。無理矢理笑わざるを得ないような状況を作ってくれたクラウスには感謝しているが、眠る時間が近づくと怖くなってくる。


 きっと、眠る前に悶々と考えてしまうだろう。どれだけ平気な素振りをしていても、夢に落ちるまでのあの僅かな時間は自分自身と向き合わざるを得ない。


 お兄様が婚約なさるという、あまりにも残酷な現実を突きつけられるに決まっている。


 晩餐が終わったあたりから、それを思って憂鬱になっていることは確かだった。それでも何とか笑みを浮かべ、いつも通りに振舞えていたと思っていたのに。


「……何があった? 昼間、公爵家に来るまでは相当ひどい顔をしていたぞ」


「ひどい顔なんて、失礼ね……」


 茶化すように笑うも、クラウスの瞳は真剣だった。私の頬をつねる指が、いつしか強張る私の表情を和らげるようにそっと横顔に添えられている。大きくて温かい手だ。


 これは、話すまで見逃してもらえなさそうだ。お兄様の婚約話となれば、遅かれ早かれ彼も知るところであるし、一思いに告白してしまおうか。


「……あのね、お兄様に縁談が来たの。隣国のユリス侯爵家のミシェル嬢とのね。とっても美しいご令嬢なの。吸血鬼は吸血鬼同士で婚姻を結ぶのが普通だから、彼女も吸血鬼なのだけれどね」


 何でもないことを口にするように、微笑みながら言ったものの、我ながらどうにも痛々しい笑い方だった。クラウスの紺碧の瞳は、ただ真っ直ぐに私に向けられている。


「ふふ、あなたにとってはあまりよくない知らせだったかしら? お兄様が幸せになってしまうのだものね」


 私はクラウスから視線を離して、薄紅色の花が描かれたキャンバスを見据えた。この花が出てくる夢を見る度に、お兄様の存在が私の胸を締め付ける。それはきっとこの先も続いていくのだろう、と予感して自嘲気味な笑みが零れた。


「あなたの策略ももう、意味をなさなくなるかもしれないわ。これからはお兄様の優先順位は、私よりもミシェル嬢になるのだから」


 そう、なってくれなくては困る。婚約者のいるお兄様に私を最優先されたところで、心が抉られるように痛むだけだ。ミシェル嬢にだって申し訳が立たない。


「どうする? 私とこの婚約を白紙に戻してくれてもいいわよ。利用価値のない私を、傍に置いておく理由も無いでしょう?」


 くすくすと自嘲気味に笑う自分は、我ながら滑稽で仕方なかった。クラウスの紺碧の瞳が、痛々しいものを見るように細められる。


 ……どうして大嫌いな吸血鬼の私に、そんな表情を向けるの。


 まるで私を憐れむようなその眼差しは、およそ彼には相応しくないものだった。とてもじゃないが、出会ったときや私を殺すと宣言したときの彼からは想像もつかない。


 沈黙が、やけに重苦しかった。何か言ってくれないと間が持たないのに。


 そのままどのくらい向き合っていただろうか。とうとう耐えきれなくなった私は、くるりと彼に背を向けて手短に挨拶を交わす。


「……今日はいろいろとありがとう。客間までは一人で戻れるからエスコートしていただかなくて結構よ。おやすみなさい」


 捲し立てるように挨拶を終え、さっさと立ち去ろうとした私の腕を、クラウスが背後から掴む。


 相変わらず紳士の風上にも置けない人だ、と文句を言ってやろうと思ったのに、次の瞬間、私は彼の腕の中に閉じ込められていた。


 何の前触れもない抱擁に、恥ずかしさよりも驚きが先行する。馴染みのない温もりに包まれるのは、何だか落ち着かなかった。


「……クラウス?」


「婚約は破棄しない」


「え?」


「絶対に、破棄なんかしてやらない」


 静かだが、まるで駄々をこねるような声に、こちらとしては戸惑うばかりだ。


「……それほどまでに私を殺したいのかしら?」


 妙に神妙な空気が気まずくて、冗談めかして笑いかければ、クラウスはまっすぐに私を見下ろした。紺碧の瞳はとても真剣だ。


「殺すつもりはない」


「……何ですって?」


 とてもクラウスの発言とは思えぬ言葉に、訝し気に眉をひそめてしまう。クラウスは悩まし気な溜息をついて、どこか恨むように私を見た。


「……殺せなくしたのは、お前だろう」


 責めるような物言いに、軽く委縮してしまう。そうは言われても、まるで心当たりがなかった。


「……ここ最近、ほんの少しだけあいつの気持ちが分かり始めている。お前は人を惹きつける才能があるよ。厄介な人間に執着される才能がな」


「執着って……」


 まさか、クラウスが私に執着しているとでも言いたいのだろうか。よりにもよって彼が。


 信じられない、という気持ちを込めてクラウスを見上げていると、彼はふっと微笑んで私の手を取った。


「部屋に戻るんだろう。送っていく」


 思えばエスコートをする彼の手が、まるで壊れ物に触れるかのように丁寧になったのはいつからだろう。


 クラウスは、私のことを憎からず思い始めているのだろうか。


 だとしたら、それはとても光栄なことだ。素直に嬉しいと思う。


 でも、彼の想いにときめきを覚えるには、私はまだお兄様に囚われすぎていた。どれだけ目の前のクラウスが優しくしてくれようとも、お兄様の声が、香りが、温もりが、私の心を抉り取るのだ。


 私たちは、何も言わずに客間まで歩いた。手を離せばあっという間に消える互いの温もりは、今の私たちの曖昧な結びつきの象徴のようで、どうにも儚さを禁じ得ないのだった。

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