第32話

「お兄様……お兄様っ、待ってください!」


 お兄様の手に引かれるようにして連れて来られた先は、お兄様の私室だった。久しぶりに足を踏み入れたが、お兄様の情緒が安定していない証なのか、今日も今日とて血の臭いがする部屋だ。


 お兄様は私を半ば強引に部屋に引き入れると、後ろ手に鍵を閉めた。いつものお兄様らしからぬ行動に、動揺が広がるばかりだ。


 昼間だと言うのに、お兄様の部屋はどこか薄暗い。分厚いカーテンが陽の光を遮っているからかもしれない。


 手を掴まれたままだったが、ここでようやく私はお兄様と向かい合うことが出来た。唯一窺うことのできる左目の赤が、どうにも翳っている気がする。このところずっとそうだと言われればそうなのだけれども。


 私の心の奥まで見据えるようなお兄様の眼差しはどうにも居心地が悪かったが、このまま黙り込むわけにもいかない。あれほど怯えていた表情のクラウスを客間に置き去りにせざるを得なかったことに関しては、多少の苛立ちを覚えてもいた。


「お兄様……先ほどはどうしてあんなに乱暴なことを? 婚約を破棄するにしたって、もっと穏便に話をしないと——」


「――フィーネ、あいつとはどこまで進んだ? 手を繋いだ? 口付けまでした?」


「っ……何を、急に……」


 いくらお兄様でも訊いていいことと悪いことがある。しかもお兄様は私にとっての初恋の相手でもあるのだ。そんな人に婚約者であるクラウスとの関係性を口にすることは躊躇われた。


「……そんなこと、いくらお兄様でもお教えできませんわ」


「大切なことだ。言うまで離さない」


 その言葉と同時に手首を掴むお兄様の手に力が籠められるのが分かった。これは本当に離してくさなさそうだ。


「……せいぜい、手を繋いだくらいですわ。お父様やお母様の前で出来ないことは何一つしておりません」


 それくらいなら、婚約者同士としては清らかにもほどがある付き合い方だろう。文句は言わせまい、とお兄様を見上げれば、彼は想像以上にほっとしたような顔をしていた。


「……良かった。それを聞けて安心したよ」


 お兄様はにこりと甘い笑みを見せたかと思うと、そっと私を引き寄せた。そこに、先ほどまでの乱暴さはない。


「フィーネ、あいつのことはもう忘れるんだ。婚約も全部白紙に戻そう」


「……どうして急にそんなことを?」


 お兄様をここまで急き立てる何かがあるのだろうか。きっかけがあるとしたら、先ほどのミシェル様の話の中なのかもしれないが、私にはまるで見当がつかない。


「……フィーネ、彼が僕らの正体を知っていることを黙ってたね?」


「っ……」


 さっと血の気が引いていくのが分かった。お兄様が意味ありげに端整な笑みを深める。


「ミシェル嬢から聞いたよ、全部。ミシェル嬢はかつて、病弱な妹君に血を分け与えるという名目で、散々人間をいたぶっていたそうだ。彼は……その犠牲者のうちの一人なのだろう?」


 何も言えなかった。ミシェル嬢から事情を聞いてしまったのなら、弁明のしようがない。


「彼が吸血鬼の存在を知っていることを隠して君に近付いた可能性も考えていたけど……その反応からしてやっぱり知ってたんだね? 僕に隠しごとをするなんて、いつからフィーネはこんなに悪い子になったんだろうね?」


 責めるようなお兄様の物言いに、ますます委縮してしまう。クロウ伯爵家の正体を知っているクラウスと婚約しようとしていたのだから、お兄様からすれば私は裏切り者に見えていてもおかしくない。


「……正体を知られていても添い遂げたいほどに、あいつに惹かれてたの?」


 どこか寂し気なその言葉には、切なさも見え隠れしていた。思わず、お兄様を見上げてしまう。


「っ……お兄様、私……」


 どう、言い訳すればいいだろう。彼がお兄様への復讐を目的に私に近付いていたと知ったら、お兄様は尚更お怒りになるに違いない。私を利用したクラウスには二度と会わせないと言ってもおかしくない。


 不思議だ。二度と会わないならそれはそれでいいというくらいだったクラウスの存在が、私の中でこんなにも大きくなっているなんて。


 これが恋ではないことは分かる。私の心は未だ、お兄様に囚われたままなのだから。でも、あんなにも寂し気な表情をしたクラウスをこのまま放っておくなんてできなかった。


 だからこそ、何とか関係を修復するためにも上手く言い訳をしよう。そう決意したのだが、お兄様には一瞬の私の迷いまでもお見通しだったようで、いつの間にか壁に追い詰められるようにして逃げ道を絶たれてしまった。


「……悪いけど、その恋心は忘れてもらわないと困るな」


 私の退路を塞ぐようにして立ったお兄様は、私に影を落としながら笑った。相変わらず美しい笑みだったが、妙に緊張を強いる表情だ。


「でも、忘れろと言って忘れられるようなものでもないってことは分かっているよ。……君に散々思い知らされたからね」


 お兄様の手が、そっと私の髪を梳いて背中に流した。慈しまれているようにも思える仕草だが、状況が状況なだけに思わず息を呑んで身構えた。


「だから……少しあいつから離れようか。二人で、ここじゃない場所に行こう」


「ここじゃない、ところ……?」

 

 どこか旅行にでも行こうという意味なのだろうか。それにしては不穏な空気が拭えないが、その提案に乗ればもっと詳しく話を聞けるのかもしれない。


「……出発はいつですか?」


「今だよ。一刻も早く、君をあいつから引きはがさないと」


「え……」


 いくらなんでも、思い立った当日に旅に出るなんて非常識が過ぎる。私たちは吸血鬼だが貴族でもあるのだ。使用人の手配や何やらで準備に時間がかかる。


 お兄様がそんな無茶を言い出すなんて思ってもみなかった。だが、お兄様の表情は真剣そのものであるし、ここで断ったらまずいことになりそうな気配を醸し出している。


「……分かりました。では、お父様とお母様にご挨拶をして、リアたちに声をかけに——」


「――ああ、いいや、もう。ちょっと痛いかもしれないけど我慢してくれる?」


 どこか面倒そうに私の言葉を遮ると、お兄様は一気に私との距離を詰めた。


「っ……‼」


 次の瞬間には、お兄様は私の首筋に噛みついていた。あまりの衝撃に、痛みすらよく分からない。


 ……どうして? お兄様。吸血鬼同士の吸血は禁忌であるはずなのに。

 

 お兄様の両手が、それぞれ私の両肩に乗せられ、指が食い込むほどに掴まれた。ただでさえお兄様に力勝負で勝てるわけがないのに、吸血鬼の本性を露わにしているときは尚更逃げられるはずがない。


 逃げることも抗うこともできない恐怖に、じわりと涙が滲む。自然と肩が震え出していた。


 次第に噛みつかれた首筋も、鋭い痛みを訴え始める。早鐘を打った心臓が脈打つたびに、力が抜けていくような気がした。


「っ……誰、か——」


 叫ぼうとしたが、お兄様の左手に口を押さえられそれすらも叶わなかった。


 途中から壁に寄りかかるようにして姿勢を保っていたが、次第にそれも限界に近付いていることに気づく。思わずお兄様の背中にしがみ付くも、お兄様は吸血に夢中なのか、支えてはくださらなかった。


 やがて、力なく床に崩れ落ちた段階で、ようやくお兄様が私の首筋から口を離した。そのころにはすっかり意識が曖昧になっていて、見上げるお兄様の姿すらも朧げになっている。


 お兄様は口元についた血を手の甲で拭うと、どこか満足げに私を見下ろしていた。その姿が、薄紅色の花弁の夢の中で見た誰かの姿と重なる。


「……ご馳走様。とっても美味しかったですよ、。……いままでで、いちばん」


 その瞬間、何かを思い出しかけた気がするけれど、薄れゆく意識には勝てなかった。血を失いすぎたのかもしれない。


「……ノ、アおにい、さま……」


 ああ、私は随分昔から、彼のことをそう呼んでいた気がする。


 そう、あれは、王城の中でも秘密の庭で、私が遊ぶことを許されたのはあの場所しかなくて——。


 涙が出るほどに懐かしい光景が浮かんだのを最後に、とうとう私はその場に倒れ込んでしまったのだった。

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