第33話

 目覚めたとき、私は知らない部屋の中にいた。


 一人で眠るには広すぎるベッド、燭台でぼんやりと照らされただけの薄暗い室内。調度品はどれも見事なものばかりだったが、私に馴染みのあるものは何一つなかった。


「っ……」


 ずきずきと痛む首筋を押さえ、そっと体を起こしてみる。肌触りの良い真っ白なネグリジェが肌を滑った。


「お目覚めですか……フィーネお嬢様」


 薄暗がりの中から恐る恐る声をかけてきたのは、紛れもなくリアだった。灰色の瞳はどこか不安げに揺らいでいるが、彼女の登場にほっと息をつく。


「リア……私、どうしてしまったのかしら? ここは、一体……」


 何かとても怖いような、痛いような出来事があったような気がするけれど、思い出せない。思い出そうとするとずきずきと頭が痛む気がした。


「……申し訳ありません。私からは、何も」


 リアは軽く俯いてそれだけ告げたかと思うと、馴染みのメイド服を摘まんで深く礼をする。


「……ノア様を呼んでまいります。お嬢様はこちらでお待ちください」


「お兄様を……?」


 何となく、今は会いたくないような気もしたが、お兄様が私の目覚めを待っていたのならば断われるはずも無かった。


 リアが出ていった扉をぼんやりと眺めた後、お兄様とお会いするならば、と私は傍にあったストールを肩に羽織った。薄紅色のストールは、あのおぼろげな夢の中で散る花を思い起こさせた。


 間もなくして、ドアがノックされたと同時にお兄様がいらっしゃった。ラフなシャツ姿に、適度に整えられた銀の髪。休日によく見るお兄様の姿だった。


「……お兄様」


「目覚めたかい、フィーネ」


 穏やかな微笑みでベッドの端に腰かけるお兄様を前に、私も自然と頬を緩めてしまう。お互いの婚約話で多少壁を感じているとはいえ、今日も今日とて、私の大好きなお兄様だ。


「御機嫌よう、お兄様。……私、どうして眠っていたのでしょう? ここもどこだかわからなくて……」


 眠る直前のことをあまり良く覚えていない。伯爵家でクラウスとちょっとしたお茶会を楽しんだあたりまでは記憶にあるけれど、その後のことはまるで覚えていなかった。


「……覚えてないの? 折角一緒に別荘に旅行に来たのに。まあ、馬車の中で随分はしゃいで疲れてしまっていたようだから、無理もないか」


 ……そう、だったかしら。私、お兄様と旅行に来ているのね……?


 このところのよそよそしい態度からは、お兄様と旅行だなんて想像がしづらかったが、お兄様が言うのならば間違いないだろう。クロウ伯爵家は王都と領地の屋敷の他にいくつかの別荘を持っているが、そのうちのどれかに旅行に来ているようだ。


 お兄様はにこにこと微笑みながら、指先で私の髪を梳いた。このところあまり触れられていなかっただけに、たったそれだけでも緊張してしまう。


「忘れてしまってごめんなさい。お父様とお母様は?」


「どうしても用事があって王都から離れられないようだから僕ら二人で来たんだよ。連れてきた使用人もリアだけだ」


「そう……随分小規模な旅なのね」


 ここまでこの旅の仔細を思い出せないことには多少の不安も覚えるが、お兄様の言う通り少し疲れているのかもしれない。何だか首も痛いことだし、もう少し休んだ方がいいだろうか。


 そのまま何気なく、首元に触れていると、滑らかなはずの首筋に違和感があった。ちょっとした切り傷のようなものがある気がする。


「……ああ、あんまり触っちゃ駄目だよ、フィーネ」

 

 お兄様は、ぎし、とベッドを軋ませながら私に詰め寄った。お兄様の優しい香りがして、何だか戸惑ってしまう。


「……何かできているでしょうか? 肌が荒れてしまったのかしら……」


 だとしたら後程、リアに薬を持ってきてもらわねばならない。


 お兄様は私の髪をもう一度梳いて、荒れているであろう私の首筋をまじまじと観察していた。訊いたのは私とはいえ、お兄様にこうも至近距離で肌を見つめられると何だか気恥ずかしさがある。


「……いや、何てことないよ。気にする必要はないくらいだ」


 お兄様はどこか満足げに微笑んで、そっと私の首筋を撫でた。その感触に一瞬寒気を覚えながらも、にこりとお兄様に笑みを向ける。


「ありがとうございます、お兄様」


 お兄様は満足げな表情のまま、手の甲で私の頬を撫でた。まるで小動物にするようなその仕草がくすぐったい。


「……このまま、こうしていようか。二人きりでずっと」


 まるで独り言のようなその言葉に、胸の奥が抉られるような気がする。それが叶うならばどんなにいいか分からないが、無理だと言うことは誰より私が知っている。


「ふふ……そういうわけにも参りませんわ。私にもお兄様にも、婚約者がおりますもの」


 そうだ、お兄様は、ミシェル嬢と——。その事実をわざわざ自分で口にしてしまったことで、余計に苦しくなる。それをお兄様に悟られまいと俯くも、頬に添えられた彼の手によってすぐに上向かされてしまった。


「何だ、まだ覚えているんだね、あいつのこと」


 お兄様の左目は、冷え切っていた。いつも私に向けていた、あの慈しむような温もりはどこにも無い。


「あいつ……って、クラウスのことですか?」


 忘れるはずもない。彼は見せかけだけだとしても私の婚約者なのだから。


 お兄様のその質問に、一体どんな意図が含まれているのかと探るように彼の目を見つめたところで、頬に添えられていた手が肩に移動し、ベッドに押し倒された。


 突然の横暴に目を見開くも、お兄様はどこか愉しそうな、それでいて苛立ちも伺えるような表情で笑っていた。こんな表情のお兄様は知らない。


 ……いえ、知っている、のかしら? 確か、クラウスと別れた後、お兄様の私室に連れ込まれた時も——。


 何かを思い出しかけたが、お兄様の指先がそっと私の首筋をなぞったため、そちらに意識を奪われてしまった。何気ない仕草なのに、どうにも色気があるせいか、頬が熱くなってしまう。


「……お兄、様?」


 窺うように尋ねれば、お兄様はそっと私に顔を近づけて笑った。


「……あれだけじゃ、足りなかったみたいだね。何度でも繰り返そうか。君が、彼のことを忘れるまでずっと」


 一体何の話だろう。ただならぬ雰囲気のお兄様を前に、どんな言葉をかけるべきか迷ってしまう。


「痛い思いばかりさせてごめんね、フィーネ」


 笑うようなお兄様の声を最後に、突然首筋に痛みが走る。先ほど荒れていた肌の上に、彼が噛みついたのだと分かった。

 

「っ……お兄様、何を……」


 思わず彼の肩に手を押し当てて逃れようとするも、ひ弱な私の腕ではとてもじゃないが敵わなかった。脈打つたびにずきずきと首筋に鋭い痛みが走る。


 ……この痛み、私、知っているわ。目覚める前もこうやって、お兄様に吸血されたもの。


 痛みと共にその時の記憶が痛烈に蘇ったが、すぐに意識が溶けていく。お兄様の肩を押す手にも力が入らなくなってきた。


 目尻から、涙がぽろぽろと零れ出すのが分かった。それが痛みから来るものなのか、混乱しているせいなのかも分からなかったが、この状況がただただ、息苦しくてならないような気がしていた。


 私の首筋から僅かに顔を上げたお兄様と視線が合ってしまう。禍々しく光る赤い瞳は、彼が吸血鬼の中の吸血鬼なのだと知らしめているようで、力のない私はただただ身を震わせることしか出来なかった。


「……泣かないでください、


 縋るような、切なげなその声で呟いたかと思えば、彼は血の付いた唇で、そっと私の涙を奪うように目尻に口付けた。


 その感触を最後に、私の意識はふっと途切れる。


 首筋に与えられるこの痛みは、この先もきっと繰り返される。そんなあまりにも不吉な予感が、私の胸を締め付けていた。

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