第34話(クラウス視点)

「……フィーネがいなくなった?」


 あの衝撃の邂逅から三日後、何とか表面上は平静を取り戻した俺は、改めてフィーネとノアに話を聞くためにクロウ伯爵邸を訪ねていた。


 だが、俺を出迎えたのはフィーネではなく、クロウ伯爵と夫人だった。いつもならばまずありえないことだ。

 

 ひとまず通された客間でお茶を嗜むも、フィーネがいなくなったという衝撃的な事実を前に、ゆっくり紅茶を味わう余裕なんて無くなっていた。


「いなくなったって……どういうことですか? まさか、誘拐されたとでも……?」


 伯爵令嬢が誘拐されただなんて一大事だ。だが、クロウ伯爵夫妻には妙な落ち着きがあった。


「……あなたからすれば誘拐に近いものかもしれませんが……フィーネを連れ去ったのはノアです。私たちにも一言も告げずに出て行きました」


「っ……」

 

 思わず、膝の上に置いた手を握りしめる。あの日、ノアはどうしても俺とフィーネを引きはがしたい様子だった。その目的を達成するために、こんなにも素早く強硬手段に出るなんて。

 

 正直、不安だ。ノアがフィーネを見る眼差しにはいつだって執着が宿っていた。フィーネの我儘のために、自らの右目を犠牲にしてまでも瞳の色を変えるような奴だ。あいつを常識で図るのは危険だと、とっくのとうに分かっていたのに。


「……フィーネ」


 ノアはフィーネをこの世の誰よりも愛している素振りであるから、無体な真似はしないだろうが、それでも完全に信じられるかと言われたら微妙な線だ。行き過ぎた愛は、どんな結果を招いてもおかしくない。叶わない想いだからこそ、取り返しのつかない事態を招く恐れだってあった。


 思わず、ノアとフィーネが心中している場面を想像して、息も出来なくなるほどの恐怖に襲われた。


 ……駄目だ、フィーネが、あの向日葵のような笑顔が奪われるなんてあってはならない。


 正直、自分がフィーネに向ける感情がどのようなものなのか、まだ自分でもよく分かっていない。それでも、さっさと殺してしまおうと考えていた彼女の笑みに、温もりに、次第に惹かれていったことは確かで、こちらから婚約破棄をするなんてことは考えられないくらいには、フィーネは大きな存在となっていた。


「どこか、心当たりはないのですか? 二人が行きそうな場所は……」


 思ったよりも切羽詰まったような声が出た。クロウ伯爵夫妻は、困ったように視線を泳がせたかと思うと、やがて伯爵が口を開いた。


「……実を言えば、心当たりはあります」


「本当ですか。一体どこに……?」


「恐らくは、クロウ伯爵家が所有している別荘のどれかにいるでしょう」


「別荘に……」


 そこまで見当がついていて、なぜこの二人はフィーネとノアを捜さないのだろう。二人の子供が失踪したのだ。それなのに、この落ち着きようには違和感を覚えた。


「……私たちが捜しに行かないことを疑問にお思いですか?」


 伯爵は、薄い笑みと共にこちらの思考を読んだようなことを口にした。赤い瞳で見つめられるのは、ノアを連想させるから何とも居心地が悪い。


「……失礼を承知で申し上げれば、そうですね。お二人は彼らが可愛くないのですか?」


「もちろん、可愛いですよ。他の何にも代えがたいほど大切な二人です」


 伯爵は優雅な仕草でティーカップを口に運び、小さく息をつくと、どうにも意味ありげな言葉を口にした。


「ですが……彼らは私たちの子どもである以前に、騎士と姫なのですよ」


「騎士と姫……?」


 想像もしていなかった言葉に、何か自分の知らない物語が隠されている気配を感じた。探るように伯爵夫妻を見つめていると、伯爵は柔らかな笑みと共にティーカップを置き、静かに口を開く。


「……クラウス殿、あなたはきっと、我々の正体に勘付いておられますね」


「っ……」


 伯爵の赤い瞳が、心の奥底まで見透かしてくるようで怖かった。これが吸血鬼か、と思い知らされる。俺を苛んだ吸血鬼たちのような品の無さは感じないが、それでも、人とは違うものだと思い知らされた。


「それを責めることはしませんよ。初めはともかく、このところのフィーネはあなたといるのがとても楽しそうだった……。それに、フィーネの結婚相手としては、あなたのような青年が相応しいと以前からずっと思っていましたから、こちらとしてもあなたとフィーネの婚約は願ってもみないお話だったんです」


「……フィーネに婚約を申し込んだ俺が言うのもなんですが、吸血鬼は吸血鬼同士で婚姻を結ぶのが通例なのでは? それなのに、俺のようなただの人間を待ち望んでいたと?」


 ノアの婚姻の際にフィーネから聞いた話が蘇る。自らの兄の婚約話を語ると言うよりは、恋人に婚約者が出来たことを嘆くような彼女のあの表情は、今も鮮明に思い出せる。正直に言って、面白くなかった。


「……これは、フィーネも知らないことですが……」


 伯爵はどこか寂し気に微笑んで、衝撃的な事実を口にした。


「……フィーネは、クロウ伯爵家の血は継いでいません。私たちは、あの子の本当の親ではないのです」


「……っ」


 確かに、フィーネだけクロウ伯爵家の他の面々と違い薄紫の瞳を持っているが、血が繋がっていないとまでは考えていなかった。どくどく、と脈が早まる音がする。


「では……フィーネは吸血鬼ではないのですか?」


 その問いに、クロウ伯爵夫妻は少しだけ困ったように表情を曇らせた。やがて、ここまで口を閉ざしていた夫人がぽつぽつと語り始める。


「……正確には吸血鬼ではありませんが、全く違うとも言い難い存在です。彼女は、特別な血を持つ方ですから」

 

「特別な、血……ですか」


 先ほど、ノアとフィーネを騎士と姫と形容した伯爵の言葉が蘇る。夫人はどこか躊躇いがちにフィーネの出自を明かした。


「お伽噺のように聞こえるならばそれでも良いのですが……フィーネは、亡国メルヴィルの最後の王家の血を引く姫君なのです。実は私は、亡国メルヴィルの公爵令嬢として生まれたのです。……フィーネの——姫君のお母上である王妃様とは親しくさせていただいたおりました」


「亡国メルヴィルの……姫」


 想像以上に規模の大きな話が出てきて戸惑ってしまう。フィーネは、既に亡き国とはいえ王族の血を引く少女だったのか。


 どくん、と心臓が跳ねる。フィーネは、俺なんかが——出自もろくに分からない、貴族の血はまず入っていないだろう俺なんかが、傍にいていい存在なのだろうか。


「……王国メルヴィルが滅亡するとき、王妃様は私たちに姫君をお預けになりました。その後、国王夫妻はお亡くなりになり、王子様も行方不明——恐らくご遺体が小さく見つからなかったのでしょう。そうして天涯孤独の身となってしまった姫君を、私たちは我が娘として育てることにしたのです」


 辛い過去を語った婦人の表情はやはり晴れなかった。夫人は遠くを見つめるような眼差しで続ける。


「……これはあまり知られていないことですが、メルヴィル王家は、あらゆる異種族の祖に当たる特別な血を持っているのです。吸血鬼も魔術師も魔族も、元を辿ればすべてメルヴィル王家から分かれたもの……。ですから、フィーネも吸血鬼ほど血を必要としなくとも、人の血を飲めば体調が改善する体質だったのです」


 想像していたよりもずっと、フィーネは特別な存在だったようだ。彼女の屈託のない笑みは、一国の姫が見せる気高い笑みというよりも、無邪気な、向日葵のように明るい表情だったせいか、すぐにはイメージが結びつかない。


「……その事実を、ノアは知っているのですか?」


 思ったよりも打ちのめされたような自分の声に驚いてしまう。夫人は小さく微笑んで頷いた。


「ええ……。彼は、フィーネの——姫君に仕える騎士でしたから。もっとも、彼の中では今もその主従関係は続いているのでしょうけれど」


 道理で、と納得する部分がないと言えば嘘になる。ノアがフィーネに向けるまなざしは、実の妹に向けるものとしては許されない熱を帯びていただけに、彼がまだまともな倫理観の中で生きていたことにむしろ安心してしまったくらいだ。


「ノアの中で、フィーネの存在は絶対なのです。フィーネこそが彼の存在意義であり、彼の持ちうる感情の全てを捧げる相手ですから。……彼の右目が赤紫色である理由はご存知?」


 夫人の苦笑交じりに言葉に、俺は小さく頷いた。


「……フィーネから聞きました。彼女が、ノアに自分と同じ色の瞳になるよう我儘を言った結果だと」


「そこまで詳しく話しているなんて、フィーネは相当あなたに心を許しているようですね」

 

 夫人の眼差しに、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。あれは、心を許してくれた証だったのだろうか。確かにこのところ以前に比べれば彼女と心を通わせられていると感じる機会は増えていたが、あれが一つのきっかけだったのかもしれない。


「……クロウ伯爵家に来たばかりのころ、フィーネは泣いてばかりいました。本当のお父様とお母様、お兄様と引き離されたのですからそれも当然でしょう。当時、彼女はまだ5歳……。お父様とお母様に会いたいと、フィーネはそればかり叫んで泣いていました」


 思い出話というには重苦しい雰囲気は拭えなかったが、夫人は懐かしむように微笑む。


「彼女の願いをかなえてあげようにも、既に陛下と王妃様はこの世にはいらっしゃらない……。あの時から忠実な騎士であったノアは悩んだ末に、彼女に偽りの現実を与えることにしました。……本当の家族の記憶を奪い、私たちが実の家族であるように思い込ませたのです」


「……記憶を、奪う?」


 穏やかな話ではない。それも、人為的にある記憶だけを抜き出すなんて不可能なように思えた。


「……ノアは、現代では稀に見る力の強い吸血鬼です。彼には一つ、特別な力がありました」


 特別な、力。思わず息を呑んで、夫人の言葉の続きを待った。彼女は多少躊躇いがちに視線を彷徨わせながら、彼の力の正体を明かす。


「ノアの能力……それは、吸血の際に相手の記憶を少しずつ奪うというものなのです。ノアは、幼いフィーネの血を奪うことで、彼女に王家の記憶を忘れさせたのです」


「……そんな」


 いくらフィーネのためとはいえ、それは横暴が過ぎるのではないだろうか。思わず責めるように伯爵夫妻を見つめてしまう。


「……結果的にそれでフィーネは平穏を手にしたのかもしれませんが……あなた方は止めなかったのですか? それも、彼らが騎士と姫だから?」


「そうです」


 責めるように言い放ったつもりなのに、夫人の肯定の言葉は想像以上に早かった。彼女の赤色の瞳がゆっくりとこちらに向けられる。


「……メルヴィル王家に使える騎士の忠誠は絶対です。たとえ親であっても、口を出すことは出来ない決まりでした。彼もまた、その掟に縛られることを望んでいた。……私たちは、騎士と姫の前ではただの傍観者に過ぎませんでした」


「それは今も変わらない、と?」


「……愚かな掟に囚われる亡国の民とお思いになるならそれでもよろしいでしょう。ですが、私たちが今、ノアとフィーネを追っていないのもそれが理由です」


 他国の事情に口を出すべきではないと分かっているが、年端も行かぬ王族に仕える騎士に好き勝手させているのも如何なものかと思ってしまう。


「……ノアは俺とフィーネを引きはがしたいようでした。それに何か心当たりは?」


「彼は、あなたの存在をもともと面白く思っていませんでしたからね……。心当たりはいくらでも——」


 そこまで言いかけて夫人ははっとしたようにこちらを見上げた。赤の瞳が戸惑うように揺れている。


「っ……もし、フィーネを連れ去った理由が、あなたとフィーネの仲を引き裂くためだと言うのなら……もしかするとノアは、フィーネからあなたに関する記憶を奪おうとしているかもしれません」


「記憶を……?」


 それはつまり、ノアがフィーネから吸血しているかもしれないということだろうか。


 フィーネの細く白い首筋に、いくつも噛み跡が浮かび上がっている光景を想像して、全身の血が怒りで沸き立つようだった。名目は記憶を奪うためとはいえ、どこか歪んだ独占欲を見せるノアならやりかねない。


 それに、フィーネが俺のことを忘れているかもしれないと思うと、どうしようもない喪失感に見舞われた。望んで出会ったわけではなかったが、ようやくここまで心を通わせた相手から自分の存在が消え去るという恐怖に指先が震える。


「……奪われた記憶を取り戻す方法はないのですか?」


 悔しさのまま、ぎゅっと手を握りしめる。爪が手のひらに食い込む感触があったが、そんなことに構っていられなかった。


「……一つだけ、あったにはありましたが……」


 クロウ伯爵は、言いづらそうに視線を彷徨わせ、口を噤んでしまう。過去形で語るその口調が何とも不穏で、失礼とは思いつつも伯爵の前に詰め寄ってしまった。


「何でもいい。教えてください。どんな方法ですか?」


 伯爵は深い赤の瞳を揺らがせてこちらを見上げ、やがてどこか諦念の混じった溜息をついた。


「……亡国メルヴィルに咲いていた、桜という木に咲く花弁を飲ませることです。薄紅色の美しい花びらでしてね……。あれは、吸血鬼やら魔術師やらのあらゆる術の唯一の解毒剤とでもいうべき花でした」


「薄紅色の花……」


 その言葉に、殆ど直感的に俺はロケットの中に閉じ込められたあの花を連想していた。フィーネとも散々話し合った、あの正体不明の薄紅色の花だ。


 何の確証も無い。でも、ひょっとすると、あの花があればフィーネの記憶が戻るかもしれない。


 一縷の望みに賭けてみる価値はある気がした。ロケットは今もフィーネの傍にあるはずだ。


「……ありがとうございました、クロウ伯爵、伯爵夫人。生憎、俺は傍観者にはなれないのでノアとフィーネを探しに行きます」


 別荘の場所はいくらでも調べようがある。二人に反対されても強行するまでだ。


 そう思い、伯爵夫妻の元から立ち去ろうとしたが、背中を向けた俺に伯爵が語り掛けた。


「待ちなさい」


 やはり、止められてしまった。彼らとしても俺を見逃すわけにはいかないのかもしれない。


「……伯爵、フィーネの気持ちを少しでも思うなら——」


「――地図を渡そう。我々が所有する別荘地を指示しているものだ」


 伯爵は部屋の隅に控えていた使用人を呼び寄せると、羊皮紙に描かれた地図を受け取り、それをそのまま俺に手渡した。


 ……まさか、俺に渡すために用意してあったのか?


 伯爵の考えていることは分からなかったが、目の前の赤の瞳は、どこか柔らかな光を帯びていた。


「……君は、滅んだ国の掟に縛られる必要なんてない。君がフィーネを望むなら、君の手で切り開くんだ」


 どうやら考えていたよりも、俺の存在は歓迎されていたらしい。手渡されて羊皮紙を握りしめ、伯爵に小さく笑い返す。


「……ありがとうございます。必ず、フィーネとノアを連れ戻してみせましょう」


 それだけを告げて、今度こそ俺はクロウ伯爵邸を飛び出した。


 目指すはクロウ伯爵家所有の別荘地。いくつかあるからしらみつぶしに探していくしかない。


「……フィーネ」


 どうか、叶うならば彼女が何もかもを忘れる前に、もう一度会いに行きたい。


 そんな願いを抱きながら、俺はひとり、クロウ伯爵邸を後にしたのだった。

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