第35話

「フィーネお嬢様……お目覚めですか?」


「ん……」


 分厚いワインレッド色のカーテンで仕切られた部屋の中、広いベッドの上で体を起こした私は酷い眩暈に襲われていた。思わず、額に手を当て黒く霞む視界に耐える。


「お嬢様……」


 私の傍に寄って来たリアの声は悲愴に満ちていた。どうにか視界の揺れが収まったころに彼女の顔を見つめてみれば、灰色の瞳が痛々しいものを見るように揺れている。


「……リア、えっと……私は……」


 どうにも体が怠くてここがどこなのかもよく思い出せない。どうやら王都のクロウ伯爵邸ではないことだけは理解する。


「ああ、お嬢様……こんなに弱ってしまって……」


 リアは涙ぐむ勢いで私を見つめたかと思うと、そのままぎゅっと私を抱きしめた。今日のリアは甘えっ子だ。


 だが、彼女の温もりに抱きしめられて初めて、自分の体がひどく冷えていることに気が付いた。


「……リア、寒いの」


 半袖のネグリジェから覗いた腕は、自分でも信じられないほど青白かった。寒いと自覚した途端に小刻みに肩が震え出すような気がする。


「少々お待ちくださいませ!」


 リアは慌てた様子でどこかへ駆けて行ったかと思うと、毛布を抱えて戻って来た。そのまま私の肩に羽織らせるようにして、毛布で私の体を包み込む。これで随分温かい。


「……ありがとう、リア」


 はにかむように彼女に礼を述べれば、灰色の瞳はやっぱり苦しげに揺れた。


「っ……お嬢様、どうか血をお飲みくださいませ。いくらでも飲んで構いませんから」


 リアはメイド服の袖の釦を外し、手首を露わにすると、そっと私の目の前に差し出した。


 確かにこの体調不良は、血を飲めばいくらかマシになるのかもしれないが、今はどうにも気が進まない。私は小さく首を横に振って、リアの手から視線を外した。


「……今はとても飲めそうにないの。それより、お水が飲みたいわ。持ってきてくれる?」


「……っお嬢様、このままでは倒れてしまいます」


「……倒れるほどの何かを私はしたの?」


 この体のだるさにも、この場所にもまるで心当たりがなかった。思い出そうとすると重苦しい頭痛に襲われて、それ以上何かを考える気にならなくなる。


「お嬢様……お嬢様は、ノア様に——」


 リアの言葉を遮るように、扉の方からノック音が響き渡る。リアの瞳に怯えの色が混じった気がした。


 リアの反応を不思議に思いながらも来訪者の入室を許可すれば、やって来たのは銀の水差しとコップを手にしたお兄様だった。


 今日も今日とて、溜息が出るほど美しい姿だ。ラフなシャツ姿は却ってお兄様の色気を引き立てている気がする。


「……お兄様」


 どれだけ具合が悪くても、お兄様の姿を見ると気分が晴れる気がする。自分でも呆れてしまうほど、私はお兄様のことが好きらしい。


「おはよう、フィーネ。喉が渇いたかと思って水を持って来たよ」


「まあ、お兄様がわざわざ? ありがとうございます」


 お兄様はベッドサイドの椅子に腰かけると、手慣れた手つきで水差しからコップに水を注ぎ、私に差し出してくれた。本来ならばリアたちの仕事だけれども、お兄様に甘やかされているようで嬉しい。

 

 そのままゆっくりとコップの水を飲み干し、のどの渇きを潤せば、少しだけ気分がよくなったような気がした。


「……体調はどう?」


 お兄様は、端整な笑みを浮かべながら私に問いかけた。その優しい瞳が好きだ。


「ふふ……お兄様のお顔を見たら少し良くなりました。心配かけてごめんなさい」


 空のコップに両手を添えながら、頬を緩める。事情は分からないが、お兄様がこうしてお見舞いに来てくださったのが嬉しい。


「……実を言うと、どうしてここにいるのか……具合が悪い理由すらもよく分からなくて……」


 おずおずと本当のことを告げれば、お兄様は私を安心させるように微笑んで、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれた。


「無理もないよ。君は体調を崩して倒れたんだ。今は、君の静養のために別荘に来ているんだよ」


「……そうでしたか」


 道理で体が重たいわけだ。お兄様に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思いながらも、こうして二人でお話しできることにはやはり喜びを感じてしまった。


「しばらくはここで休もう。父上と母上は用事があって王都から離れられなかったから僕ら二人だけだけど……たまにはこんな休暇もいいよね?」


「ええ! もちろんです! お父様とお母様には、何かお土産を差し上げたいです」


「君の体調がもう少しよくなったら、街へ買いにいこうか。それまでは、安静にしていないと駄目だよ」


 お兄様は私の手から空のコップを回収して、優しく微笑んだ。お兄様と二人で街に行けるなんて、今からわくわくしてしまう。


「はい、お兄様。早く体調を整えますね」


 一日も早く元気になれば、それだけお兄様と一緒に出来ることが増えるわけだ。きちんと栄養と睡眠をとって、回復しなければ。


 お兄様と街を巡ることを想像して一人で浮かれていると、ふと、お兄様が何気なく問いかけてきた。


「ねえ、フィーネ……。クラウスって知ってる? クラウス・ハイデン」


「クラウス、様……ですか?」


 耳慣れない名だった。だが、ハイデンという姓のほうには心当たりがある。


「クラウス様という方は存じ上げませんが……公爵家の一つに、ハイデン公爵家という家門があることは存じております」


 もっとも、知っているのは名前だけだ。王国で数えるほどしかない公爵家の名前だからたまたま頭に入っていただけで、ハイデン公爵家の構成すらもよく分からない。


 突然公爵家の名前を出してくるなんて、一体何事だろう。不思議に思っていると、お兄様が小さな笑い声を上げたのが分かった。


「……そっか、知らないならいいんだ。妙なことを聞いてごめんね? フィーネ」


 ひどく満足げな声で、お兄様は私に甘く微笑みかけた。その笑みを見ただけで、頬が熱を帯びる気がして思わず視線を逸らしてしまう。

 

 そうして何気なく見やった部屋の隅で、リアが、信じられないものを見るかのように震えているのが分かった。今日のリアは少し様子がおかしい。もしかしてリアも体調が優れないのだろうか。


「……リア、大丈夫?」


 空気に徹していたリアに思わずこちらから話しかければ、リアが私の背後を見てびくりと肩を揺らしたのが分かった。


 ……お兄様を見て怯えているの?


「お兄様……リアに何かしましたか?」


 余計な探りを入れることなく直球に訊ねれば、お兄様は優し気な笑みを微塵も崩すことなく僅かに小首をかしげた。


「さあ? ……リア、もしも体調が優れないようなら無理しなくていいよ。フィーネのことは僕に任せて」


 リアは全力で首を横に振り、僅かに俯きながら答えた。


「……いえ、お嬢様のお傍に、いさせてください」


「リア、無理はしないでね」


 どこか怯えた様子のリアが気がかりでならなかったが、ここにいたいと言う彼女を追い出す理由も無かった。


 リアは言葉もなく頷いて、再び空気に徹してしまった。私はしばらく彼女の様子を伺っていたのだが、ふと、お兄様が私の手を握ったのをきっかけに、お兄様に意識を戻す羽目になってしまった。


「あとで一緒に食事を摂ろう。フィーネの体を考えて、いつも以上に栄養に気を遣ったメニューにしてもらっているんだ」


「ええ、楽しみですわ、お兄様。私の体調を思いやってくださってありがとうございます」


 私もそっと、お兄様の手を握り返す。すると彼は、何の前触れもなく私の左手の薬指に口付けを落とした。


 結婚指輪をつけるその指に口付けるお兄様の心理は、知りたいけれど知ってはいけないような気がする。再び頬が熱を帯びる気配を感じながら、私は今日も、やり場のない恋の熱に浮かされるのだった。

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