第19話
翌朝、リアに起こされるまでもなく目覚めた私は、早々にクラウスのいる客間を訪ねていた。いろいろと考えてしまってよく眠れなかったので、体はどことなく怠いままだ。
「気分はどう?」
客間の広いベッドの上で瞼を擦るクラウスは、普段の憎々しい様子とは違ってどこか可愛げがあった。まだ意識がはっきりとしていないのか、ぼんやりとした紺碧の瞳でこちらを見上げてくる。
「……ここは」
クラウスは徐々に微睡から抜け出しているようで、視線だけで辺りを見渡していた。私はベッドサイドの椅子に腰かけて、用意されていたポットから水を汲む。
「クロウ伯爵邸の客間よ。昨夜のことは覚えている?」
ゆっくりと上体を起こしたクラウスにグラスに入った水を手渡しながら、彼の様子を伺った。やはり、どことなく疲れたような表情のままだったが、昨夜よりはいくらか顔色がマシだ。
「……広間で、人に囲まれて気分が悪くなったことは覚えているが……その後のことは、あまり」
きまり悪そうにそれだけを呟いたクラウスは、自身の右手に包帯が巻かれていることを不思議に思っているようだった。怪我をしているせいでどことなくおぼつかない手つきの彼を見ていられなくて、思わず彼が持つグラスに手を添える。
「そうね、気分が悪くなって床に崩れ落ちた拍子に、あなたは割れたグラスで怪我をして……あんまり調子が悪そうだったから、侯爵邸から近いこの屋敷に移動したのよ。ハイデン公爵邸には知らせを送ってあるわ」
クラウスが水を飲むのを手伝おうとすると、彼は煩わしいとでも言わんばかりに私の手を振り払った。段々普段の調子を取り戻してきたようだ。
「……その配慮には感謝するが、よくあいつは俺を屋敷に入れたな。問答無用で外に放り出しそうなものだが」
グラスの水を一気に煽って、クラウスは軽く俯く。私は空のグラスを受け取りながら、昨夜のお兄様の様子を打ち明けることにした。
「それがね……お兄様の様子が少し変なのよ」
「お前の兄はいつもおかしいだろう」
何を分かり切ったことを、と言わんばかりに紺碧に瞳で見つめてくるあたり、彼は既にかなり本調子に近い。こうなってくると先ほどまで見せていた可愛げが嘘のようだ。
「そういうことじゃなくて!」
サイドテーブルにグラスを置いた後、私は改めてベッドサイドの椅子に腰かけた。
「あなたの血の臭いでね、何か気付いたみたいだったの。酷く動揺してしたわ。あんなに戸惑うお兄様は初めて見たもの」
「俺の血の臭いでようやく己の罪を思い出したのか? 鈍い奴だな」
吐き捨てるように笑うクラウスに、私はむっとして反論する。
「まだお兄様だって決まったわけじゃないわ。あんまり悪く言わないで」
「ほぼ確定だろう? 白銀の髪に、俺が囚われていた時期に亡国メルヴィルに滞在していたという記録、加えて俺の血の臭いに覚えがあると来た。これ以上何を探ろうって言うんだ?」
「……お兄様からちゃんとお話を聞かなきゃ、信じられない」
「そりゃお前はそうだろうけどな……」
クラウスが呆れたように溜息をつくと同時に、客間のドアがノックされる。使用人の誰かが、クラウスの身支度に来たのだろうか。
クラウスの返事より先に私が入室を許可すれば、ゆっくりとドアが開かれた。その扉の隙間から姿を現した人物に、私もクラウスも多少なりとも驚いてしまう。
「……お兄様?」
まだ朝も早いというのに、すっかり身支度を終えたお兄様は、静かに私たちの元へ歩み寄った。
意外だ。お兄様がクラウスを屋敷に止めることを許しただけでなく、わざわざ見舞いにまで来るなんて。クラウスも似たような気持ちなのか、お兄様の真意を探るように、多少警戒心を露わにしながらお兄様を見上げていた。
「……気分はどうです、クラウス殿」
お兄様の声は、どこか覇気のないものだった。昨晩の戸惑いをまだ引きずっているのか、今までクラウスに向けていた態度からは比べ物にならないほど物腰が穏やかだ。
「……おかげさまで。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、義兄上殿」
こんな時でもお兄様を挑発することを忘れないのだから、最早称賛の域に達する。心の中で目一杯の皮肉を込めた拍手を送りながら、クラウスとお兄様の様子を見守った。
「あなたに、一つ伺いたいことがある」
お兄様は、前置きもそこそこに、クラウスを見下ろして問いかけた。
「クラウス殿、あなたは、どこの国の出身ですか?」
予想外のその質問にクラウスは多少なりとも戸惑っているようだったが、すぐにあの胡散臭い笑みを浮かべた。
「……ご存知の通り、この王国レヴァインですが?」
彼は孤児なので本当のところは分からないだろうが、対外的にはハイデン公爵家の嫡男ということになっているのだから、その答えは当然だった。
お兄様は、一体何を聞き出したかったのだろう。クラウスの答えを聞いたお兄様は、何度か頷きながら、どことなく自嘲気味な笑みを浮かべる。
「それはそうですよね……。申し訳ない、今の質問は忘れてくださって結構だ」
それではお大事に、とだけ告げてお兄様は踵を返そうとする。だがその後ろ姿を、クラウスが引き留めた。
「俺について、何か思いだしましたか? 白銀の君」
挑発するようなその物言いは、核心をつく台詞だった。だが、振り返ったお兄様は怪訝そうに眉を顰める。
「白銀の君……? 何ですか、その妙な二つ名は」
お兄様の表情は、心底疑問に思うようなもので、少なくとも私にはお兄様には本当に心当たりがないように見えた。
お兄様は優秀なお方だが、感情だとか心の揺らぎを隠すという点においてはそこまで優れているわけではない。もっとも、お兄様が私の話題以外で動揺することなどほとんどない上に、私以外の人間が見てもお兄様の感情の揺らぎを見抜くことは難しいので、問題なく生きてきてはいるのだが。
白銀の君。その異名に心当たりがありながら、お兄様がここまで白を切り通せるとは思えなかった。私にも見抜けないほどの演技力を隠していたとしたら別だが、どこから見ても自然な表情だったのだ。
クラウスも似たような印象を抱いたのだろう。軽く面食らったように目を瞬かせたが、すぐに意味ありげな笑みを浮かべて挑発を繰り返す。
「……大した演技だ。幼い子供を虐待しておきながら、よくもそんな涼しい顔が出来るものだな」
憎悪のこもった声でクラウスは凄んだが、お兄様はますます困惑したように眉を顰める。
「子どもを虐待? 先ほどから何の話ですか?」
「覚えていないとは言わせないぞ。亡国メルヴィルの廃教会で、白銀の君と呼ばれていたお前は、毎晩毎晩幼い子どもを痛めつけていたじゃないか」
「……確かに母の療養のために、亡国メルヴィルに滞在していたことはありますが……どの教会にも立ち寄ったことはありません」
亡国メルヴィルに滞在していたという情報自体、私も知らないことではあるのだが、あの国はお母様の実家があった国だ。療養のために里帰りしていたと言われても、何ら不自然はない。
言葉通りまるで心当たりなどない様子のお兄様に苛立つように、クラウスは鋭い眼差しでお兄様を睨みつけた。
「……っこの傷に心当たりがあるだろう!? お前が笑いながら、俺に刻んだ傷だ!」
クラウスはおぼつかない左手でシャツをはだけさせると、胸や肩を露出させた。引き締まったその身体の上には、刃物で切り刻まれたような無数の古傷が残っている。
「っ……」
話には聞いていたが、いざ実際の傷跡を見せつけられると言葉に詰まってしまう。こんな傷を、彼は幼いころに刻まれたのか。
彼が望みもしないと分かっていても、どうしたって憐れむ気持ちが湧き起こってくる。
「……虐待されていた子どもというのは、あなたのことなのですか、クラウス殿。なぜ、ハイデン公爵家の御令息である貴殿がそんな目に……?」
お兄様もまた、ひどく戸惑ったような様子でクラウスを見つめていた。その紅色の瞳は痛々しいものを見たとでも言わんばかりに揺れていて、私の目で見ても演技には思えなかった。
「……本当に覚えがないのか、ノア・クロウ」
クラウスは唖然としてお兄様を見つめていた。クラウスのその様子に、お兄様はますます表情を曇らせるばかりだ。
「はい。……少なくとも白銀の君という異名にも、あなたが虐待されていたという事実にも、心当たりはありません」
お兄様はまっすぐにクラウスを見つめて告げた。深紅の左目を見る限りでは、嘘をついているようには思えない。
「……ですが、あなたが亡国メルヴィルにいたという事実には、僕も興味があります。調べたいことが出来たので、僕はこれで失礼します。……フィーネに無体な真似をしたら生きて返さないので、そのおつもりで」
さらりと不穏なことを告げて、今度こそお兄様は部屋を後にしてしまった。私との仲を牽制する辺りは普段通りだが、全体的に元気がないようにも思えるお兄様だった。
残された私たちは、しばらく何も言わずにお兄様の様子を思い返してみた。やはり、どれだけ考え直してみても、お兄様が私たちを欺いているようには思えない。
「……大した演技力だな」
クラウスは吐き捨てるように告げたが、彼自身、先ほどのお兄様の態度を演技だと信じているかは怪しかった。それくらいお兄様は自然で、クラウスが虐待されていたという事実が明らかになった際には、嘘偽りのない憐れみを覗かせていたのだ。
「……あれは演技じゃないわ。お兄様は、私を欺けるほど感情を隠すのは上手くないのよ」
「お前はなんとでも庇えるだろう」
「でも、あなただって気付いているんでしょう。あのお兄様の態度を見ている限りでは、お兄様が白銀の君だとは思えないわ」
「でも他に誰がいる? 白銀の髪に深紅の瞳を持つ吸血鬼はあいつしかいないんだ」
クラウスは乱れたシャツのままで、苛立ちを隠さずに前髪をくしゃりと掻き上げた。
お互いに、言葉を探るような沈黙が数十秒続いた。今、私が何を言ったってクラウスは否定するばかりだろう。それが分かっているだけに、次に何を言えばいいのか分からない。
先に沈黙を破ったのは、深い溜息をついたクラウスだった。
「……あいつの右目は、なぜ前髪で隠れているんだ? 怪我でもしたのか?」
それは、私の心の古傷を抉る質問だった。どくん、と大きく跳ねた心臓を押さえるように、そっと胸に手を当てる。
「……怪我、と言えばそうなのかしら」
何とか誤魔化せないものかと逡巡するも、続きを促すようなクラウスの鋭い視線に絡み取られて、仕方なしに彼に告白する決意を固める。いずれは避けては通れぬ話題だろう。
「もう……随分昔のことになるわ」
蘇るのは十年前のある夏の記憶。まだ私が、六歳やそこらの少女だったときの出来事だった。
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