第18話
広間を抜け、人気のないバルコニーへ移動した私は、気持ちを落ち着かせるべく、バルコニーに用意されていた椅子に腰かけていた。
夏の夜の生温い風が、ふわりと黒髪を舞い上げる。侯爵邸の庭は素晴らしいものだったが、その光景に目を奪われることも無く、私はそっとクラウスのロケットに視線を落としていた。
あの日、クラウスと契約を交わした夜に預かった、くすんだ銀色のロケットだ。あの契約以来、基本的に肌身離さず持ち歩いていた。
細かい傷をなぞるように指先を滑らせ、ゆっくりとロケットを開く。押し花のような形で押し込められた数枚の薄紅色の花弁が、月影に照らされて何とも幻想的だった。
この花が、どうしてか懐かしくて仕方がない。名前も知らない花なのに、胸の奥を抉り取るような切ない感傷を呼び起こす。
どうして、こんなにもこの花が気にかかるのだろう。先ほど蘇った一枚の絵のような光景の中には、この花は出て来なかったというのに、どうしてこの花のことを連想してしまったのだろう。
もやもやと、割り切れないような気分だった。何か大切なことを忘れている。それは最早確信に近かったが、何を忘れているのかすら分からないこの状況はどうにももどかしくてならない。
……そう言えば、お兄様も仰っていたわね。
――いつになったら君は、全部思い出してくれる?
不覚にも、クラウスとの婚約話が持ち上がったあの日のお兄様の不安定な姿を思い出してしまい、脈が早まるのが分かった。
……こんなときでも、私の心を支配するのは、お兄様なのね。
思わず胸に手を当てて、祈るようにロケットを握りしめる。少し落ち着いたら、広間へ戻ろう。クラウスは人が苦手なのだ。どうしてか私といるのは平気らしいが、それならば尚更早く戻ってあげなくては。
……変ね、大嫌いなあの男のことを、いつの間にかこんな風に心配するようになるなんて。
自分でも何だか可笑しくて、一人皮肉気な笑みを浮かべたそのとき、背後から甘く優しい声がした。
「……フィーネ」
その声に、少し落ち着きかけていた脈が再び早まるのを感じた。何となく気まずくて、咄嗟にクラウスのロケットを仕舞うも、振り返るより先に、声の主は私の前へ回り込む。
「……お兄様」
月影を背に負うようにして私の前に立ったお兄様は、どことなく心配そうに私を見ていた。ずっと私たちを監視するように見つめていたお兄様のことだ。私とクラウスが突然に涙を流した場面も見ていたのだろう。
お兄様はそっと私の手を取ると、椅子の前で膝をつくようにして私を見上げた。兄妹とはいえ、年長者を跪かせることにはいつも抵抗感を覚えるのだが、お兄様はよくこの体勢で私とお話をなさる。
「……私のこと、避けていたのではなかったのですか」
少し意地悪な言い方だろうか。ただでさえ動揺している最中にお兄様がいらしたから、つい言葉に棘が出てしまった。
「……フィーネが泣いているのを放っておけるほど、冷たくはなりきれない」
何ともお兄様らしい答えだ。何より、その優しさを嬉しいと思ってしまう自分が嫌だった。
私は、私からお兄様を解放するために、クラウスとの婚約を進めるなんていう茶番を演じているのに。肝心の自分の心は、今もこんなにも強く、お兄様に惹きつけられたままだ。
「……あいつに何かされたの?」
お兄様の深い紅色の瞳はやっぱり翳っていて、並々ならぬ憎悪を浮かばせて私を見上げていた。ここで肯定しようものなら、このまま彼を殺しに行きそうな勢いだ。
「……いいえ、ただ、どうしようもなく、懐かしくて……胸が痛くて……」
あの不思議な体験を、どう言葉に表してよいのか分からなかった。訳の分からない懐かしさに襲われて涙が出たなんて言ったら、このままお兄様に連れ帰られそうだ。
「……お兄様、私、一体何を忘れているのでしょう? お兄様も仰っていたでしょう? 私が、何かを忘れているって。いつになったら思い出すのかって……」
再び涙が溢れそうになるのを感じながら、私はお兄様に懇願した。お兄様の左目が、戸惑うように揺れる。
「お兄様はそれを私に思い出してほしいようですが、教えてはくださらないのですか? 私、怖いのです……訳の分からない懐かしさが胸を締め付けるのは、まるで私が私じゃなくなっていくかのようで……」
お兄様、と呟いて目が覚めるあの夢も涙も、本当は怖くて仕方がない。何かを忘れていると分かってはいても、思い出してしまったら、大切なものが崩れ去ってしまうような気がして動けなくなる。
「……僕が教えたところで、意味が無いよ。君が思い出さないのなら」
「教えて下されば思い出すかもしれませんわ」
「これを僕が教えるのは、君が今まで見てきた世界を全否定するような行為に等しいんだよ」
お兄様は不意に立ち上がると、椅子に座った私を抱きしめた。今はお兄様から血の臭いはしない。お兄様の優しい香りだけに包まれて、安心感と背徳感で、一度は止まっていたはずの涙が再びぽたぽたと流れだす。
「僕だって……今すぐにでも君に思い出してほしい。でも……それによって君が壊れてしまうかもしれないと思うと恐ろしくもある」
言葉通り、お兄様は珍しく震えていた。私の肩口に顔を埋めるようにして、深い葛藤と戦うように、一層私を引き寄せた。
「言えないよ、僕からなんて。幼い君が縋った世界を、僕は僕の手で壊せない」
「っ……」
「君が望むことなら、何だってするよ。もう片方の目も血もこの命も、何だって君にならあげられる。でも……これだけは、ごめん。ごめんね、フィーネ」
懺悔のような言葉を囁いて、お兄様は私の涙を奪うように目尻に口付けた。甘い寒気を呼び起こすその感触に、どうすればいいか分からなくなってますます涙が零れ落ちる。
……私が欲しいものは、お兄様の目でも血でも命でもないわ。
昔からずっと、私が望むものはひとつだけ。どれだけ切望したとしても、決して手には入らない、手に入れてはいけない、たったひとつの――。
その瞬間、広間のほうで人々が騒めく気配がした。お兄様の腕が緩んだのを機に、何気なく広間を見やれば、人だかりが出来ている。
「……一体何事でしょう?」
先ほどまでの健全な賑やかさとは違う、どことなく不穏な空気に思わず表情を曇らせる。
「僕が様子を見てくるよ。フィーネはここで――」
お兄様がそう言いかけた瞬間、人混みの中で崩れ落ちる黒髪の青年の姿が目に入った。
「っ……クラウス?」
はっきりとは見えないが、右手を負傷しているようにも見える。気づいた時には、軽くドレスを摘まみ上げて、お兄様の元から駆け出していた。
私を見た人々は道を譲るように左右に避けていく。クラウスの元へ辿り着くのはあっという間だった。
「クラウス! 一体どうしたの……?」
クラウスは既に立ち上がり、右手をハンカチで押さえて俯いていた。彼の足元には割れたグラスが落ちていて、それで手を切ったのだと察する。
何より心配なのは、クラウスの顔色が真っ青なことだ。かなり気分が悪そうだ。
彼の周りには、色とりどりのドレスを身にまとったご令嬢たちが押しかけていて、いくつもの香水が混ざりあった甘ったるい空気が漂っている。
「別に何でもない。少し……気分が優れなかっただけだ」
酔いつぶれるほどお酒を飲んだわけでもないのに、普段憎たらしいほど元気なクラウスが床に崩れ落ちるなんて、どう考えたって異常事態だ。
「何でもない、って……」
戸惑うように彼の傍に寄った瞬間、ふと、ハイデン公爵の言葉が蘇る。
――人に囲まれると、吸血鬼に囚われていた時のことを思い出してしまうようで……。
改めて周囲を見渡せば、周りは人の熱を感じるほどの大勢の人たちで固められていた。その視線はどれもがクラウスを案ずるような、善意から来るものだったが、クラウスからすればそんなことは関係ないのだろう。大勢に囲まれるというだけで、暗い過去を思い出してしまうに違いない。
クラウスは今も倒れ込みそうなほど、どこか不安定な姿だった。まさかこのまま放っておくわけにもいかない。
「……今日はもう帰りましょう。ああ、それよりまず、手当てをしなくちゃ……」
クラウスの手を引きながら人の輪を抜けようとしたとき、ふと、私たちの前に人影が立ちはだかる。
「……お兄様」
どうやら私を追ってきたらしい。私がクラウスの手を取っていることには不快そうに表情を歪めたが、すぐに私たちに手を差し伸べてくれた。
「……手を貸すよ、フィーネ」
「ありがとうございます、お兄様」
焦点の定まらない目で私たちを見るクラウスを、二人で囲むようにして広間から連れ出す。
だが、クラウスの傍に近寄った瞬間、お兄様ははっとするように、クラウスの負傷した右手を見つめた。それは驚きというよりも、衝撃を受けたと形容するに相応しい表情だった。
「……っこの、血は……?」
傍から見れば単にクラウスが怪我をしたことに驚いているように見えるのかもしれない。だが、クラウスを快く思っていないお兄様が、クラウスが怪我をしたという事実だけで、そんな衝撃を受けるはずもない。
ということは、理由は一つだった。お兄様は、クラウスの血液自体に、何かを感じ取ったのだ。
吸血鬼の形質が濃いお兄様は、普通の吸血鬼よりも、個人の血を鑑別することに長けている。もしも本当に過去にクラウスとお兄様に接点があったのなら、この血の臭いをきっかけに何か思いだしていてもおかしくはなかった。
「……彼の血に、心当たりがあるのですか?」
広間から離れるようにして、人気のない廊下を歩きながらも問いかける。これはもしかすると、クラウスの過去を解き明かすことに繋がる重要な質問なのではないだろうか。
だが、お兄様は、何も言わなかった。何も言わず、ただただ衝撃に耐えるようにしてクラウスを見つめ、その後で私を見た。
クラウスはクラウスで、過去の記憶に苦しんでいるのか、私たちの会話に介入してくることはなく、黙って私たちに連れられていた。
普段のクラウスならば、吸血鬼二人に連行されるなんてこの状況は、絶対に許さないはずだ。そう考えるとクラウスは相当気分が優れないのだろう。
「……ここからだと、伯爵邸の方が近いですわ。お兄様、クラウスを連れ帰ってもいいでしょうか?」
「……そう、だね。そうしようか」
お兄様は弱々しい笑みを浮かべながらも、やはりどこか茫然としたご様子だった。やはり、クラウスの過去に繋がるような何かを思い出しておられるのだろうか。
疑念は尽きなかったが、今はクラウスを休ませることが先だと思い直し、二人に変わって伯爵家の馬車を手配する。そのついでにハイデン公爵家の使用人に簡単に事情を説明し、クラウスを伯爵邸に連れ帰る旨を告げてから、早速三人で馬車に乗り込んだ。
お兄様への復讐を誓うクラウスと、お兄様と、私。まさかこの三人で馬車に乗ることになるなんて、思いもよらなかった。もしかしなくても、これが最初で最後だろう。
伯爵邸へ向けて馬車が動き出すと、間もなくクラウスが脱力したように私に頭を預けてきた。どうやら眠ってしまったようだ。昔の夢を見ているのか、決して安らかな寝顔ではない。
お兄様は、問答無用で私とクラウスを引きはがすかと思ったのに、未だに遠くを見るような目で私とクラウスを見つめていた。その瞳に浮かぶのは翳りでも憎悪でもなく、ただただ戸惑うような色だった。
私はクラウスの負傷した右手をハンカチでそっと押さえながら、眠る彼を見つめた。閉じられた瞼の隙間から、一粒の涙が零れ落ちる。
「……フィー、ネ」
まるで譫言のようなその響きは、普段のクラウスらしからぬ、縋るような、そして焦がれるような声だった。
憎いはずのクラウスに、たった一言名前を呼ばれただけで、今は訳の分からない切なさばかりが呼び起こされてしまう。
「……そんな風に呼ばないでよ。いつもの方がずっといいわ」
心を焦がすような切なさを誤魔化すように、私はクラウスから視線を背けた。
私と、お兄様と、クラウス。私が忘れてしまった記憶の中に、この三人を結び付ける何かがあるのだろうか。
窓から覗く月明かりに、妙に感傷的な気分になってしまう。馬の蹄の音が小気味良く響いていた。
夏の夜、馬車は感傷と正体の知れない切なさを連れ立って、私たちを伯爵邸へと導くのだった。
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