第38話
「フィーネ様、体調はいかがですか? 少しでも具合が悪くなったらすぐに僕に仰ってください」
記憶を取り戻した翌朝、私とノアお兄様、クラウスの三人は、クロウ伯爵家の紋が付いた馬車に揺られてクロウ伯爵邸を目指していた。今は、私の隣にノアお兄様が座り、私たちの向かい側にクラウスが座っているという形だ。
記憶を取り戻してからというもの、ノアお兄様は完全に私を亡国メルヴィルの姫として扱っている。甘ったるいほどに過保護なのはいつもと変わらないが、敬語で話しかけられるとノアお兄様はお兄様ではないのだという事実をまざまざと突き付けられて、気恥ずかしくてならなかった。
一方のクラウスと言えば、どこか茫然とした面持ちで私を眺めていた。そこに、いつものような意地悪な面影は微塵も感じられない。話しかけても心ここにあらずと言った様子なのだ。
自分が亡国メルヴィルの王家の血を引く者だという衝撃もさることながら、私が妹であるという事実もまだまともに認識できていないのだろう。
それは私も同じだった。クラウスが私の本当のお兄様だなんて、信じられない。
だが、腑に落ちる部分があることも確かだった。クラウスは私にだけは触れてもストレスを感じないようであったし、夜会でのダンスは練習もしていないのに息がぴったりだった。
何より、私たちが見ていた薄紅色の花弁が舞う光景が、私たちを結び付ける証のような気がしてならないのだ。
「ノアお兄様……その、そう丁寧な言葉で語り掛けられると何だか気恥ずかしいですわ。今までのようにお話になってくださいませんか?」
まともにノアお兄様のお顔を見られないまま、俯くように強請れば、彼は悩まし気に溜息をついた。
「……なんて可愛いんだろう。分かり……分かったよ、フィーネの、望むままに」
ノアお兄様は甘く微笑んで、私の左手を取るといつものように薬指に口付けた。そのままこちらを見上げる視線には絶妙な色気が漂っていて、のぼせてしまいそうだった。
ふと、じとっとした視線を感じて顔を上げれば、クラウスがこちらを怪訝そうな顔で見ているところだった。呆れとも悔しさともその表情には、思わず曖昧に笑い返すしか出来ない。
「おやおや? どうしました? レオン殿下? フィーネに簡単に口付けられる僕が羨ましいですか?」
ノアお兄様には、クラウスとの婚約の経緯をすべて話終えている。つまり彼は、クラウスがノアお兄様への復讐目的で私に近付き、ノアお兄様を苦しめようとしていたことを知っているのだ。
「ノア、お前な……」
明らかに悔し気に顔を歪めるクラウスを前に、お兄様はどこか意地の悪い笑みを浮かべる。
「許されない想いの苦しさを思い知ればいいんですよ。ご心配なく、あなたの大切な妹君は僕がこの先も守り抜きます」
「フィーネの血に酔っていた化け物がよくもまあそんなことを言えるな……」
「……クラウス、そんな言い方はないわ」
思わず口を挟めば、クラウスが頭を抱えて溜息をついた。
「フィーネは黙っててくれ……」
ノアお兄様はざまあみろと言わんばかりに、口元を歪ませてクラウスを見つめている。昨夜、クラウスが私に桜の花弁を口移しで飲ませたことを相当根に持っているらしい。ノアお兄様にも意外に子供っぽい一面があるのだと知った。
だが、ここまでノアお兄様にいじめられているクラウスも何だか不憫だ。結局あの口移しは治療の一環とみなすことにしたのだし、そろそろ許してあげて欲しいと思うのが本音だった。
クロウ伯爵邸についたころには、すっかり夕方になっていた。出迎えてくださったお父様とお母様に、一も二もなく抱きしめられる。
「ああ、良かった、フィーネ……」
「お母様……」
お二人が私のことを、それはもう心配してくださっていたことが痛いほどに伝わってきた。血のつながりはなくとも、お二人は私にとってのお父様とお母様だ。
その後、お茶をいただきながら私の記憶がすべて戻ったこと、そしてクラウスがレオンであることをお父様とお母様にも説明すると、お二人は衝撃を隠しきれていないようだった。
「まさか……あなたが、レオン殿下……」
「……どうにもその呼ばれ方をするのは恥ずかしいのですが、ノア曰くそうらしいですね」
どこか投げやりなクラウスは、薄く笑うように告げた。クラウスの簡単な生い立ちを明かせば、吸血鬼に苛まれていたという過去にはお父様もお母様も苦し気な表情をなさったが、クラウスが今こうして生きていることには安堵しているようだった。
しばらくの沈黙の後、お父様がまじまじとクラウスを見つめる。
「……ご無事で何よりでした。あなたを苛んだミシェル嬢やその取り巻きの吸血鬼たちには、近々何らかの処分が下されるでしょう。もちろん、ノアとの縁談も破談になります」
あんなにもあっさりとクラウスを苛んでいたことを語ったミシェル嬢が、改心するとは考えにくい。恐らくは、この先一生吸血の機会を奪われ、屋敷の地下牢などに幽閉されるのだろう。人の世を乱す危険のある吸血鬼には、容赦のない罰が下されるのが常だった。
クラウスにとっては許せる相手ではないだろうが、これで一応クラウスの復讐は完了したことになるのかもしれない。
「……もしかすると、ハイデン公爵は、あなたがレオン殿下だと分かって、養子としてお迎えになったのかもしれませんな。ハイデン公爵は、メルヴィル王家との縁の深いお方ですから……」
お父様の言葉に、いつかのハイデン公爵が言っていた「身分差を越えた友人」とは、私とクラウスの本当の両親のことだったのではないかと思い至る。孤児を引き取って公爵家の後を継がせるなんて大胆な人だと思っていたが、クラウスの出自を知っていたのならば、そうおかしな話でもないように思えた。
クラウスは、一連の話を神妙な面持ちで聞いていた。どこか浮かない顔をするクラウスが心配で、励ますようにそっと手を握ってみる。彼の紺碧の瞳が私に向けられたが、どこか切なげな色を帯びてすぐに逸らされてしまった。
「……フィーネとの婚約は、解消しなければなりませんね。結婚する前に俺たちをどうにか引きはがそうとしたノアには、結果的に感謝しなければならないのかもしれません。神と人の倫理に背かずに済んだのですから」
その言葉はどうにも重苦しかった。やはり、クラウスは私のことを憎からず思い始めてくれていたのだと知って、こちらとしてもなんとも複雑な心境になってしまう。
私だって、恋のときめきとまでは言わずとも、クラウスのことを好きになり始めていた。いずれ恋に発展する余地が十分にある好意だっただけに、切なさを覚えるのは私も同じだ。
こんなときでも、ノアお兄様はどことなく勝ち誇ったような笑みを浮かべている。ノアお兄様は、実は相当意地悪なのではないか、と今日一日で私は思い始めていた。私に対しては甘いにも程がある優しさばかり向けているから、今まで気づけなかっただけなのかもしれない。
どことなく切なげな空気になった応接間の沈黙を、お母様の華やかな声が打ち破る。
「婚約の解消? なぜです?」
お母様は心底不思議そうな表情でクラウスを見つめていた。彼の紺碧の瞳が戸惑うように揺れる。
「なぜって……俺とフィーネは兄妹なのでしょう? いくらこの国の人間に悟られることがないとはいえ……倫理的に許されることではない」
クラウスの言うことはもっともだった。私もお母様の言葉が不思議でならない。
お母様はしばらく小首をかしげるようにして、私とクラウス、そしてノアお兄様を見つめていたが、何でもないことのように告げる。
「許されますわ。だって、レオン殿下とフィーネは、血縁上は従兄妹同士ですのよ。レオン殿下のご両親が早くに亡くなられたので、レオン殿下は陛下と王妃様が養子としてお引き取りになったのです。そのため、フィーネとは兄妹として育っていましたが……」
「従兄妹!? ちょっと待ってください、母上。それは僕も聞いていませんよ」
ここにきて、ノアお兄様が明らかな焦りを見せ始める。お母様は悪びれる様子もなく淡々と告げた。
「あら、ノアは知らなかったの? まあ、あなたも幼かったから無理もないかしら? 隠していたわけじゃないのよ」
亡国メルヴィル王家の家系図を見れば一目瞭然よ、とお母様は優雅に微笑む。本当に隠していたわけではないのだろうが、ここにきてお兄様の顔色が青ざめていくのが分かった。
反対に、先ほどまで、切なげな表情で弱々しく私の手を握っていたクラウスが、徐々にいつもの調子を取り返していくのが分かる。
クラウスは指を絡ませるように私の手を強く握ると、私の腰を引き寄せてにやりと笑った。
「成程。それなら婚約を解消する必要はありませんね。従兄妹同士の結婚なんて高位貴族の社会ではよくあることだ。ハイデン公爵家とクロウ伯爵家の繋がりも出来て、両家はますます安泰。破棄する理由が見当たらないな」
なあ、フィーネ? と私に同意を求めてくるクラウスに、狼狽えて曖昧な笑みを返すことしか出来ない。
「冗談じゃない。フィーネをくれてやるわけにはいきませんよ。聞けばあなたはフィーネを殺そうとしていたようではないですか。そんな危険な男に、大切なフィーネを渡すわけにはいきません」
「散々フィーネの血を吸って、倒れるまで追い込んだ吸血鬼はどこのどいつだったかな、ノア? それに考えてみろよ、今のお前とフィーネは血は繋がっていないとはいえ兄妹ということで通っているんだぞ? どうやってフィーネを自分のものにするつもりなんだ」
「フィーネは嫁がせません。クロウ伯爵邸で一生を過ごしてもらうので」
さらりと怖いことを言うお兄様にも笑みが引き攣ってしまう。お兄様は私の前に歩み寄ると、床に膝をついて、空いている私の手に自らの指を絡めた。
「フィーネ、大丈夫、心配いらないよ。僕が必ず守ってあげるから。君は今まで通り楽しく暮らしてくれればいい」
「これだから拗らせた騎士は困る。フィーネの血の味を知った吸血鬼の傍に、いつまでも彼女を置いておくとでも?」
「……渡さない、絶対に。フィーネは僕のものだ」
ノアお兄様は鋭い視線でクラウスを睨み上げた。普段は隠れて見えない赤紫の右目まで垣間見えて、相当な迫力だ。
クラウスもこれには多少たじろいだようだったが、すぐにあの不敵な笑みを浮かべて私の肩を抱いた。
「フィーネ、こういう執着気質な男はやめておいた方がいい。そのうち外にも出してもらえなくなるかもしれないぞ。反面、俺はお前を束縛するようなことはしないと誓おう。そうだ、また一緒に釣りをしないか? 今度は海に行こう」
「海なんて危ない場所には行かせない。フィーネ、今度こそ僕と二人で旅行に行こう。いつか観たいと言っていたベルニエ帝国の歌劇を観に行くのも悪くないね」
互いに負けじと言い合いを始める二人には困ってしまった。助けを求めるようにお父様をお母様に視線を送るも、お二人とも微笑ましいものを見るような目でにこにこと微笑むばかりだ。
だが、確かに息ぴったりに言い合いを始める二人は仲が良いと言えばいいのかもしれない。もしも王国メルヴィルが滅亡せずに、今も王城で暮らしていたのなら、こんな光景が当たり前になったのだろうか。
そう思うと、不思議とどちらのことも憎めないような気がしてきた。思わずくすくすと笑い声を上げながら、二人の「お兄様」が私のことなどそっちのけで言い争う様子をぼんやりと眺める。
応接間には橙色の優しい光が差し込んでいた。欠けていた記憶が満ち足りたのをきっかけに、新たな何かが芽吹くような、そんな予感に胸を震わせて、私はいつまでも大好きな二人のことを見つめていたのだった。
—————————
以下あとがきです。
本当は2章仕立てで書こうかと思っていたのですが、ひとまずここで区切らせていただこうかと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
吸血伯爵令嬢フィーネの追想録 染井由乃 @Yoshino02
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