第37話

「ノ、アお兄様……」


 青年の腕に抱きしめられながら、私は立った今押し寄せた記憶の波の中から、彼の幼いころの姿を拾い上げた。


 まだ右目が変色する前の、朗らかな笑みを浮かべる小さな騎士の少年のことを。


「クラウスっ……お前……」


 ノアお兄様が射殺さんばかりの鋭い視線で青年を——クラウスを睨みつける。そうだ、この青年はクラウスで、私の、婚約者となった人だ。


「一歩遅かったな、騎士殿。お前の独りよがりはもうこれで終いだ」


「騎士……ってまさか——」


 意味ありげな笑みを浮かべるクラウスと、衝撃を受けたように目を見開くお兄様を前に、私は未だどくどくと早まる脈を抑えるようにそっと胸に手を当てた。


 ああ、全て思い出した。霞む薄紅色の花弁の先にあった私の記憶を、全部、全部、たった今取り戻したのだ。


 ぽたり、と大粒の涙が一粒零れ落ちた。真っ先に蘇った、本当のお父様とお母様のお顔が、あまりにも懐かしくて、愛おしかったからだ。


 ……フィーネ、こちらへおいでなさい。母様のお膝の上でご本を読みましょうね。


 ……フィーネは肩車が好きだなあ。どうだい、桜の花びらに手が届くかい?


 そうだ、私のお母様は綺麗な薄紫の瞳を持つ人で、その目にはいつも慈しむような温もりを湛えて私をじっと見ていたんだっけ。


 お父様は、よく私と一緒にお外で遊んでくださった。公務がお忙しいのに、私に肩車をしてくださって、あの薄紅色の花弁が舞う庭を散歩したんだっけ。


 ……フィーネ、あまりお転婆が過ぎるのは良くないよ。父上と母上が心配するだろう?


 そうだ、私にはお兄様もいらっしゃったのだ。ノアお兄様とは別の、私とおんなじ黒髪を持った、優しいお兄様が。

 

「っ……」


 あまりの懐かしさに、嗚咽が漏れる。どうして、忘れていたのだろう。こんなにも、優しさを帯びた温かな記憶を。

 

 決して今の家族が嫌なわけではない。血のつながらない私に、過保護なほどの愛を注いでくれた人たちだ。彼らが私の家族であることはこの先も変わらないけれど、それでも今は亡き本当の家族のことを想うと涙が止まらなかった。


「クラウス、フィーネに何をした……?」

 

 いつの間にか私の傍に駆け寄っていたお兄様は、クラウスの腕から私を奪うようにして抱き寄せると、殺意の滲んだ声でクラウスをに問いかけた。


「……桜の花弁を飲ませただけだ。お前が奪った記憶を取り戻すにはこれしかないんだろう?」


「っ……なんてことをするんだ」


 お兄様は苦し気に声を上げたかと思うと、そっと私の顔を覗き込む。


「フィーネ……怖かっただろう? 大丈夫かい?」


「ノア、お兄様……」


 普段とは少し違うその呼び方に、お兄様が眉を顰めるのが分かった。


 ああ、そうだ。私は亡国メルヴィルの王女で、彼は私の遊び相手兼騎士として、私の傍に仕えてくれていたノアお兄様なのだ。


 ノアお兄様は、幼いながらに当代一強いと謳われた吸血鬼だった。血と共に、記憶を奪うと言う特殊な力を授かった、特別な騎士だった。


 国が滅んだ日から、私が本当の家族を想って泣き続けていた日々を鮮明に思い出す。


 ……私が泣いてばかりいるから、お兄様は、かなしい記憶を奪ってくださったのね。


 姫と騎士として引かれていた境界線を踏み越えて、彼は私の「お兄様」になってくれていたのだ。その事実に、またしてもぽろぽろと涙が零れ出す。


「……全て、思い出してしまったんだね、フィーネ」


 どこか諦めたようなお兄様の声に、私はただ泣きじゃくりながら頷くことしか出来なかった。その涙を隠すように、お兄様の腕の中に閉じ込められる。


「フィーネ——いや、フィーネ様。申し訳ありません。あなたが縋った理想の世界一つ守れなくて」


 兄妹として過ごしてきた時間の方が長いのに、こうして敬語で話しかけられるのは何だか落ち着かない。でも確かにこれは、王国メルヴィルにいたときの彼の話し方と同じだった。


「ああ、でも……これでようやくあなたの『兄』でいる必要もないのかと思うと、心が軽いのも事実なんです。こんなときに、己の気持ちばかり考えてしまう自分が嫌になります」


 一度は私を押し倒して、「どうして思い出してくれないのか」と詰め寄ったこともあるノアお兄様だ。相当複雑な葛藤を胸に抱えていたに違いない。


「桜の花弁がまだ入手できるとは予想外でした。あなたの記憶はもう戻ることはないのだろうと、そう思っていたのですが……結果的にこれで良かったのかもしれませんね」


 お兄様がどこか悔しそうな、それでいて安心したように耳元で笑うから、ふと、ここ最近彼に首筋から吸血されたことまで鮮明に思い出してしまった。


 あっという間に頬が熱を帯びる。吸血鬼の本性を露わにしているときのお兄様は、普段にも増して壮絶な色気を醸し出していて、思い出しただけで心臓がばくばくと暴れだした。


 しかも、お兄様は本当のお兄様ではないのだ。それを意識した途端、余計に気恥ずかしくなってくる。


「あ……あの、ノアお兄様、近いです」


 このままではあまりの緊張にのぼせてしまいそうで、何とかお兄様の腕から逃れようと声を上げたが、消え入りそうな声しか出なかった。


「……今更、抱きしめるだけでそんなにお顔を赤く染めてしまうのですか? 僕はもう散々待ったのですから、これくらいじゃとても満足できないのですが……」


 当然だが、いくら敬語で話していてもお兄様はお兄様だ。甘すぎる囁きにいよいよ心臓が爆発しそうな恥ずかしさを覚える。


「二人の世界に浸っているところ悪いが、俺からも色々聞かせてもらおうか? 変態騎士殿」


 クラウスがどこか冷めた目で私たちを見ながら、口を開いた。今ばかりは彼が割って入ってきてくれて助かったような気がしてしまう。


「酷い言われようだ。僕はフィーネ様を守って慈しんでいるだけなのに」


「年下の姫君の記憶を奪って囲って執着している騎士のどこがまともなんだよ。フィーネの記憶を取り返したのは失敗だったかと思い始めているところだ」


「それほどに、フィーネ様に思い出してほしかったんでしょう? まあ、生憎、フィーネ様はお前より僕のことで頭がいっぱいなようですが」


「いちいち憎たらしい口を利く騎士様だな……」


 皮肉論争を繰り広げる二人を前に、何だかはらはらしてしまう。ノアお兄様に肩を抱かれたまま二人の様子を見守っていると、ふと、クラウスの紺碧の瞳と目が合った。


 その拍子に、先ほど押し倒され口付けられたことを思い出し、またしても顔が熱くなる。


 ノアお兄様は私のその様子を不審に思ったのか、睨むようにクラウスを見つめた。過保護なのは「兄」も「騎士」も変わらないらしい。


「……フィーネ様に何かしました?」


「これと言ったことは特に何も」


 クラウスは軽く視線を逸らしてしらばくれた。とんでもない男だ。


「フィーネ様、こいつに何かされましたか?」

  

 心配そうに眉を下げるお兄様を前に、私はクラウスへの憤りを胸に真実を告げる。


「ノアお兄様……私、クラウスに押し倒されて無理やり口付けられたんです……」


「は?」


 先ほどまでの優し気な声はどこへやら、お兄様はやっぱり殺意を隠すことも無くクラウスを見ていた。クラウスは怪訝そうな顔で私を睨んでくる。


「ひどいな、フィーネ。こいつにそんなこと言ったら、俺、殺されるかもしれないんだぞ……?」


「だからと言ってあれはないわよ! 乙女の初めての口付けを……よくもあんな形で奪ってくれたわね」


 記憶を取り戻すきっかけをくれたクラウスには感謝しているが、それはそれだ。やっぱりあんな強引な方法を認めるわけにはいかない。


「何のためにあなた方を引きはがしたと思っているんですか……最悪だ」


 お兄様は額に手を当てて、何やらぶつぶつと呟き始めてしまった。相当ショックを受けているらしい。


「俺が訊きたいのはそれだ、ノア。なぜこんな強硬手段に出てまで俺とフィーネを引き離したんだ? 俺のことが気に食わないにしても急すぎないか?」


 確かに、それは私の気になるところだ。過保護なノアお兄様が私を傷つけてまでクラウスにまつわる記憶を奪いたかったことには、何か理由があるに違いない。


 ノアお兄様は私の視線にも気づいたのか、どこか諦めたように溜息をついて、ぽつぽつと語りだした。


「……あなたが、『レオン』だからです。クラウス殿」


 レオン、それは確かクラウスの本当の名だ。神殿に引き取られる前からずっと呼ばれていた名前だと言っていた。


「……俺の本当の名前が何か関係あるのか?」


 クラウスは訝し気に問い返す。ノアお兄様は、さりげなく私の髪を梳きながら続けた。


「……本当は、あの夜会の時にあなたの血の匂いを嗅いだときから気付きかけていたんですがね……」


 ノアお兄様は、クラウスの目を見据えて、衝撃的な事実を口にする。


「クラウス——いや、レオン殿……あなたは恐らく、亡国メルヴィルの行方不明になった王子でしょう。つまりはフィーネ様の実の兄です」


「俺が……フィーネの、兄?」


 どくん、と心臓が跳ねる。薄紅色の花弁の中で見た、黒髪の少年の陽だまりのような笑顔が思い起こされた。先ほど思い出した、本当のお兄様の姿だ。


 思わず、クラウスの顔をまじまじと見つめてしまう。確かに私たちの黒髪はよく似た色合いだ。ノアお兄様よりはよっぽど、クラウスと私の方が兄妹らしいかもしれない。


「馬鹿げてる」


「本当に、そう思います。でも、あの血の匂いは紛れもなく、フィーネと同じメルヴィル王家のものでしたよ、殿


 ノアお兄様は深い溜息をつくと、クラウスをじっと見据えて文句まがいの言葉を述べる。


「だから一刻も早く引きはがしたかったんですよ。実の兄妹で色恋沙汰に発展しては事ですからね」


 未だ茫然とした様子のクラウスに向かって、ノアお兄様はどこか意地の悪い笑みを浮かべると、私の肩を引き寄せて挑発するように告げた。


「妹に口付けた王子と、姫を慈しむ騎士では、どちらが許されないかは一目瞭然ですね? ……この際、口移しは記憶喪失の治療の一環とみなして口付けに数えないことにして差し上げますから、一刻も早く忘れてください」


 ノアお兄様はどこか勝ち誇ったように笑みを深めると、もう一度ぎゅっと私を抱きしめた。


 クラウスは、呆れとも苦笑ともとれる笑みで口元を引きつらせ、どこか睨むようにお兄様を見据えていたのだった。

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